たなごころ / 5 以前幕臣の警護の任務の時、庭を散歩する護衛対象の後ろをついて回った事がある。 手を掛けたと思しき庭は確かに一見見事なもので、主人の趣味は、護衛や客に自慢がてら小振りな池の周囲を歩く事であった。 池には沢山の錦鯉が放たれていて、主人が池の畔に立つや、餌を求めて一斉に目の前に集まって来て、折り重なる鯉の群れが上げる叫びの様に水音が響き渡っていて、見事と言うよりも見苦しいと思ったものだった。 狭い水の中にひしめき合い折り重なって餌を乞う鯉たちは、果たして苦しくは無かったのだろうか。居心地が悪くとも、小さなその池から出る事は出来ない、そんな理不尽を嘆いてはいなかっただろうか。そんな事を思いながら土方は、薄く開いた瞼を重たい動きでゆっくりと上下させた。 (そりゃ、苦しかっただろうし、しんどかっただろうよ。恐らくは人間の想像する以上にはな) 投げ遣りな結論に、肺が一瞬膨らんで直ぐに萎んだ。何故今そんな事を思い出しているのかと言えば、今の自分もあの時の錦鯉たちに劣らぬぐらいに酷い不自由さを伴った環境にいるからである。 (………結局殆ど寝れてねぇ) 恐らく昨日より更に深くなっているのだろう、隈の浮いた目元に自然と力がこもる。碌に動かせない頭の、視線の向く先には夜明けの刻限をそろそろ告げる、空の明るみ始めた窓辺。 僅かに身じろげば、腰に回された腕に力が込められた。背中に感じる途方もない、人間一人の体温はこの季節には少し暑すぎるぐらいだ。布団の中で適度に保たれた温度と湿度とは、決して寝苦しい程と言う訳でも無かったのだが。 (温度はともかくとして、──こんな貼り付かれてて熟睡出来る訳ねェだろうが、馬鹿か!) 理不尽とストレスとで苛々と喉奥で呻いた土方の背中に、仕事をしていた時同様に貼り付いている男からはすやすやと規則正しい寝息が聞こえて来る。のがまた腹立たしい。 夜寝る時に土方用にと客用の布団を敷いて貰う事になったのだが、これが元からこの寝室で眠っている銀時の布団とぴったり隣に敷かれたかと思えば、いざ布団に潜り込んだら二枚の布団の僅かの隙間などと言う国境は一瞬で乗り越えられて無かった事になった。 モフモフ強迫観念に襲われているらしい銀時は、起きている時同様に当然の事の様にして寝に入ろうとした土方の身体をがっちりと抱え込んで仕舞ったのである。 二組の布団などこれでは何の意味も無い。一人と一人で二組なんだろうがと言った所で無駄だ。 布団の内側で、背中側からぴったりと腰を捉える様にして抱き込まれた姿勢に、言うなれば閨事以外ではあり得ない程に近い人肌に、当初土方は抵抗した。そりゃもう全力で。 然しモフモフ病に罹った銀時の暴挙もまた、常の無駄な馬鹿力や体術を容赦なく駆使すると言ったもので、土方の抵抗はあっさりと──と言うと業腹だが──抑え込まれて終了。 結局、押し倒し押し潰される様な体勢よりはマシだと、最初に布団を越えられた時同様に背中に貼り付く事を許す事となって──この様だ。 抱き枕か情人かペットでも抱えている様な態度で銀時は健やかな寝息を立てているが、抱え込まれている側である土方はそうもいかない。息遣いはすぐ首の後ろで感じられるし、布団の下で籠もった体温は熱いし、てのひらはぴたりと身体に触れているし、身じろぐと逃がすまいと力が強くなるしと、はっきり言って異常過ぎる事態だ。大の大人の男二人が布団の中で寄り添う、画も恐らくは大層に奇矯だろう事は客観的な想像にも易い。 鳥肌を立てるには暑すぎるし、振り解くには強すぎるし、殴るには近すぎる。だからと言って、子供の頃でもあるまいし、この年齢になって同性と添い寝したいなどとどうした所で思える筈もない。 そんな訳で、睡眠不足の土方はここに来て更なる睡眠の敵に遭う羽目になったと言う訳だ。寧ろ、こんな状態で眠れる銀時の方がおかしいとしか言い様がない。 (…まあ、寝てる時なら、呪い的なアレは出てこねぇからその点は良いが) 日中散々、かわいいかわいいと編集音を入れて消したくなる様な戯言を紡ぎ続けていた口は、寝言一つ漏らさない。時々寝息の合間でむにゃむにゃと呻く程度で、静かではある。 最悪としか言い様のない状況の中で、ほんの僅かでもマシと思える様な事を探そうとしている己に嘆息すると、土方は再び窓辺を見遣った。先頃より増した気のする明るさに目を細めながら、そろそろ起きなければと思う。屯所ではない上、休暇中の土方に早起きの必要は無いのだが、培った生活習慣は大事だ。生活リズムを乱す事で下手な不調など起こしたくはない。 問題は、背中に貼り付いている銀時が果たしてこんな早朝にまともに起きられるのか、と言った点だ。だが、寝ぼけようがぐずられようが抵抗されようが、ここは頑として土方の生活リズムに合わせて貰うほかない。 道行きの不安さにそっと目を閉じると、土方は苦しくて暑くて熱くて理不尽としか言い様のないそこから出る為に、覚悟を決めて深呼吸をした。 * 「おはようございまーす」 子供らしい溌剌とした声が寝不足の脳に染みる。