たなごころ / 2 良い天気だった。前日の急な雨はまだ朝の空気をしっとりと湿らせ、不快では無い程度の気温と爽やかな風とがゆっくりと歩く土方の頬を撫でて通り過ぎていく。 ここの所忙しくて減っていた睡眠時間と反比例する様に増えた、目元の隈の深さを指で軽く擦ると、土方は穏やかな陽気に誘われつい出そうになる欠伸を噛み殺す。眇めた目に口端を下げた表情は不機嫌か物騒かの何れかにしか見えなかった様で、刀を腰に下げた黒い服装も相俟って、さっと視線の先の人間たちが目を逸らすのが見えた。 別に、今更の慣れた光景だからか特に苛立ちを憶えたり、況してや傷ついたりする事など無いが、余り面白いものでも無い事だけはそう変わらない。 江戸を護る武装警察と言うのは立派な職業かも知れないが、無いので済むなら無い方が良いに決まっているのだろう。多くの人にとっては、過ぎたる武力は何れ暴力に繋がると批判されがちなのだが、現状の江戸に度々起こり得る様々な事件や事物を思えば、こんな武装警察の警戒ですら無ければ一気に治安は悪化するだろう。江戸に今在る仮初めの平穏など、恒久の平和になど到底足りやしないのだと、土方は実際現場に立つ人間の一人としてそう感じている。 刀は未だ、武装警察は未だ、この江戸に必要なものなのだ。果たしてそれで解決出来る物事が、日々江戸に起こる様々な事件に於いてどれ程の割合いだとしても。 愚痴っぽくなった己の思考を振り払うと丁度、ほぼ隣を歩いていた沖田が、こちらは全く隠す気配もなく大きな欠伸をしてみせるのが目に入った。土方はそっと両肩を落とすと、相変わらず不真面目な態度を(特に土方の前では)隠さない年下の部下に向けて、小突く様な仕草をやった。 「今日も平和なもんですねィ」 実際に触れてもいない拳骨をひょいと避ける様な動作を態とらしくしながら、沖田はぐるりと辺りを見回す。「だな」と、伝染りそうになった欠伸を再び噛み殺した土方もそれに倣って頭を巡らせてみれば、午前中の、一日が漸く動き始めたばかりの町の風景が全方位に見渡せた。 配達に駆け回る人、開店の暖簾を上げる店、携帯電話で話しながら忙しく動き回る人。江戸の町は今日も雑多で平穏な一日を過ごす為の準備を始めており、勤勉な江戸っ子たちのきびきびとした動作もあってか、少しばかり忙しない風景にも見える。 雨のすっかりと上がった街路にまだ残る水たまりも、これから陽がぐんぐん昇ればやがて直ぐに乾いて消えて仕舞うだろう。湿気は未だあるが風はあって、暑くはないが涼しくも無い。春先の、穏やかで過ごし易い一日になるでしょう、と天気予報のアナウンサーが言っていたのを食堂で聞いた気もする。 朝の見廻りは、正直な所を言えば平和で暇なものだ。朝から犯罪行為に励む様な勤勉な攘夷浪士など存在しないのかも知れない。大概彼らが何か行動を起こすのは夕方から夜にかけての事だ。 土方は、沖田曰くの『平和』そのものでしか無い町を、わざとらしく頭を巡らせ見つめてから、気付けば止まって仕舞っていた歩を再開させた。 沖田の言う事にも頷けるし、土方とてその通りだとは思っている。朝の見廻りなど正直大した意味も成果も無い事が殆どだ。その為土方は見廻りに既に立った日であっても、一日の終わり頃の個人的な巡回は行って仕舞う。そちらの方が余程に『何か』が起き易いからだ。 ……だからと言って止める訳にもいかない。昼食までの時間を腹減らしに使う散歩程度にしかならずとも、『真選組』がその存在を主張する事は抑止であって仕事だ。 (『平和』ってやつに疎まれようが、未だ平和ボケ出来る様な世界でもねぇ。トラブルだの厄介事ってのはどんな時だろうがやって来るもんだ) 江戸の町は一見して平和そのものにしか見えないが、その陰や闇のそこかしこでは未だ不穏な空気が凝っている。それは全ての町民を巻き込む様な類ではないが、時に危険を招く事はある。 指名手配の攘夷浪士たちも、果たしてそんな闇から出て、この『平和』な午前中を暢気にパチンコでもしながら過ごしているのかも知れない。 思いついてそっと雑踏の顔を見つめてみるが、そう都合良く指名手配されている凶悪な攘夷浪士がその辺りをふらふらしていると言う事は残念ながら無さそうだった。 「眠そうですねィ」 「……まぁな」 集中力の些かに欠けている自覚は己であっただけに、土方は沖田の不意なそんな指摘に、上手く躱す言葉も言い訳も思いつかず、曖昧に頷いた。 「こんな、朝散歩も良い所の務めでさァ、適当に部下の誰かに押しつけてやっても良いと思いますがねィ」 「…てめぇの目的はそうやって、口煩ェ俺よりも御し易い部下に交換してぇだけだろうが」 一見親切ごかして聞こえなくもない提案を寄越してくる沖田を横目に軽く睨むと、何のことだか、と言わんばかりの空とぼけた表情を返された。 「部下の進言ぐらい素直に受け取っときなせェよ」 「生憎と俺には下心しか見えねェんだがな?」 毎度の馬鹿な遣り取りだと思う。寝不足で回転数の鈍った思考を持て余しながら土方は、朝の時間帯は車輌の通行の無い繁華街の道へと入った。この辺りは警戒ルートだ。大きな犯罪の気配と言うより、軽犯罪への警戒がその殆どだが。 「全く毎度の事ながら失敬な野郎でィ。死ね土方。俺ァただ楽してサボる事には労力を惜しまねェだけでさァ」 「本音駄々漏れてんぞ。…まぁ良い、一応警戒区域だ、集中しとけ」 堂々と本音をこぼす沖田へと、呆れより疲労の質の濃い溜息を落とすと、土方は意識して背筋を正した。沖田は相変わらず余り気の無さそうな様子でそんな土方の斜め後方に続く。 「深夜泥酔して朝財布がねェとか、そんな程度しか転がってやせんけどねィ」 何のことはない、沖田とてこの、何事もない午前の見廻りが退屈だと言う事なのだろう。気持ちはよく解るが同意する訳にもいかず、土方は肩を竦めつつ視線を前方へと向けた。深夜営業の店の多く立ち並ぶこの界隈は、今の時間は殆どの店は営業終了時間を迎えていて静かだ。片付けや掃除の時間にあてられているのか、シャッターを半分程下ろした所から、従業員らしき人間が時々出入りしている動きだけが見える。 と──、不意に前方にきらりと光るものが見えた気がして、土方は思わず目を眇めた。程なく全容のはっきりする、光ったものの正体は人間の頭髪だった。 前方に現れたのは、銀髪の、男。 (……朝っぱらから碌でもねぇ) 正直にそう思って、土方は舌を打った。男の髪色と言い服装と言い、言うまでもなく見知った相手の特徴に合致する。 暇な、然し平和の維持には必要と思われる、退屈な見廻りの最中にわざわざ好んで会いたい者でも無いのは間違いなく──否、それどころか極力遭遇したくはない手合いだ。 寝不足も相俟って土方は己の表情筋が不機嫌の形を露骨に描く事に気付きはしたが、改める気もせずに黙って歩を進めた。 前方に現れた男もまた、真っ直ぐにこちらに向けて歩いて来る。その進路が、車両通行可能な時間帯であれば両側通行でもある筈のこの道幅があれど、何故かぴたりとかち合う未来が見えた気がして、土方はうんざりと前方の男を睨みつけた。