メルトローズ / 2 蒸された大気の如くに湿気て息苦しい。風呂から上がって身体はさっぱりとしていたが、戸を開けた途端に感じる程に部屋中に満ちた生々しい、原生植物の覆い繁る南国の倦怠感にも似た空気は未だ膚にねとりと絡みついてはしつこく情欲を疼かせていけない。 とは言った所でヤってヤりたりない様な年頃では互いに無いので。未だ互いの体臭を沸き立たせている様な気さえ起こさせる煎餅布団から目をそっと逸らして、土方は窓辺に寄り掛かる様にして畳に直接座り込んだ。 律儀にも畳んで置かれている隊服に手を伸ばすと、ポケットを探って煙草を取り出す。脱がされた時には畳んだ憶えなぞ当然無いので、土方が風呂に入っている間に銀時が畳んでくれたのだろう。 皺になっている事を懸念するが、それはそもそも隊服の侭で来た土方自身の責任である。脱がせた側にも多少の責任はあるとは思うが。何しろ隊服の侭でこの場所を訪う事は滅多に無い事なのだが、今日は仕事上がりに直接寄ったので致し方ない。 見廻りの最中にいつもと何ら変わらぬ暢気な風情で声を掛けられ、世間話に交えて明日がオフである事をそこはかとなく臭わせて伝えれば後は互いに得た様に容易い。 「じゃあ、酒用意しとくわ」 そう通り過ぎ様に耳元に囁いて寄越した銀時の声は、未だ陽も沈んでいない時間だと言うのに、明るい場所には実に似つかわしくない種の熱情を孕んでいた。その声音だけで互いの時間と身体の距離感を思い知った土方もまた、背筋を甘く疼かせる期待に思わず不機嫌顔で誤魔化して目を逸らした。 後は夕刻の見廻りに出る時に、その侭呑みに出ると言い残して屯所を出た。かぶき町の近くを通りながらも通り過ぎて着替えに戻る。たったそれだけの時間でさえももどかしく感じられる程に、一度熱を思い出した肉体は正直に恥知らずにも餓えを訴えて来たのだ。 降り出した雨に追われる様に万事屋の扉を叩いて──それからは先程までの通りだ。充足の味を知って仕舞ってから憶える飢餓感は、一度に大量に満足感を得た所でまた直ぐに餓えを取り戻して、身の裡で燻る熱を益々に苛烈なものへと変えて行く。食しても、食しても、食い切れず食い足りない。 ともすれば熱の味を思い出しそうな頭を軽く振って土方は煙草をくわえた。火を点けると大きく息を吸って、吐く。澱んだ空気の中に吸い込まれた煙が意図せず室内の倦怠を増した事に気付き、そっと背後の窓を細く開いてみた。雷の音はもうしない。雨はまだ音を立てて降って来てはいたが、風が無いからほぼ真っ直ぐに庇を打っている。この分なら吹き込む様な事は無いだろう。 膚に触れた清浄な湿り気が思いの外に心地よくて、土方は窓に横向きに寄り掛かる様に体勢を変えた。借りた着流しを万一にでも汚すのは忍びなくて、時折片手を軽く外に出して煙草の灰を落とす。 外の空気との接点が出来たからか、室内の噎せ返りそうな澱みや性の気配は徐々に攪拌されて消えて行く。名残惜しいとは思わないが、この万事屋と言う家屋の中には陽さえ昇ればいつも通りに子供らが訪れるのだと──帰ってくるのだと──思えば、それを時に居た堪れないと感じる事はある。 月に大体一度や二度。多くて四度が良い所の逢瀬は、その殆どが万事屋の家で行われる。外に呑みに行ってもその足で向かうのは常宿ではなくこの家である事が圧倒的に多い。銀時がホテルや宿に金を落とすのを渋るからと言うのもあるが、最近は何処に何の眼があるかも解らない世の中だ。そう言った連れ込み宿の類に勝手の解らない土方にとっても盗聴器や盗撮や下衆の勘繰りを避けられる、リスクが無く安全な場所と言うのは実際の所有り難いと言えた。 それらの安全保障と引き替えならば、煎餅布団の狭さや、子供らに感じる後ろめたさやこの場所に憶える居た堪れの無さなど堪えて然るべき代償である。実のところ銀時がどう言った『理由』を付けて同居人である神楽をこの家から出すのかと言う事は改めて問いた事は無かったが。 どの道、どう言い繕ってみた所で土方が自身を浅ましいものであると思える事に変わりはない。ここで行われる行為が出来れば秘めておきたい類の、生々しさも顕わな大人の『付き合い』である事は否定しようも無い事実だ。 洗ったばかりの未だ湿気た髪が雨の気配を直ぐ近くに受けて重たい。心地よい筈の疲労感と裏腹の倦怠券を持て余した侭目を細めていると忽ちに眠気が意識の何処からともなく這い上がって来る。流石にこんな場所で眠るつもりは無いが、微睡みに任せて舟を漕ぐのは気持ちが良い。眠気と言うのは自然とこうして眠くなるタイミングでこそ晴らしておくものだと、仕事の最中に時折そんな事を思う。尤もそう言った時の眠気は長続きしないからこそそう思えるものなのかも知れないが。 そして図らずも土方の今の眠気も突然中断される事となった。 「オイ、こんなとこで寝んなって」 ぐしゃり、と湿気た髪を上から撫で掻き回されて、土方は「うん、」と小さく頷いた。