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  ナグルファルに捧ぐ花 / 11



 外は風が強いらしい。家鳴りの音が真っ暗な夜の空気を不気味に揺らしている。お客は幽霊だと言うのに夜には生きた人間の様に休むのか、客室はどこもしんと静まりかえっていて、古びた外観と相俟ってまるで廃墟か何かの様だ。
 板張りの廊下を歩く銀時の足取りは重たい。廊下に電灯なんて立派なものの無い旅館を夜歩くには懐中電灯が手放せない。見た目の雰囲気から言えば油に芯を浸した灯明を持ち歩く方がそれっぽいのだが、お岩曰く万一の失火が怖いとの事だ。
 まあ、一見して築何十年と言う古びた物件なのだからそれも無理からぬ話である。銀時としては、暗い中に揺れる灯りと影とが不気味に思える口なもので、懐中電灯などと言う文明の利器があるだけでも有り難い話である。
 廊下の先は闇に閉ざされ見えない。まるで闇に飲まれそうな錯覚を覚える。そこを切り取る丸く大きな電球の光でさえも届かない程に、暗くて、深いと言う訳でもないと言うのに。
 先頃までお岩と話していた話題が話題であっただけに、夜や暗闇と言ったものが嫌な感覚を想起させるのかも知れない。
 悪霊だとか何とか言われてもぴんとは来ないが、それが何故か土方に関わっている可能性があると言うのなら、棄て置く訳にもいかない。
 …と言ってみた所で、銀時は幽霊退治など専門ではない、ただの万事屋である。実際悪霊がどうとか言う事態が起きたら果たして何が出来るのか、となると先の想像には不安要素しかない。
 いっそバイトを切り上げて江戸に戻って仕舞えば、とも思ったのだが、お岩の話では、逆に『善くないもの』を連れ帰って危険が広がるだけだから止めた方が良いとの事である。
 別に、貴重なバイトの人間が減るから帰さない、と言う訳ではないだろう。ああ見えてあの女将は道理がしっかりとしている。それ以上に強かな所があると言うのも確かだが。
 素足で踏む床板はひやりと冷えて冽い。風と、風が建物を軋ませる音しかしない夜だ。ひょっとしたら廊下を挟んで左右に配された部屋の中ではスタンドの皆様がご就寝中かも知れない訳で、それも単純に怖い要因である。銀時も流石に随分と慣れて来てはいると自分でも思うのだが、それでも矢張り半透明のものは不安を想起させずにいられないのだ。
 きし、と踏んだ床板が鳴った。その小さな音は風の吹く狭間に消されそうにか細かった筈なのだが、嫌に耳に響いた気がして、銀時は足を止めた。
 足裏が冽い。寒いのだろうかと、思わずシャツ越しの腕をさする。その手に持つ懐中電灯の明かりがぼやりとした陰影の中に吸い込まれて、消えていく。
 「……」
 立ち止まった銀時は背後を振り向いた。もう一度続けて。
 前方も、後方も、ただの廊下だ。真っ暗な夜の、幽霊温泉旅館の廊下だ。昼間には従業員やら客のスタンドが歩き回る、ただの廊下。
 (……何だ、)
 聞こえたのは、感じたのは、果たして『何』と言い表したものであったか。背筋をぞっと冷やす温度に、銀時はいつの間にか己が冷えた厭な汗をかいている事を知る。
 粟立つ膚の表面を伝い落ちるつめたい汗。耳朶に染み入って来る様な嫌な音。否、呼吸音とも風の音ともつかぬ、乾いた音。空気をさわさわと静かに揺するそれに向けて、全身の感覚器官が叫んでいる。気付け、と。
 耳を幾ら澄ませども判然としない。どこか遠い、壁の向こうか何かで囁き交わしている様な、ぼそぼそとした息遣い。言語になりそうで、そうはまだ至らない様な──音。
 「──っ、」
 前を見る。闇。後ろを向く。矢張り、闇。暗い廊下が真っ直ぐに続いて、懐中電灯の光でさえも呑み込む様な、暗闇。夜の創り出した漆黒の陰影。
 この音には、この声の様なものには、憶えがあった。土方に悪霊とやらがまとわりついていたあの夜に、銀時を眠りの中から引っ張り起こしたものだ。確証はないが、恐らくあれと同質の何かだ。
 囁くのにも満たない、風よりもなお小さな小さな音。形容し難い、理解の叶わぬものに対する嫌悪や恐怖。或いはそれに似たもの。
 廊下の真ん中に佇む銀時の周囲で、それはきっと、確かにそこに居て、何かを言っているのだ。明確な意思など失い果てた『滓』の筈のそれが、何かを。
 (まさか、)
 銀時の脳裏にふとひらめきが過ぎる。あの夜もこうして起こされて、そして、見た。