まだ表情の機微など互いに伺える距離ではなかったが。 互いに道を僅かでも逸らす気配の無い事に、解ってはいたが苛々と眉を寄せる。普段なら喧嘩の一つや二つ構わない所だが、こんな寝不足の退屈な朝にはとてもそんな気分にはなれそうもない。 「ありゃ、旦那ですねィ」 「…だな」 「こんな時間に起きて活動してるたァ、珍しい事もあるもんで」 「……昨晩は雨だったからな」 同じ男の姿を認識した沖田が態とらしく額の上に掌で庇を作って言うのに、土方はふんと鼻を鳴らした。早起きと言うより、きっと酔いつぶれてこの辺の軒下で眠っていた口だろうと言う想像は恐らく違えてはいまい。そんな確信だ。 と、不意に、こちらに向けてゆっくりと歩いて来ていた様に見えた男の足が地面を蹴った。忽ちに縮まる彼我の距離に、土方は思わず足を止めてその場で身構え、沖田も驚いた様に一歩横にずれた。 猛ダッシュとしか言い様のない速度で、男がぐんぐん近づいて来るのに、土方は咄嗟に、避けるべきか迎撃するべきかを悩んだ。手は無意識の内に腰の刀へとかかっていたが、ただ走って来ただけの元攘夷浪士相手にいきなり抜く訳にもいかない。 そもそもこの男が警察であり顔見知りでもある土方に、わざわざ牙を向ける理由も無い筈だ。 「──っ!」 判断の迷いが寸時動作を鈍らせ、土方はこちらに向けて最早突っ込んで来ているとしか言い様のない男を避けようと身体を捻るが、時は既に遅い。 飛びかかる、と言う言葉の通りの動きで、銀髪の男は放たれた猟犬か何かよろしく、回避動作に入ろうとした土方に向かって飛びついて来た。それを躱し損ねた土方は、慣性のついた男の体重を受け止める事が出来ずに、為す術もなく地面に仰向けに転がされる。 「!?」 散々培われた生存本能や戦いへの意識は、土方の寝不足の脳でも直ぐに活性化し、目は状況把握をすべく忙しなく真上の空を游いでから、己にのし掛かる坂田銀時と言う名の厄介者へと向けられた。 取り敢えず、どうやら己は、突如飛びついて来た銀時(それ)に因って地面に押し倒されたのだろうと、はっきりとした結論を下し、土方は起き上がろうと藻掻いた。 喰らったのは、アメフトでもやっていたのかと言う勢いのタックルではあったが、幸いにも頭や身体を酷く打ち付けたりはしていない様だ。 …と言うのに、どう言う訳なのか身体が動かない。両腕は身体の横でがっちりと押さえつけられているし、足にもまた重たい重量がかかっている。 「……?!?!?!?!?」 ここに来て初めて明確に己の現状を客観的に判断出来て、土方はぞわっと全身に鳥肌を立てた。 犬か獣の様に飛びついて来た男は、どうやら土方の身体を真っ向からその逞しい両腕でホールドしており──、 ……つまる所、抱きつかれ押し倒されていると言う状況だ。 「〜!!」 腹筋に全力で力を込めて、土方は両腕をがっちりと抱え込まれながらも何とか上体を僅かに起こした。その侭視線を下に向ければ、隊服の胸元に顔を埋めている男の、特徴的な銀髪が視界に入る。 「何してんだ、助けろ総悟!」 ぞわ、と再度背筋を走った怖気に、叫んだ声は上擦った。こんな、擬音にすれば「むぎゅう」としか言い様の無い、過剰過ぎる接触をする様な相手ではない事など明らかに過ぎる。否、仮にこれが土方にとって最も親しい人間の一人である近藤であったとしても、こんな、大型犬が主人に懐いた時の様な事など普通はしないだろう。例えば、余程酔いつぶれたりでもしていない限りは。 