眠気に上手く働かない言語中枢が発した幼さのある応えに、苦笑した銀時がますますぐしゃぐしゃと髪を掻き回して来る。 本気で寝ちまう気は無いから大丈夫だ、と言葉は浮かぶのに声には出ない。重たい目蓋を無理にしばたかせて土方が暫し微睡んでいると、頭髪を弄くっていた銀時の指が毛束の一部を摘んで軽く引っ張った。 「アレ。ちょっとちょっと土方くぅん?オメー白髪生えてんぞ?」 「ハァ?嘘抜かすな」 聞き捨てならない単語に思わず微睡みの心地よさごと眠気を蹴り飛ばして土方は眉を寄せた。頭頂部辺りの髪を摘んでる銀時の手を払って、自分で前髪を持ち上げて見上げてみるが、至近の物体にはピントも合わないしよく解らない。 「いやマジだって!ほらここ…って混じって解んなくなっちまったじゃねーか!」 猶も言い募る銀時を無視して土方は辺りを見回してみるが、部屋の中に鏡の類は残念ながら見当たらなかった。指摘に対する確認や否定の出来ない不快感に、ち、と舌打ちをして不快な発言を寄越した男の事を睨め付ける。 髪に纏わる現象や言葉は幾つもあれど、白髪、などと言うものは中年ぐらいまでの人間にとって共通と言っても良いだろう、忌避に値する言葉の筆頭だ。ちなみにもう一つは、禿、である。 特別髪に愛着がある訳でも手入れに勤しんでいる訳でも無い土方だが、髪の量は多い方だと認識していたし、白髪や抜け毛の類など老年になるまで(それまで生きていられたら、だが)無縁の話だろうと信じて疑っていなかった。 個人差はあるだろうが、普通は土方ぐらいの年齢で白髪となると若白髪と言うものに当て嵌まる筈だ。原因としては栄養失調や精神的な疲弊に多いと言われているが── 「ストレス溜まる様な職場環境を改善でもしたらどうよ?」 栄養失調は有り得ないので却下。精神的な疲弊、と考えた瞬間にふと脳裏を過ぎった幾つかの顔に思わず顰め面になる土方に、追い打ちを掛ける様に銀時の発した『職場環境』の言葉。 にやにやと意地の悪げな笑みを湛えている銀時の頬を抓ってから、土方は「痛て」と顔を背けた事でこちらを向いた彼の側頭部を掴んだ。白くも見える銀髪の、柔らかで絡まる手触りを引っ張る事で楽しみながらもそんな態度はおくびにも出さず口を尖らせ言ってやる。 「てめぇなんざ全部白髪みてェなもんだろうが。白髪の一本や二本混じっててもこれじゃ解らねェな」 「白髪じゃありませェん!第一白髪が出来る程ストレス溜めてねーし!溜めてんのは家賃の支払いぐらいしかねェっつぅの」 「自慢出来る事でも何でも無ェだろうが、阿呆か」 気の抜ける銀時の言い分に、憤慨していた心が急速に疲労感と諦めとを憶えて潮の如くに引いていく。銀時は口喧嘩をする時は相手の弱い所や痒い所を容赦なく突き散らすハゲワシの様に狡猾な男だが、こう言った時の様に、喧嘩にはなりたくない時には見事に土方の振り翳した刃を受けて流して仕舞う。掴み所の無い雲の様な奴だ、と銀時の様をして思うのはこんな時特に、だ。 ともあれ、口論がそれ以上続く気分でも空気でも無くなった。土方はもう一度舌打ちをすると銀時の頭から手を離した。短くなりすぎた煙草を携帯灰皿に棄てて新しい一本を取り出そうとした手は、然し銀時の手にやんわりと押さえられて止まる。 「煙草は後にしろや。飯食うだろ?」 何だ、と見上げれば、そう腕を引いて促され、土方は嘆息しながら煙草を袂に仕舞った。 「食う」 大儀そうに答えて立ち上がる。夕方の見廻りが終わって直ぐにここに向かったのだから、思えば夕食がまだだった。到着するなり致したり軽く眠ったりしていたものだから、時刻的には夕飯には少しばかり遅い程度になっている。 「……ま、疲れてんのは本当じゃね?栄養つきそうなもん作ってやっから」 大概空である事が多い万事屋の冷蔵庫事情だが、土方が以前に、己の宿泊時用に使え、と適当な金額を預けたからなのだろう、約束の取れた日には酒の他にもわざわざまともな食事が出せる程度の食材を入れておくらしい。 その気遣いやまともな食事を子供らにも回せ、と言ってやろうかと思ったが結局土方の口からその言葉は未だ出てはいない。子供らの事を憎まれ口を叩きながらも放ってはおかない銀時の事だ、土方が言わずともそんな事はとっくにやっているに決まっている。 寄せられた人差し指の背で目元を軽くなぞられるのに目を細めて応じる。また隈が出来ているとでも言いたげなそんな仕草も、土方と同じ様に疲労と気怠さが残っているだろうに遅い夕飯を手ずから用意してくれると言う申し出にも。全てから銀時の気遣いを感じ取る事が出来た。 それは、会う度互いに獣の様に求め合っては、燻る燠火の様な情欲を抱え持つ二人には凡そ似つかわしく無い程の、優しく穏やかな情の交わし合いだった。 劇場版なので既にネタもオチも見えてます。 ← : → |