たなごころ / 9



 あふ、と背中から間の抜けた欠伸の音。これで五回目だったろうか。土方はいちいち己の集中力を削ぐその気配に、五回目もまた抗う事が出来ずに伝染した欠伸を噛み殺した。
 言うまでもなく、欠伸の感染源は背中に貼り付いた銀時由来のもので、至近距離で容赦なく放たれるそれに、土方の意識も釣られて反応して仕舞う。
 その気が無くとも、そのつもりで無くとも、己が疲労感に苛まれているのだろうと実感させられるのは堪ったものではない。眠いのだろうかと思えば矢張り眠りたくなって仕舞う。
 「なー、少し休まねェ?」
 そんな事を考えていると、タイミング良くも欠伸混じりに銀時がそんな事を言う。言う、などと言う言葉よりは、こぼれた、と言う方が恐らくは近い。そのぐらいに不明瞭でだらだらとした声と言い種であった。
 「てめぇが直ぐ真後ろで欠伸なんかするから、俺まで眠ィみてぇに思えるんだろうが。迷惑なんだよ、眠ィならてめぇ一人で勝手に寝てろ」
 飽く迄己に眠気や疲労感を実感させる気の無い土方は、ペンを動かす手は止めずにそう言って丸まりかけていた背筋を正した。
 「大体、毎晩ぐっすり眠っておいてよく欠伸なんざ出るもんだ」
 思わずそんな呆れの声も出ようものだ。土方は背中に貼り付いている銀時が、脳天気ないびきをかいているのを度々耳にしている。土方自身は、寝苦しいと感じている為に碌に眠れたものでは無いのだから、全く理不尽な話である。
 「…や。どんだけ眠ってても眠ィもんは眠ィだろそりゃ。何せ退屈だしよォ」
 「退屈なのはてめぇだけだボケ」
 言う合間にも欠伸を噛み殺す銀時を言下に遮った土方は、怒鳴りたくなるのを堪えて溜息をついた。まともに相手をするだけ馬鹿馬鹿しい。
 その後二言三言は愚痴を続けるかと構えていたが、本当に眠いらしく銀時の言葉はそこから続かなかった。土方の項の少し下辺りに額を寄りかけてじっと沈黙していたかと思えば、いよいよその侭動かなくなる。
 腰を回って腹辺りに置かれた銀時の掌は相変わらず温かい。子供は眠いと掌や体温が温かくなるのだったか、とうろ覚えの思考に意識を貸したのは寸時。土方はその侭目の前の雑事に集中し続けた。
 それからやや経ってから、ずる、と背中を銀時の額が滑った。土方が僅かに振り返ると、背後からは深い寝息の音がする。結局寝入って仕舞ったらしい。
 (良い気なもんだ)
 苦々しく呻いた土方だったが、折角熟睡していてホールドしている力が弱まっているのだからと思い直すと、慎重な手つきで腰に置かれた手をそっと退けてみた。苦しいばかりの拘束状態から少しでも解放されて、土方は肺を大きく膨らませて深呼吸をする。
 (流石に、頭が落ちたら目も醒ますよな…)
 残る、触れている部分は額と背中ぐらいのものだ。風呂や厠で一時離れてもまた直ぐに猛烈なモフモフホールドを喰らう生活が続いた所為か、久々に解放された様な心地になって、土方は慎重に両手を上げて背を伸ばした。そうすると押し出される様に自然と欠伸が出て来る。
 (すぐ後ろで気持ちよさそうに寝てられりゃ、釣られたくもなるわ畜生)
 しょぼつく目を擦りながら見遣れば、卓の上に置いてある腕時計は丁度昼下がりの時刻を指し示していた。昼食はとっくに終わっているが、茶を飲んで休むには少し早い。
 指先で手繰った書類を数枚捲る。まるきり途中と言う訳でもないが休憩するタイミングでも無い進捗状況だ。伸びをした事で凝りを思い出した様な肩を軽く回すと少し怠さを憶えた。背中に己と同じぐらいの重量の荷物を背負っている様なものなのだから当然だろう。
 すると、土方が肩を回した事でか、背中に寄りかかっていた銀時の額が更に下がった。起きるか、と思わずぎくりと身構えるが、その侭で止まる。
 「………」
 前傾姿勢で眠る姿はかなり寝苦しそうだったが、俯いた銀時の口元からは規則正しい寝息が聞こえて来る。どうやら珍しくも相当の熟睡状態にあるらしい。普段の夜であれば、土方が鬱陶しい背中の体温から少しでも離れようと身じろぐだけで、直ぐに半覚醒してホールドし直して来る様な男にしては珍しいと言えた。
 「…………」
 銀時の両手は畳の上。額だけが土方の背にくっついている状態だ。つまり今はモフモフと言う行動を行ってはいない。今までならば少しでも離れると目を血走らせる勢いでしがみついて来たのだが。
 まあその内起きて直ぐに、離れていた分を取り戻そうとするだろうと思って、土方は煙草をくわえた。火を点けて一息。二息。
 「……………」
 モフモフ病に罹った患者は、自分の可愛いと思ったものを抱きしめていないと(その擬音をしてモフモフとも言う)忽ちに精神的な不安を起こす。それが安心毛布病などと呼ばれる所以である。