 これに明確な意思はないと言う。意味も。感情も。記憶も。ただ、生前に思っていた何かに引き摺られてその場に暫くぼんやりと留まって、漂って居るだけであると。
 これは『声』ではない。言葉でも。吹いて通る風の様な無意味なもの。だが、それに土方は何かを見出していた。何かを思って、声をかけて、気に掛けて居続けた。
 意味などないと解りきっていて、それでもなおそうしようと思ったのであれば。その『声』に耳を傾けてやろうとしていたのであれば。
 「くそっ!」
 理屈でもなく恐らくは感情に因ったものに、半ば背を叩かれる様に押されて銀時は廊下を駆けた。従業員の寝泊まりしている、客間と変わらぬその障子を開いて、襖を払いのける様にして開けて、声にならない声を上げる。
 銀時らに宛がわれた部屋だ。電気式の灯火の落とされ暗い部屋の中は、火鉢も消えて冷蔵庫の様に冷え切っており、そこに敷かれた布団は伏し人でも起き上がった後の様に、綺麗に掛け布団が捲られて、誰の姿も無い。
 ぶる、と鳥肌が立つ程の寒さに、吐いた息が白い。銀時は部屋中を忙しなく見回すが、そこにやはり土方の姿はない。どこにもいない。
 厠にでも立っただけの様な布団の有り様ではあったが、火鉢を消して行く理由はない。そもそもこんなに冷えきった部屋で眠ったりしたら瞬く間に低体温になって仕舞う。
 素早く踵を返した銀時は、廊下を逆戻りに駆けた。暗い、静かな夜に響く筈の足音は、酷い耳鳴りの様な音の中で響かない。頭が痛んで、鼓動は跳ねて、気分は最悪以外の何でもなかった。
 やがて、従業員用の裏口が目に入る。この間レイと立ち話をしたそこの戸が、開かれた侭になっていて、キイキイと軋む音を立てて揺れている。
 そこに置かれていたサンダルをつっかけた銀時は外へと飛び出した。そして飛び出した途端、強い風に押し戻されそうになってたたらを踏む。
 「っな、んつー…、コレもう天気急変で悪天候ってレベルじゃねぇだろ!?」
 思わず叫んで仕舞う。吹き付けて来ていたのは風だけではない、雪も舞う、酷い吹雪だった。元々この旅館の立地は山奥の豪雪地帯だ。冬になれば除雪車が公道を走るから、現代では辛うじてインフラは保たれているが、一昔前であったら雪解けまで山を下りる事が出来ないとかそう言うレベルの降雪に見舞われる地方だ。
 降り積んだ雪に足が踵まで沈む。向かう吹雪は山から鋭い礫の様に吹いてきて、銀時を恰も近づかせまいとしているかの様であった。
 こんな天候の時に、こんな軽装で吹雪の中に出るなど自殺行為でしかない。然し、あのざわめきに似た音が、それよりももっと強い音が、声が、呪詛めいた響きが、その遙か向こうから聞こえている、そんな気がしてならない。
 「~~!」
 最早悪態もこぼれない。奥歯をぐっと噛み締めた銀時は吹雪の中に飛び出して行く。今なら鉄でも磨り潰せそうな気さえする程に噛み合わせた歯の隙間から、白い息が寸時吹いては猛吹雪の中へと吹かれて消えて行く。
 これで遭難でもしたらまるで八甲田山の再現だ。目の前を凍り付きそうな掌を拡げて風雪を何とか遮って、押し戻されそうな風に銀時は必死で向かい立つ。
 その時、夜の中でも薄らと白い地平の端に、何か紅い色彩が揺れた気がして、銀時は目を瞠った。気の所為かと見紛う、吹雪が視界をモノクロに染めている中だ。
 「──」
 息を呑んで、走る。叫ぶだけ酸素が、体力が勿体無い。きっと、こんな状況では叫んだところで届かない。取り戻せない。人の声如きでは、これは止められない。
 白い積雪の中に点々と足跡が目につく。それがどんどん深く確かな形状になっていく頃、銀時は視界のその先に、黒い髪の後頭部を確かに見出した。そこに揺れる紅い色彩が、それを見間違いではないと示している。
 土方の服装は、寝間着として渡されている白い浴衣だ。だから吹雪の中でその姿は殆ど目立たない。今にも風雪と夜との向こうに消えそうなその姿に向けて、銀時は手を伸ばした。
 だらりと両手を下げて、何も履かない素足が積雪を踏み抜きながら、何かに引っ張られる様に前へと進んで行っている、土方の手へと。
 「おい!どこ行こうとしてんだ馬鹿野郎!手前ェがいくのは、そっちじゃねェだろうが!」
 掴んだ、冷えた手首を思い切り引っ張り叫ぶと、土方の足はぴたりとその場に停止した。そして次の瞬間には、糸でも切れた様に傾いで仰向けに倒れて来る。
 (…花?)
