Mellow / 3



 向かった先は、言って仕舞えば川のトンネルだ。忽ちにただでさえ暗い外の光が遠ざかって消え、風景が黒一色に成り果てても土方の腕を掴んで走る男の動きには澱みも迷いも無い。まるで足下も先も見えてでもいる様に進んで行く。
 浪人風の男たちの走る水音や罵声は暗渠の中に谺し響いたが、視界が真っ暗な上、水位がどこからどの様に増えているかも解らない中に考え無しに飛び込めるものではないと判断したのか、しつこく追いかけて来る様子はない。
 背に直ぐ危機が迫っていないのを感じ取ってか、前を行く男の歩調は段々と緩やかになった。幸いにも雨が暫く無いから水位は低く、端を歩いている(らしい)のもあって足首が浸る程度だ。それでも無造作に水を掻き分け歩けば、閉所では音はかなりの大きさとなって反響する。
 その足音も、進む内に川の僅かの流れに混じってよく聞こえなくなって来たので、土方は光源の何一つ無い暗闇の中、抜き身の刀だけを手に歩を進める己の立ち位置にさえも不安を覚えた。前方に立って手首を掴んで引っ張り続ける、他者の掌の存在が無ければと思うとぞっとするのと同時に、己の意に沿うとは到底言えないその行動にむすりと顔を顰めずにいられない。
 前方へじっと目を細め凝らしてみるが、そこに居る筈の銀髪の後頭部は疎か、掴まれた手首以外の存在を気取る事は上手く出来ない。あちらは間違いなく土方の存在どころか、視界も足下も不確かな暗渠の中ですら道を見通している風であるのに。
 そんな男の名は、坂田銀時。ここかぶき町に住むほぼ無職の男だ。元攘夷浪士と言う噂も──土方はそうだと既に確信しているが──あり、とにかく胡散臭い奴なのだが、荒事には慣れていて腕っ節も確かな男である事は間違い無い。
 「……よく見えるな」
 幾ら目を細めても見えそうもない銀髪頭に向けて、土方が小さな声で溜息混じりにも漸く絞り出したのは、少しばかり感嘆の響きの乗った声になった。口にしてから、褒めている様に取られたら癪だと思いそっぽを向くが、余り意味のない態度だったと直ぐに気付いて羞じを憶える。
 どうにも、この坂田銀時と言う男は土方にとって、主に感情的な面で相性の良くない相手なのだ。土方は舌打ちをする代わりに奥歯に力を込めると、矢張りどうした所で見えそうもないその後ろ頭を無言で睨んだ。
 「まァ夜目は確かに利く方っちゃあ方だが、流石にこんな所じゃ殆ど見えてねェよ。単に壁沿いに進んでるだけだ」
 同じ様な小声で返って来た銀時の言葉は、単なる説明なのか、それとも土方の声に感心する響きがあった事で少しばかり照れくさくなって謙遜してみせただけなのかは解らなかった。
 「…水位が深かったり、ガスが溜まってる事もあるんだ、探検はお勧めしねェ」
 「そりゃ、誰も好きこのんでこんなネズミみてーな真似したかねーわ。状況が状況だったんだ、仕方ねェだろ」
 苦し紛れの土方の悪態に、銀時からも解り易い棘が返って来る。眉間が痛くなる程に皺が寄るのを自覚しながらも、この暗闇で唯一の寄る辺でもある忌々しい手を振り解く事が出来ないのが最も業腹であった。
 「端から、こんな所に逃げ込む必要なんざ無かったんだよ。あの程度の新手ぐらい、」
 「嘘こけ。まだ息も整ってねェし膝だってがくがくじゃねーか。煙草の吸いすぎで体力衰えてんじゃねェの?」
 「っ、んな事ァ無、」
 確かに呼吸はまだ完璧には整っていなかったが、それを気取られる様な息遣いはしていなかった筈だ。まるで一連の感情の流れを含む全てまでを銀時に見抜かれていた様な気がして、土方は思わず掴まれていた手を振り払いかけるが、それもまた予想済みの様に掌に力を込められている。
 「それに、一人や二人と思って見てたら結構な人数が集まって来てたぞ。どんだけ援軍呼ばれてんだか知らねーけど、ありゃァ本格的に命狙われてたやつだよおめー」
 溜息混じりに言うと、そこで銀時は足を止めた。出来るだけ手を引かれるギリギリの距離を歩いていたので何とかその背に衝突する事なく土方も停止すれば、手の動きだけで左の方角へと促される。行けと言う事だろうと思うが、何しろ視界は一面の闇で、左も正面もよく解らない。