 とん、と灰を灰皿に落として、ついでに火の気配を揉み消すと、土方はゆっくりと背中を移動させて行った。すれば徐々に寄りかかっている銀時の頭もずれて行き、やがて身体ごと横倒しになって仕舞う。
 「……んお?」
 流石に呻いて目をしばたかせる銀時を、土方は勢いよく振り返るとその胸倉を掴み上げた。肚の底から沸き起こる憤慨の気配に、表情筋が凶悪に引き攣るのが自分でも解る。
 「………オイてめぇ」
 「……?」
 「モフモフはどうした?」
 「……………」
 眠そうな目で数回瞬きをすると、それから銀時は漸くカラの状態の己の手を見下ろした。モフモフと言う行為を散々繰り返していた筈のその掌は、今は空気を掴む様に二度三度と指を動かしている。
 「……治ったみてぇ?」
 言って銀時の浮かべた表情は、ばつの悪さと決まりの悪さとを混ぜて平坦に伸ばして塗りたくった様な、酷く薄い苦笑い。
 「──」
 大きく吸った息を留める様に奥歯に力がこもり、同時に己の右腕が振り上げられ、様々な感情を握り固めた拳を作るのだけは解った。
 銀時は目を閉じはしなかった。次の瞬間には痛烈な殴打音と共に、彼の背はどっと畳へと倒れ込んでおり、土方はそれを為した凶器となった、自らの拳に感じる痛みをも寸時忘れた。
 「…ってぇ」
 呻く銀時だが、然し反射的に覚悟し歯を食いしばっていたのか、無防備に殴られた様子は無い。後で青紫色に残るだろう痛打の痕の近くを鼻血の紅い筋が伝い落ちている。
 「つまりは仮病か」
 噛み締めた奥歯の隙間からは、肚の裡で煮詰まった憤慨の割には静かな調子で言葉が出て来る。
 「いや、最初っから嘘だった訳じゃ、」
 「黙れ」
 何やら言いかける銀時の言葉を短く制した所で土方は漸く、これは怒りと言うよりは失望なのだと気付いた。
 嘘ならば騙される方にも責任があると土方は思っている。騙す側の巧妙な手管がどうあれど、それを信用する事を選んだ己の判断が誤っていたのは間違いようのない事実だからだ。
 (手前ェ自身が、馬鹿だっただけだ)
 嘘をつく様な奴ではない、嘘をつく様なものでもない、嘘である訳がない、それらの判断基準が全て己の愚かしさと言う一つの解答へと至り、同時に欺きを呉れた張本人へと憤慨にも似た虚脱感が沸き起こる。
 「……そんなにしてまでイヤガラセがしてぇのか、てめぇは」
 「だから、最初っから嘘だった訳じゃねぇって!」
 「人の親切につけ込んでまでこんな馬鹿な真似やらかすたァ、とんだ最低の屑野郎だ」
 自分への憤りも半々に叩き付けると、口から生まれて来た様な男は然しぐっと下顎に力を入れて押し黙った。
 騙された方が悪い。騙される程に嫌われていたのも悪い。それに全く気付く気配の無かった己の鈍さが悪い。憤った理由はそれだけで、あと残りは疲労感さえ感じる程の失意ばかり。
 手を挙げて仕舞った以上、己の怒りはこれ以上継続はしないと冷静に判断した土方は、固く握りしめていた拳をゆっくりと開くと、机周りに散らばっていた荷物を一瞥した。大した量とは言えないが、徒歩の両手だけで易々運べるものではないと即断すると、煙草と携帯電話と腕時計だけをまとめて袂に突っ込んだ。床の間に預けてあった刀をさっさと佩くと、未だ座り込んだ侭の銀時の横を無言ですり抜ける。
 「おい土方、」
 「触んな」
 伸びた手の気配を振り向きもせず払い除けて襖を開けると、そこには騒ぎを聞きつけてかいつかの様に様子を窺っていたらしい新八と神楽の姿があった。神楽は平然と酢昆布を囓っていつも通りの風情でいたが、新八は立ち聞きと覗き見のバレた事でだろう、気まずそうにおろおろとしている。
 「…世話んなったな。荷物は後で組の者に取りに来させる」
 「え…、あ、はい」
 新八の手に盆が抱えられているのを見て、ひょっとしたら茶を煎れようとしてくれていた所だったのだろうかと思い、少しばかり申し訳の無い様な気持ちになる。
 「また来いヨー。お土産付きならいつでも歓迎してやるネ」
 「そうかい」
 状況が解っているのかいないのか、暢気に言って寄越す神楽にも、「不快だから二度と来るか」と思った本音は出ず、土方は銀時の視線を背中に感じつつもそちらを一度も振り返る事はなく、万事屋の建物を後にした。
 ここから外に出るのも酷く久しぶりの事だ。何しろずっとモフモフ病患者のイヤガラセじみた道楽に付き合わされていたのだから。
 「……畜生、」
 思わず押し殺した様なうめき声が漏れた。時間を無駄にされた事にも、不自由な思いを強いられていた事にも腹が立っている筈だと言うのに、それよりも、騙され遊ばれていたと言う現状に、どうやらショックを受けているらしい自分自身こそが馬鹿だと土方は思った。







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