ナグルファルに捧ぐ花 / 12



 雪原をかなり走った気がしていたのだが、足跡を頼りに戻った宿への距離はそう遠いものでもなかった。肩に担いだ土方はぐったりと脱力し意識を失った侭で、声を掛けても揺さぶっても全く目を醒ましてくれる気配はない。
 慌てたその侭に飛び出して来て仕舞ったから、銀時の格好は従業員として着ている服装その侭だ。とてもではないが夜の雪山を駆け回って良い様なものではないから、正直言って寒い。土方に至っては浴衣姿だ。二人とも遭難一歩手前の様相である。
 あれだけ吹き荒れていた吹雪も収まった今は、宿の灯りが遠目にも雪の白さにぼやりと眩しく照らし出されているのは解り、戻るべき宿を見失う事は無さそうだ。
 とにかく、早く戻った方が良い。寒さは勿論だが、あの訳の分からない状況がいつまた起きるとも言えないのだ。恐怖と言うよりは焦燥に背を押される様にして、銀時は踝まで埋まる雪の中、自分と殆ど体重の変わらない男を担いで、必死になって足を前へと進め続けた。
 雪の中を重たいものを持って歩くのは結構な重労働だ。暑くなると、体にまとわりついていた雪が融けて、今度は少し冷えて来た気がする。これでは本当に遭難しかねない。
 何とか歩き続けて、ここ数日ですっかり見慣れた気のする、ぼろぼろの宿の玄関になんとか辿り着いた時、銀時は安堵の余りに思わずその場にへたり込みそうになった。幽霊の出そうな(実際に出るのだが)ぼろ家を見てこんなに胸を撫で下ろす様な事が嘗てあっただろうか。無いに決まっているが。
 取り敢えず、体を拭いて、体温を温めて──いや、その前にお岩に一連の事を話した方が良いだろうか。お岩の口にしていた、『善くないもの』と言えば、正しくその通りとしか言い様のない事が起きている、と言えるからだ。
 吹雪の中を歩く土方の様子は明らかに普通ではなかった。拐かし、とでも言えば良いのだろうか。明らかに土方自身の意思で歩いてはいない様だった。そもそもにして夜に布団を抜け出し猛吹雪の中に出ていくなど正気の沙汰である筈がない。
 つまりは人智を越えた事が起きている。具体的に『何』と説明しようがないのだが、市井の万事屋でしかない銀時の領分では明らかにない様な事だ。一人でどうこう考えるぐらいなら、専門家(と言って良いのか解らないが)のお岩やレイに訊いた方が良いだろう。
 お岩がもう就寝しているかは解らないが、いきなり騒ぎ立てるのは、客のスタンドも居る中では迷惑だろう。そんな事を考えた銀時は、すっかりとこの現実離れした世界に馴染んで仕舞っている己に気付かされて、思わず口端を下げた。
 玄関の戸に手を掛けた時、じゅ、と足下で水の蒸発する時の様な音が聞こえた。見下ろせば、玄関の敷居の少し手前に、何やら皿に乗ったひとつかみほどの黒い山がある。それが音を立てて湯気の様なものを吹き上げていた。
 「………え。これって、あの、アレ…だよな…、ババアも店の玄関先によく、──っぶ!?」
 ぼろ、と崩れる黒い山を見て、喉が鳴った。お登勢ならずとも、店先には多い。それは風習だからだ。
 本能的な怖気がして背筋が粟立つ。戸を開けた所で立ち尽くして仕舞った銀時に、今度は真正面から何か細かな砂粒の様なものが投げつけられる。
 手を払えばぱらぱらと玄関先に落ちる、ざらざらとした感触と、口に入ったそれの、痛みさえ感じそうな塩辛さに咽せそうになる。
 塩である。
 「ギン、アンタやっちまったね」
 溜息混じりの声にそちらを向けば、玄関口に佇んでいたのはお岩であった。小脇に抱えた陶製の壺から真っ白な塩を掴み取ると、銀時に向けて容赦無く投げつけて来る。
 「……」