 仕方なしに、土方が掴まれていない方の手を左へと游がせてみると、壁沿いを歩いていると言う銀時の言った通りにすぐ横には壁があって、それが少し先で一旦途切れている事が解った。どうやらすぐ左の壁に横穴があって、そちらへ行くぞと言う事らしい。
 「段差と流れがあるから、足下に気ィつけろよ」
 言われて手を引かれる侭に足を慎重に進めれば、小さな段差の先には横道の様な形で別の水路が続いている様だった。傾斜と言う程のものは解る程度には無いが、先頃まで歩いていた水路へと水が流れ下って来ている。
 流れに丁度逆らう様な形で入り込んだ脇の水路の幅は、水の流れからして少し狭い。町中の地下を流れている別の暗渠から合流しているものの一本なのだろう。
 少し奥に入り込んだ所で銀時が再び足を止めたので、土方は自らの懐中をまさぐって携帯電話を取りだした。ぱちりと軽い音を立てて開かれた二つ折りの、液晶が薄ぼんやりと辺りを明るく照らし出すのを見てか、銀時がずっと掴んでいた土方の手を放した。それから、いつの間に拾っていたのか、飛ばした筈の土方の刀の鞘をほいと差し出して来る。
 「……」
 拾っといてくれたのか、とも、ありがとう、とも言い難い。別段恩を着せるでもなくただいつもの、やる気の無さそうな表情で差し出された鞘を無言で受け取ると、土方は抜き身の侭だった刀を、手にした携帯電話の薄明かりの中で収めて腰へと戻した。
 それから薄く光る液晶パネルを改めて見遣るが、そこに表示されている電波レベルは当然の様に圏外となっていた。手元を照らす光源以上の何にもならなさそうな器物に土方は舌を打つ。
 「……十中八九、手配されてる野郎の女が連絡したんだろうよ。野郎は馬鹿な警官殺しで、それを目に入れても痛くないと思ってる馬鹿親が組織の幹部で、結構な権力も人脈も持ってやがるからな」
 沈黙を恐れる様に、土方が結構に多かったと言う援軍の正体についての見解を半ば独り言の様に述べると、銀時は薄ら明かりの下で片眉を持ち上げて肩をすくめてみせた。
 そんな銀時の態度を、そりゃ大変なこって、と大凡そんな風に解釈した土方は携帯電話を閉じた。再び戻る真っ暗な闇の中、銀時の重たげな溜息が聞こえてくる。
 「ったく、何だか知らねーけど今日はツイてねェ事ばかりで参ったもんだよ。挙げ句の果てには、こんな寒い季節にまさか水遊びする事になるたァ思って無かったわ」
 「…勝手に首突っ込んだのはてめェだろうが」
 不本意ながら手を貸された事に代わりは無い。それは承知しつつも言い返さずにいられないのは、苦手な男に対する土方の意地の様なものだった。子供じみたものだとは思うが。
 「つーか、おめーずぶ濡れだろ?上着はもう脱いじまえよ。動き難そうだし、言いにくいけど何か臭うし」
 土方の指摘が図星だったからかどうかは定かでないが、銀時はまるで違う事を、天気の話でもする様に無造作に言って来る。暗闇では見えないが、少しくぐもった声からして態とらしく鼻を覆っている様だ。
 「………」
 無言で、自らの腕を持ち上げて土方は鼻を鳴らしてみる。確かに、ずぶ濡れの上着など着ていても役に立たないし、体が冷えるばかりではある。
 「…どうせこんな場所じゃ、臭うも臭わねぇも無ェだろうが」
 ぼやきながらも、土方が素直に濡れて脱ぎにくい上着と格闘し始めたのは、銀時が嫌味ったらしく言う程では無いにせよ、確かに少しばかり生臭い様な気がしたからだ。
 隊服の上着には機能的な程の撥水加工はされていない。重たい生地は川の水を吸っていて更に重量を増している。摩擦係数の増した袖から苦労して腕を抜くと、澱んだ水と空気に挟まれた中であっても、少しばかり身が軽くなった気がした。
 同時に、湿った肌を覆う布の重みが減った事で二の腕が粟立つのを感じて密かに身を震わせる。帰ったらまず熱い風呂に入りたいと心底思いつつ、再び取り出した携帯電話を開いて辺りを見回してみた。薄ぼんやりとした液晶パネルの光源は、他に照らすものの全く無い暗闇の中ではそれこそ何かの光明の様にさえ見える。
