ナグルファルに捧ぐ花 / 17 灯りがいつまで経っても消えない。 ふとそんな事に気付いた土方は、立ち上がると四隅の灯火台を見て回った。受け皿に油が満たされ、火芯となる紙紐がそこに浸っている。その逆側には小さな炎が灯っていて、紐の吸った油を糧にして小さなお堂の様なこの建物の内部を照らす光源の一つとなっている。 手を近づければちゃんと熱を掌に感じる。だが、油も、火芯も、全くその状態から量を減らしていない。どう言うからくりなのかは理解しようが無いのだろうが、ここに閉じ込め(?)られて軽く一時間以上は経過している気はするのに、灯明の様子に全く変化が見られないと言うのは事実の様だった。 恐らくだが、火芯を摘めば火は消せると思う。油が減らす火芯が燃え尽きずとも、灯された火は、消そうとさえ思えばきっと、消える。そんな気がする。 停滞はしている様だが不変ではない。その予感を証明したくば、或いは答えが欲しければ、四つも灯明があるのだから、一つぐらい消した所で問題などない気はするのだが。 (…まぁ問題は、もう一度点火する手段が無ェって事だな) 袂を探ってライターがそこに入っていない事は既に確認していた。揺らぐ小さな炎に掌を翳しながら、土方は落胆に肩を落とす。暇を持て余して試そうとするのは簡単だが、余りにその行為に意味がなさ過ぎる。寧ろ逆にライターが無い事を自覚して仕舞った為に、煙草を吸いたいと言う心地を思いだして仕舞った。 灯明が四つあるとは言え、いつまでこの状況が続くのかも解らない状況だ。下手な事はしない方が良いだろう。不承不承にそう理性的に己に言い聞かせながら、土方は火に翳していた掌をそっと除けた。 (……なんだろうな。寒いし、ヤニも吸いてェってのに、酷く現実感が遠いとでも言うか…) 裸足の足で踏む床は冷たく冷えていて、きしりと音を立てて床を踏む爪先が、放っておいたら凍傷にでもなるのではないかと言う程度に痛い。爪の色も精彩のない紫色に見える。 火に近づけば温かいし、油の匂いもする。首に巻き付いている荒縄も掴めば重たいし、感触もある。 どこまでも現実としか思えない。だが、きっとこれは現実ではない。 (現実としか思えない分だけ、『現実に近い』処に在るのかも知れねェが……、) 思いかけてはたと首を傾げる。直感的に感じた事とは言え、想像も推論も酷く妄想じみた荒唐無稽な話の様ではないか。 「………そんな訳のわからん処に押し込められて、おまけに、」 冷たい空気に吐き出した声は少し震えた。寒さの所為だ。白い呼気の下でそう強く思って、土方は首元に手を触れさせた。 まるで首輪の様にきっちりと巻かれ、結ばれた荒縄。土方の首から下がって、床に幾重ものとぐろを巻いて、外(?)へ通じる扉の向こうへと消えていっているそれが、心無しか先頃よりも短くなって来ている気がする。 (最初に見た時は、何回とぐろを巻いていた?三回?五回?十回?) 思い出そうとするが、何分薄暗い中で一時間以上は前に見たものなど、そんな具体的に憶えている訳もない。況して途中で恐怖体験と言っても良いものを味わって来ている。記憶だって曖昧にもなる。 口元に手を当てて土方は考える。荒縄がとぐろを巻いていた回数ではなく、その先を。 縄は梁を一度ぐるりと通って扉へと続いているのだ。即ちそれは。 (…もし、勘違いでも気の所為でも何でも無く、縄が外に引かれるなり、短くなるなりしているんだとしたら、当然だが最後には縄の結ばれてる先の、俺も外に引っ張り出されるって事だ) しかも、縄が引かれ短くなっているのも解らない程度にゆっくりと進んでいるのだとしたら、土方の足が浮かんで梁を通って行くのにも相当の時間を要する事になる。その際に体重を支える事になるのは、首に巻かれた縄だけだ。首だけで──正確には頸部と下顎とで、浮かぶ体を支えるのは、骨格の太い男性であってもなかなかに難しい。縄を両腕で掴み続けて体重を支えている事が出来れば別かも知れないが、頑丈な棒でもない柔軟な縄では上手く力など入らない。 つまり、当初想像した通りに、首吊りの状態になるにしても、頸椎が折れるか、はたまた頸動脈が絞まって軽く何十回も窒息死が出来る程度の時間がかかる筈だ。 梁までの高さを見上げた土方は、懸垂するなりの手段を考えてはみたが、無駄だろうと即座に答えが返る。腕を限界まで持ち上げたところで、手が梁に届くより先に、足が床から浮かんだ状態が続く、その時間の方が致命になる。 (つまり、なんだ。火は時間経過を幾ら過ごそうとも消えねェ癖に、縄は、俺の錯覚ではなく本当に引っ張られて短くなっている、かも知れねぇ、…と) 「………」 ぱっと見る限りでは縄は未だかなりの長さを保っている様に見える。だが、床に渦を巻くそれが、刻限を示すカウントダウンを示しているのだとしたら、酷く短すぎる様に感じられた。見ている内にそれが忽ちに短くなって、今にも両足が床を求め藻掻きながら離れて行く。そんな錯覚を覚える。 「くそッ、」 ぞっとする様な想像に、土方は思わず手指を首と縄との隙間にねじ込もうとした。半ば反射的な動作であったが、最初に確かめた時と同じで、縄はきつく固く首に巻き付いており、そこには僅かの隙間も無かった。