 言われて、足下の小皿をもう一度見下ろす。盛り塩だ。それがどう言った訳か、真っ黒になって仕舞っている。それは普通では明らかに起きない様な現象だ。まして、清めの役割を果たすそれが一瞬で炭の様になるなど。
 「やっぱりこれアレか?善くない感じのスタンドとか…」
 「もっと性の悪いものだよ。アンタ、十の名を呼んだだろう」
 「………」
 溜息混じりに言われて、銀時は肩上に担いだ土方の姿を見た。十、と言う呼び方に慣れなくて何度も言い間違いをしそうになったが、果たして呼んだ事はあっただろうか。
 「……………あ」
 深夜に目を醒まして、眠る土方の上に黒いものがのし掛かっているのを目にした時。つい、叫んで仕舞った様な、気が。
 「……するような、しないような…」
 何しろ非常事態であって異常事態だったのだ。思わず呼び慣れた名で呼んで仕舞った可能性は高い。確かな記憶ではないが。
 「いつ呼んだとかそんなものはどうでも良いんだよ。問題は、呼んだか呼んでいないか、だ。…で、十がそうして狙われたんだから間違いない」
 言うと、お岩は片手に掴んだ塩を銀時の顔面へと叩き付ける様にしてぐりぐりと塗した。
 「痛い痛い!流石に痛ェわ!」
 塩揉みされる野菜の様にされて、銀時はかぶりを振ってお岩の手から逃れた。だがそんな事をせずとも、銀時の身に触れて落ちる塩の粒は、じゅ、と嫌な音を立てて変色して自分から勝手に地面に落ちて行く。
 「前にも言ったと思うけどね。名前を知られるって事は、知った者に魂を握られているのと同じなんだよ。昔の人間は魂を不用意に持って行かれない様に、真名を隠し持っていたもんだけどね、最近の人間は一つしか名前を持っていない。つまり、ギン、アンタが名前を呼んだ事で、十は善くないものに魂を握られちまってるって事だよ」
 塩をなすりつけていた手をぱっと離して、お岩は目を細めた。人生長く生きて肝の据わった人間に特有の、怖れる者を青いと諫める様な表情だった。知らぬ内に刃でも背中に突きつけられていた様な心地を憶えて、銀時はお岩のその顔から目を逸らす。
 「名字しか呼んでないとか、そんなのは関係ないよ。名前と言う、その人の魂を呼ぶ言霊を発した時点で、それはもう知られているからね」
 「………」
 重ねて言われて、銀時は肩を落とした。その所為で少し傾いだ土方の頭へと、お岩は塩をぱらぱらと振って続ける。
 「…とにかくだよ。凹んでも仕方がない。十に憑いて来た子らが原因で善くないものが出て来て、そこにアンタが十の名前を呼んで仕舞ったんだ。標的は十に移って、それで今、実際連れていかれかけたんだろ?」
 「……ああ。明らかに、こいつが自分の意思で歩いているとはとても…」
 連れて、いかれる。お岩の言葉を反芻した銀時は目元を押さえてかぶりを振った。何処に、とか、何に、とか。そんな事は問題ではない。連れていかれかかった。それが起きた事すべて、訳の解らない事を含めてすべて、事実でしかない。
 吹雪の雪原を、白んで何も見えない闇の中へと消えて行きそうな土方の姿を発見した時は、心底にぞっとした。何かに──『何か』に引かれてふらふらと歩く、夢遊病患者の様な足取り。
 それが、己の迂闊さが原因であったと言うのであれば、申し訳がないとか、そんな言葉では片付けられる訳がない。
 連れていかれていたら、どうなっていたのだろうか。思った銀時の脳裏にふと、髪に真っ赤な椿を挿した、土方の体が雪の中に横たわっている、そんな幻想が浮かぶ。
 妙にリアルな光景が先頃の雪の中の光景と結びついて、銀時は土方を抱える腕に力を込めた。体温は冷えているが、鼓動がある。生きている。間違いない。それでも、得体の知れない怖気がした。







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