ナグルファルに捧ぐ花 / 14



 まるで氷室に居る様な寒さに身体が震える。
 昨晩布団を掛けずに眠って仕舞ったのだろうか。何やら背中も固い感触がするし、布団をかけ忘れたどころかひょっとしたら路地にでも倒れて泥酔しているのではないかと、浅くなりつつある眠りの淵で土方はそんな事を考えた。
 早く起き上がらなければと、本能や常識的な感覚はそう訴えて来るのだが、身体が重たくて動かない。目蓋も貼り付いた様に開かない。
 いわゆる金縛りと言う奴だろうか、と思いかけて、そんな馬鹿な、と即座に打ち消す。金縛りなんて今では科学的な説明が付けられる事象だが、それより何より半透明な類の話を連想させる現象は好きではない。実体と実態のよく解らないものを人は本能的に怖れるのだからこればかりは仕方がない。
 半透明、と考えた所で、その半透明な者だらけの宿をふと思い出す。仙望郷。確かそんな名前の古風な温泉宿だ。ただのおんぼろ旅館かと思いきや、曰く付きどころか曰くそのもので出来ている様な、とんでもない幽霊旅館だった。
 (………)
 声を何かあげようと口を動かしたつもりでいたが、呼気が僅かに漏れるだけの手応えしか返らない。恐らく僅かたりとも己の唇は動かなかったのだろう。瞑った目の下でもそう確信して、土方は深呼吸した。少なくともそのつもりで息をした。
 背中は固い。畳──ではない。恐らくは木の板。つまりは床だ。床に、何も掛けずに仰向けで横たわっている。横たえられている、と言うべきか。
 眠っていた、と言う状況では無さそうだ。寝惚けて廊下で寝たなどと言う事は無いだろう。そこまで寝相は悪くない。
 寒い。指先がつんと痺れた様に痛む。どうやら素足の様だ。着物は着ている。寝る前に自分で着替えた、冬にしては少し薄い気のするものだろう。
 少なくとも屋外ではないのか、風の気配はない。空気の流れも殆ど感じない。
 金縛り、ともう一度、厭な名称に落ち着きそうになったところで、背筋がふるりと震えた。怖れか寒さか解らなかったが、そこで漸く土方の、貼り付いた様に強張っていた目蓋が動いた。ゆるゆると拓ける視界の下で、睫毛からぱらりと細かな氷の粒が落ちていく。体温ですぐ融けて仕舞ったそれを、いつの間にか動く様になっていた指で拭ってみれば、指の、爪の先まで霜がついて冷えきっている。
 まるで凍死体じゃないか、と思いながら身体を起こそうとすれば、凍り付いた様に冽かった身体は驚く程に自然に動いて土方の意思に応えた。全身が凍り付いていたが、目覚めた途端に何事もなかった様に融けて仕舞った。まるでそんな感じだ。
 氷の粒たちは勝手に身体からぱらぱらと落ちて、融けて、水になって忽ちに乾いて消えて行く。そんな早い気化が起きる訳もない。理屈ではそう思うのだが、これが幻か何かであれば不思議でも何でもない。
 然したる疑問も抱かずにそう土方が結論づけた事には他にも理由があった。
 「……」
 ぐるりと見回す。そこは先頃まで──少なくとも己にある最後の記憶で──居た、宿の一室ではない。十畳程度の木造の建物であった。
 板で遮られていない天井は吹き抜けになっていて高く、梁が複雑に渡って、尖った屋根の形がその向こうに見える。床は剥き出しの木の板で、四方の壁に囲まれた丁度中央に土方の身体は寝かされていた様だ。
 四方、部屋の隅には油に火芯を浸した古風な灯明が一つずつ立てられていて、真っ暗な建物の中をぼんやりとした色合いの灯りで遠慮がちに照らし出していた。
 その印象を一言で言えば、お堂、とか、そう言った所だろうか。だが振り向いても仏像やらご神体やらはなく、それらを納める祭壇もない。
 その真向かい、起き上がった姿の丁度真正面には、ぴたりと隙間無く閉ざされた観音開きの扉が一つ。壁のどこにも窓はない。天井の梁の上にも採光用の隙間らしいものさえなさそうだ。
 入り口兼出口が一つだけの、筺の様な建物。
 「……?」
 ふらりと立ち上がった土方は、そこで自らの首に何やら荒縄が巻き付いている事に気付いた。ひょいと掴んでその先を追って行けば、縄は長くとぐろを巻いて床を進み、やがて上って天井の梁を通って、また床に降りて、そして正面の扉から外へと消えていっている。
 首に巻き付いた縄を手で探るが、輪を作る部分以外に結び目の様なものは見当たらず、その結び目は首元で見難い上に指一本も突っ込めない程にきつく締められていた。