 とは言え、その明かりで照らされた、水のひたひたと流れる横穴の先はそんな小さな光明だけでは見通せない程に暗く、狭い。排水路として水が流れて来ている以上、先に進んだ所で町中の暗渠に人の通れる出口があるとは思えない。
 そもそも土方は町の表面上の地図には詳しいが、地図に載っていない水路までは流石に知り得ていないので、現在地がどの辺りの地面の下であるかすら判断が出来ない状態である。
 ちらりと銀時の方を伺うが、それだけで土方の言いたい事を察したのか、彼もまた無言でかぶりを振った。幾らこの暗渠への一時待避を促した張本人とは言え、銀時が偶々に下水道にも排水路にも精通している特技を持ち合わせている事など、普通に考えれば無い話だ。然程に期待はしていなかったが、どことなく途方に暮れた心地になって土方は携帯電話を閉じた。
 「多分にこの川には幾つも河川が流入してるしな。見える所も見えない所でも。ボートでもありゃ別だが、どのみち水位がはっきりしてねェ以上、動き回んのは得策たァ言えねぇ」
 ぐるりと、全く先の見えそうもない闇を見回して言うと、土方は横穴から顔をそっと出して、右方面──歩いて来た方角──を伺い見た。
 真っ直ぐに作られていない水路からは、入って来た筈の川の風景すら見えない。外も夜とは言え、この気の滅入りそうな黒い闇よりは幾分もましに見えるだろうに。水路の箇所箇所には今二人の潜んでいるのと同じ様な横穴が左右に幾つか他にもある様だが、どれも此処とほぼ変わらぬ風景が拡がっているに違いない。
 「連中も、偶々呼ばれて集まった様なもんなら、少し待てば諦める筈だ。それに、追跡の前に山崎には連絡は入れてある。真選組(うち)の援軍も遠からず到着するだろう」
 「賛成」
 土方の提案に少し間延びした調子で同意を示すと、衣擦れの音を立てながら銀時がその場にしゃがみ込む気配がした。『少し』と言う土方の目算を額面通りには受け取らなかったのだろう。土方とて己の意見が多分に楽観的なものである事は理解していたが、現状出せる手札にそこまで期待が出来ないと思われているとなると、少し心苦しいものがある。
 「……悪かったな」
 やがて、水音に紛れぬ程の声量でぽつりと呟いた土方に、「へ?」と間の抜けた一音が返る。その声から、口を円に開いて呆気に取られている表情の想像を闇の中へと描く事が容易に出来て、土方の口には思わず笑みが浮かんだ。やっと、何かと己の先を行って仕舞うこの男に少しばかりの仕返しが出来た気がした。
 「手前ェの為体が原因で巻き込んじまった訳だしな。正直、済まねぇとは思ってる」
 顔が見えないからなのか、普段であれば僅かに思ったとて飲み込む事の多い類の、謝罪としか取れない言葉を紡いだ土方に、銀時はあからさまに動揺を憶えた様だ。ばりばりと頭を掻く音に小さな溜息から、今度はばつの悪そうな表情の想像を見出して仕舞う。
 「てめーが謝るとか、らしくねェ事すんのやめてくんない、それ完全にフラグだからね。何か良くない事が起きるやつだからね?」
 「言っておきたい気分だったんだよ」
 「だーかーらー、別に謝る様なもんじゃ、」
 く、と喉奥で笑う土方の声音を聞きつけて、銀時は続けかけていた文句に似たものを途中で溜息に変えた。滅多にない言葉だから受け取ってやっても良いと思い直したのだろうか。それならば良いのだが。
 何れにせよ、至近に立った所で違いの表情すら伺えぬ様な暗闇だ。泣こうが笑おうが、相手に気取られぬ限りは効力を持たない。闇は人を饒舌にして、原初の恐怖を払わんとする防衛本能で感情も豊かにするものなのかも知れない。
 先頃までは、歩く背も己の掌すらも見えずに居た事に不安を覚えたと言うのに、相性の宜しく無い男の動揺を感じられた程度の事で気分が上向くとは、単純なものだとは思う。
 (助かった、とは、思ってても言わねェ癖にな)
 それどころか、気取られたくすら無い事だ。…全く無駄な意地だが。
 あらゆる意味で視界ゼロの暗闇に、今度は真逆にも感謝さえ憶えながら土方は、今は乾ききっている水路の壁にそっと背を預けた。







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