志村新八が自宅である恒道館道場からこの万事屋へと出勤して来た様だ。 時刻は八時半と(真選組での生活から見れば)決して早いものでは無いのだが、大体朝は二日酔い由来で遅い銀時と、眠ったらそうそう起きない神楽と比べれば、毎朝定時にはきちんとやって来る新八の生活態度は感心に値する。 「銀さん、おは…、……ようございます。…土方さんも」 炊事場を覗き込んだ新八の口元が器用に引き攣るのは、何故かと訊かずとも解りきっている。彼もうっかりと昨日の顛末を忘れていたか大して意識していなかったのだろう、朝早々に目の当たりにする羽目になった光景に若干引き気味ですらある。 「おう、お早うぱっつぁん」 「お早うさん」 壁際に佇んでいると言うか追い詰められていると言うか、ともあれ壁を背にして立った土方の、棒読みの「おはよう」を紡ぐ感情は力無く頭を巡らせた顔に貼り付いている、疲労と空虚とに程近い表情筋から察して貰いたい所である。 そんな土方を真正面から抱き込んで、肩口に額をぐしぐし押しつけ──もとい、モフモフ行為を堪能中でいる銀時の、見慣れている筈の雇い主の、見慣れるには些か敷居の高すぎる奇矯、奇妙、奇抜な様子に、新八は鼻の頭に眼鏡を上げ直してから視線を決まり悪く逸らした。 「……神楽ちゃん起こしてこようっと」 視線ごとぐるりと背けた頭を廊下に戻すと、新八はそそくさと炊事場に背を向けて仕舞う。 まるで路地裏や公園の暗がりでイチャついているカップルを目撃して仕舞った時の様な、呆れと申し訳の無さと気まずさとの混在した態度である。 「おい、鍋噴いてるぞ」 「おう…」 溜息をつくと、土方は顎をしゃくって言う。今朝は食事当番だと言う銀時に半ば引き摺られる様にして炊事場に運ばれ──もとい『置かれ』て未だ三十分未満。銀時はとにかく土方に抱きついて定期的にモフモフ(物理的にしようがないと思うのだが)していないと駄目らしく、朝食作りの監督の様な立ち位置に置いた土方を十数秒置きに抱え込みに来る。 「いっそ抱えた侭動きてェ」 と、最初は宣った銀時に、新婚さんの料理風景の様な痛い絵面にされそうになったのだが、 「火や刃物を扱う間は論外だ。その代わり此処に居てやるからとっとと飯作れ」 土方の、額に青筋を浮かべた全力譲歩で断念させる事に何とか成功した。銀時が本気で実力行使に出たら防げた気はしないので、辛勝である。 流石にそんな光景が出勤早々目の前で繰り広げられたりでもしたら、新八はそれこそ回れ右して家に帰りかねない。 土方は飽く迄嫌々と言う本音も態度も崩してはいないのだが、子供らが当初見た時の土方の態度が既に諦念にあった為にか、銀時のモフモフアタック(物理)にそれ程抵抗が無いと思われているらしい節がある。 この、炊事場に佇んで定期的な抱擁を受け入れている様子も、譲歩も、満更でもないと思われている様であれば大層困った話だが、いちいち今更順序立てて説明すると言うのも、何だか言い訳をしている様で余計に気持ちが悪い気がしてならない。 そんな訳で結局、新八や起き抜けの神楽の、生ぬるさを保った奇異の視線を受け止める羽目になっている。一応は子供と言う年齢の少年少女を前に、慎みも憚りもなく乳繰り合いでもしている様で居た堪れないことこの上ないのだが、当の銀時に全く、一歩も、退く気配が無いのだから仕方が無い。 湧いた鍋に豆腐を刻んで入れて、味噌を溶いて火を消したかと思えばすかさず戻って来て、むぎゅう、と再び土方をホールドする姿勢を決め込む銀時に、起きて来た神楽が目を擦りながら半眼で呟く。 「定春の方がよっぽどモフモフ出来るアルよ」 「…俺もそれには同意すらァ」 神楽の言う通り、他の、モフモフ病患者も多くの症状が、ペットなどの小動物を得て精神安定を図っていると言う。万事屋にはモフモフレベルのかなり高い飼い犬がいるのだから、そちらに抱きつくべきだろうと、心底に思う。 「銀ちゃんの趣味はちょっと変アル」 「…………」 同意をしたくとも出来ない。押し黙った土方に大して頓着せず、くぁ、と欠伸を噛み殺す仕草を残して、神楽は寝起きでぼさぼさの頭を手櫛で撫でつけながら炊事場から出て行った。新八もそそくさと、半端な会釈を残して去っていく。 変な趣味、と言う事はつまり、「かわいい」とか繰り返されるあの呪いの言葉が、大凡そんな言葉を向けられる対象には成り得ない、土方十四郎へ向けられた間違い様の無いものであると認める事にもなりかねない。 (さっぱり解らねぇ…。矢張りイヤガラセと解釈した方がなんぼもマシと思える) 趣味が悪い、と言う意味では何ら間違っていないのかも知れないが。 ともあれ、どう言った突然変異なのか、銀時の呈するモフモフ症状は他多くのそれとは異なっている。それだけは間違いが無い。 「…おい、もう飯は出来たんだろ。行くぞ」 「……おう」 放っておけば食事の事も忘れて、ずっとモフモフを求めて抱擁を続けかねない銀時に、土方はそう言ってやる事にした。促す様に、とん、と肩を押せば、近い距離を保った侭の体温が、それでも少し離れた事で心地よい温度を取り戻せた気がした。 。 ← : → |