そんな、『銀髪の大型犬に飛びつかれて抑え込まれている』としか言い様のない土方の姿に向けてカシャカシャと、スマートフォンのカメラを向けてシャッターを連続で切った沖田は、土方の狼狽など意にも介さぬ様子で暢気そうに、 「旦那ぁ、朝っぱらからお盛んなのは結構なんですがねィ、町中で致されんのは流石にちょっと。警察としても黙ってる訳にはいかなくなっちまうんで、弁えちゃ貰えませんかねィ」 などと抜かして寄越した。どうやら土方を救出してくれる気は全く無いらしい沖田のそんな様子を睨み付けて土方は歯軋りした。眼前の寒気から必死で目を逸らして、沖田に対する憤慨に逃げようとしているのだとは気付いたが、真っ向から事態を受け入れるには未だ抵抗の方が大きい。 「あー、そうだな」 己に抱きついている男が思いの外明瞭な声を出した事に気付いて、土方ははっと我に返った。沖田の様子と言い、これは酔い潰れたりした末の暴挙と言う訳ではなく、単に折り合いの悪い己へのイヤガラセか悪戯なのではないかとそう判断し、がっちりとホールドされた形になっている両腕を、怒りに任せて振り解こうと藻掻く。 一息に上体を起こした銀時は自然と、藻掻いていた土方の両腕を解放して、それから。 「地面だもんな、背中痛ェよな。気付かなくて悪ィ」 「………………」 ふ、と。その時銀時の浮かべた表情が余りにも理解不能で、土方はその場に凍り付いた。背筋がぞわぞわとして、冷や汗が背骨の上を伝い落ちるのが妙にはっきりと感じられる。 笑み。優しい微笑、としか表しようの無いだろう笑みを浮かべたその面相は確かに見覚えがあると言うのに、その形作る表情や紡ぐ言葉がさっぱりと、土方の記憶にある坂田銀時像に一致しない。 更には、凍り付いている土方へと掌を差し出すと、腕を引いてその場に起き上がらせた。…かと思えば、まるで大きなぬいぐるみでも抱っこする様な勢いで、銀時は再びがっちりとその身をホールドする姿勢に入った。 「ったたたたたたたたすけろ、そうご、」 背を駆け上った鳥肌と悪寒にがくがくと震えた声はぎこちなく吐き出されるが、悲鳴としか言い様の無いそんな声は空しく響いて誰にも届かなかった。 周囲を歩いたり店の掃除をしたりしていた人々がちらちらと好奇や不気味なものを見る様な視線を向けて通る中、武装警察の装束を身に纏った土方は、その役割に全くそぐわない事にも、この突発的で意味の解らない『事態』をどう扱って良いのかが全く解らず、ひたすらに混乱して、思考停止に陥りかけていた。いっそ現実逃避と言った方が良かったかも知れない。 ぴったり貼り付いている熱い体温に、優しげに背中に触れている掌に、然し真逆に血が一気に下がって、下がりきって妙な寒気すら憶える。平和が、退屈な見廻りが恋しい。心底にそんな事を思う。 「土方さん」 そんな土方の眼前に、沖田は自らのスマートフォンの画面を向けて寄越して来る。先程よりも更に悪いとしか言い様のない、『抱きつかれ』ている状況に寒気なんだか怖気なんだか恐怖なんだか──とにかく混乱しきっていた土方は、眼前数糎の所に向けられた液晶画面を、そこに表示されている情報を時間をかけて見つめた。 「多分、コレなんじゃねーですかねィ」 言って、沖田が示すのは、ネットニュースらしき画面。その見出しを土方は五回、繰り返して読んだ。読んだが、上手く咀嚼出来ずに困り果てる。 『モフモフ病蔓延中』 短いその文章を、無意味にも繰り返し読むこと六回目。矢張り訳が解らず、土方は己を全力で抱きしめている銀髪の後頭部を、力無く見下ろした。 。 ← : → |