 傾いだ土方の髪の間に差してあった、紅い花──まるで目印の様に吹雪の中に揺れていたその色彩を持った花が、はらりと真白い雪の中へと落ちる。
 咄嗟にその腰を支えたものの、雪の中と言う足場の悪さに二人してその場に倒れ込んだ所で、銀時は痛みに呻く間も無く素早く上体を起こした。
 「おい、ひじ、」
 呼ぼうとした時、寄りかかる様にして倒れている土方の目が見開かれている事に気付く。青白い唇から、ひぅひぅと荒い息が断続的に漏れていて、苦しいのか、溺れて藻掻く様に体が戦慄く。先程歩いていた時には静かに前に進んでいるだけであったと言うのに。
 過呼吸だ。察した銀時は辺りを見回してみるが、紙袋などこんな所に丁度良く転がっている訳がなかった。過呼吸の際には袋などを被せて呼吸を落ち着かせなければならないのだが、自分の方が落ち着けていない。思わず頭を掻きむしる。
 掌で口を押さえたら余計パニックを起こして仕舞う。だから咄嗟の判断だった。としか言い様がない。
 「──っ、ふ」
 ぴたりと重ねた唇の中に呼吸音が消える。塞ぎながら、整えながら、銀時は手で背をとんとんとゆっくり叩いて、呼吸をゆっくりと繰り返す事を、土方に思い出させていく。
 「………」
 驚いたのか、効いたのかは定かではない。見開かれていた土方の目蓋が寸時震えて閉ざされて、合わせた口唇の下で呼吸の音も段々と静かになって行き、今にも痙攣しそうに強張っていた全身もぐたりと脱力した。
 (大丈夫、か…?)
 恐る恐る唇を離す。土方は意識を失ったのか目を閉じた侭、銀時に抱き留められて雪の中に素足を投げ出し倒れている。
 あれだけ酷く吹雪いていた筈だと言うのに、いつの間にか辺りはすっかりと静まりかえっており、積雪こそ酷いが、曇った空からは雪すらもう降っていない。
 幻でも見ていたのではないだろうか。そう思える程に、全く以て静かで、ただ冷えるだけの夜だった。まるで狐にでも化かされている様だと思いながら、銀時はぐるりと頭を巡らせて、そしてぎくりと瞠目する。
 白い積雪の中にぽつりと、血のひとしずくの様に落ちている、花が一輪。
 「……椿、か…?」
 雪の中にぽつりと落ちているそれをそっと手を伸ばして拾い上げる。細い枝に花を一輪、葉を一枚備えた、紅色をした椿。土方の髪の間に簪か何かの様に差してあったものだ。
 椿は花弁を散らさず花首ごと落ちる事で、縁起が悪いと忌み嫌われる事の多い花だ。雪の中に落ちたそれが、土方の首であったかの様な錯覚を覚えて、銀時は不気味な想像を払おうとかぶりを振った。
 土方は意識を失っているし、吹雪も止んでいる。残されているのは一輪の不吉な花だけ。
 それだけが、今の訳の解らない一幕を、確かな現実であったのだと銀時に突きつけていた。







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