 (梁を一周通ってるから、もしも外から思い切り引っ張ったりすりゃ、首が吊られるな…)
 長いとぐろを巻いた縄を軽く手で引っ張って、改めて全てが一本の縄である事を確認しながら、土方は妙に冷静な心地でそう判断した。
 部屋で寝ていたと思ったら凍死体の様になって見知らぬお堂で首吊りされそうな状況になっていた。
 目の前に見えている事実だけを指折り数えても、理解を放棄した方がマシだと思える。人間、訳の解らない事のどん詰まりにまで行くと逆に落ち着くものらしい。思って嘆息する。
 (理解とかより、どうするか、を考えるべきだな)
 首元の荒縄を指先で弄りながらぼやくと、土方は取り敢えず正面にある扉に向かった。扉は紙切れ一枚すら通せそうもない程に隙間無くぴったりと閉じられているのだが、どういった訳か土方の首から繋がる荒縄はそこを抜けている。
 両掌を扉に当てて軽く揺すってみると、扉の間に僅かな隙間が開いた。だがそれ以上は動かない。見えない閂でも掛けられているかの様だ。思って、そこから外を覗き見ようと顔を近づける。
 「っ!!」
 途端、隙間に顔を近づけた土方の事を、逆に外から眼がひとつ覗いて見ていた事に気付いて、思わず仰け反る様にして土方は飛び退った。咄嗟に腰に手をやるが、寝る前にさえ持っていなかった得物がそこにある筈もない。
 「〜〜!」
 ばくばくと跳ねる鼓動を押さえようと胸に手を当てて呼吸する。土方のそんな様子を、暗闇にぽつりと浮かんだ眼がじっと、ただじっと見つめている。
 眼、だ。眼の様ななにか、ではなく、紛れもなく、何か意志を持ったものの、眼。
 その無遠慮な凝視の視線に、嫌な汗がじっとりと背を濡らす。外に──『外』に一体何が居ると言うのか。扉の、僅かな隙間を閉ざした方が良いのではないか。思考がぐるぐると巡るのだが、情けない事にも驚き過ぎて考えが定まらない。これではまるで蛇に睨まれた蛙の様だ。
 ひとり狼狽する土方の姿をじっと見つめていた眼であったが、やがて少し下がったのか黒い影に飲まれる様にして消えていく。
 否。消えてはいない。黒い影──影の様な手が、眼の代わりに扉の隙間に現れたのだ。
 本当に影法師か何かの様な、ぺらぺらな黒い手の様なものが、扉の細い隙間から入って来る。土方は喉奥の悲鳴とも罵声ともつかぬものを堪えながら、取り敢えずそれから離れたい一心で一歩下がった。
 手はどんどんとお堂の中へ入って来て──明らかに人体の腕の長さでは有り得ない所で、何かを掴もうとするかの様な動きを繰り返した。招く様な、捕まえる様な、手つきだと本能的に思う。掴まれたら一体どうなるのか。考えたくもなかった。
 暫し動いていた手だったが、やがて諦めた様に動きをぴたりと止めたかと思うと、真っ黒な掌を一度閉じて、そして再び開き、そこにぽとりと紅いものを落とした。
 (椿、)
 深紅の椿の花を、贈り物か何かの様に落とした手は、来た時同様の緩慢な動きで引っ込んで行き、扉の隙間から抜けて出ていった。同時に、扉に出来ていた僅かな隙間もぴたりと再び閉ざされた。当然だがもう不気味な眼もない。視線も感じない。
 「………」
 半ば茫然としながら、土方はその場に腰を落とした。そこで己がまだ、刀を探ろうとした手つきの侭で居た事に気付いて、強張った指を、ばくばくと跳ねている胸へと引き寄せて、乾いてかすれた息をゆっくりと吐いた。
 (理解、どころじゃねェだろ、こんなん…!)
 半透明どころか、完全に人間の──此岸の人間の及んで良い様な事態ではない。そんな気がする。そんな気しかしない。
 「くそ、」
 半透明なものを怖がっている、などと認めるのは癪であったが、こんなところで一人きりで強がっていても仕方がない。思いつく限りの悪態をつきながら、土方は頭を抱えてその場に蹲った。
 よろずや、と呟いて仕舞ったのは、ただの愚痴めいた、この事態にある意味で巻き込んだ張本人への文句だったのか、それともただ呼びたかっただけだったのか。
 解らなかったが、ただ、得体の知れない状況と存在とが、こわい、と思った。そんな所にひとりきりで居る事が、心細い、と思った。





スタンド温泉ってだけで既にホラーなんだから今更ホラーでも問題ないですよね多分…。

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