爪の先で荒縄を削ろうとするが、まるで歯が立たない。 幾つか無意味な罵声を吼えてから、土方は漸く、己の爪で首の皮膚を掻き毟ろうとしていると言う愚かな動作を停止させた。 そう、愚かだ。愚かとしか思えないと言うのに、どうして。 「……………」 戦慄く掌を見下ろしてみれば、荒縄を引っ掻いていた爪の先が幾つか欠けて仕舞っていた。だが、想像した様な痛みがない。だから余計に冷静になれないのかも知れない。 どっとのし掛かって来た気のする疲労の侭に床に腰を落とせば、梁の位置が更に遠ざかった。当たり前の事だが、致命への高さが増した事には原始的な恐怖を覚えずにいられない。 ──恐怖。 そう反芻してから、土方は小さく笑った。笑ったと思っただけで、実際は引き攣った表情を形作っていたのかも知れないが。 (……落ち着いて考えてもみろ。吊られて、死ぬにしても、どうして一思いにしない?縄が短くなっている、それだけの猶予があるって事は、それにも意味があるって事か?) タイムリミット、或いはカウントダウンであるのだとしたら、単に土方を嬲る意図でこうなっているとは考え難い。意味が無い。 ふとに思いついて、縄の一部を掴んで灯明の火に近づけてみたが、可愛くない事に、縄は焦げも燻りもしなかった。当然かも知れないが、土方は捨て鉢な仕草で縄を手放す。 そもそも誰がこんな事をしているのか、と言えば、あの扉の外に居るだろう黒い謎の存在が下手人である事は疑い様がない。手を突っ込んでちょっかいを出せるのであれば、こんな回りくどい事をする必要など無いのではないか。 (アレの正体については──幾ら考えても解りようがねェからこの際さておこう。チャンネルとやらを開かれた、俺にしか見えてねェって時点で、どうにもならんわ) 手を伸ばして、それこそ土方を捜す様にしていた。だが、捕まえられないと思ったのか諦めた様に引っ込んでいった。 箪笥の裏に落ちたものを拾おうとしている時、顔を突っ込めないから手だけを伸ばす事がよくある。丁度そう言う感じだったのかも知れない。 そんな、親しみのある想像をして仕舞った土方は、つい緩みそうになる気を、かぶりを振って払った。揺れる縄をぐっと掴んだ侭、辺りに視線を遣る。 あの、度々土方にちょっかいを掛けて来た黒い影の様なアレの目的が、こんな事をしている意味が、全くわからない。考えても無駄だと繰り返してはみるが、解らないと言うのは矢張り恐怖と言う感情に直結して仕舞う。そうなると、今にも縄が勢いよく引かれて行って、絞め殺されて仕舞う様な──そんな下らない想像が思考の中で首を擡げ始める。 せめて刀があれば。そう思うが、あった所でこの縄を切れるのか、黒い影を斬れるのか。それすらも自信が持てないのだから困ったものだ。それでも習慣の様にそう思うのは、刀が己の不退転の意志の体現であると、その寄る辺であるのだと言う自覚があるからに他ならない。 それが不要になる様な時代がもしも訪れたとしたら、その時にはきっと己のそんな意志もまた何処かで折れているに違いない。斬って、開いて、抗って、受け流して、携え示して来た。大凡澄み切っているなどとは言い難い、血腥い刃。 それでもそれに救われて来て、それで救って来たものは多い。手前勝手な事象を幾つも含めるのだろうが、そう土方は思っている。刀を振るう己の姿をこそ、部下たちには規範として貰いたかった。 人を斬ると言う行為を、ではなく。こうして護ろうとするのだと言う、意志を。 (……だからと言って、死んでなお、後を追って欲しいとは思っちゃいなかったが…) かぶりを振って、振り向いてみるが、己の影が四方向からの灯りに照らされ放射状に散っているだけの床と、壁しかそこには無い。あの薄い、『滓』と呼ばれるらしいものたちは矢張り見当たらなかった。 居れば少しでも気が紛れただろうか。それともより陰鬱になっただけだろうか。それとも無様に混乱して当たり散らしていただろうか。 (この侭じゃ、あいつらを見送るどころか、こっちが見送られる側になっちまう、か。かも、知れねぇ、…にしても、笑えねェにも程があらぁ) 道理も理屈も理性も置き去りにされた。生死の明確な基準ですら。何かをしなければならない気はするが、何も出来る気がしないのも事実。 「……何のつもりなんだかな」 殆ど無意識の侭にそう言って、見遣った先には、土方を捕らえる事の出来なかった手が落としていった、一輪の椿の花が落ちている。ずっと意識にはあったが、あの気持ちの悪い手が落としていったものと言うだけで、触る気など全くしなかったから、出来るだけ気にしない様に、見ない様にしていたのだ。 床にぽつりと落ちた紅い椿。 椿は開花した後、花弁を散らせるのではなく、花首ごと落ちる事で花が終わる。その様をして不吉とよく喩えられるのだが、水盆などに飾りの様に置かれた椿の花首は美しい。 そこでふと気付いて、今更の様に息を密かに詰める。 「………………ひょっとして、お前の首がこうなるんだぞとか言う趣味の悪ィメッセージとか犯行予告的な何かなのか?」 浮かんだ想像と相俟って、げっそりとした調子で吐き出された声同様に、気怠く動いた己の腕が紅い椿を摘み上げようとするのを、土方はより不可解さの増した心地の侭に見ていた。 。 ← : → |