ナグルファルに捧ぐ花 / 18



 積もった雪を払えど、幾ら払えども、目の前にあるのはただの岩でしかなかった。
 はあはあとすっかり上がった息を整えながら、銀時は手袋越しの手の甲を使って額を湿らせる汗を拭った。暑い、と感じながらのろのろと腕を下ろせば、肩に装着した懐中電灯の白い光が眼前の岩の塊を、闇の中に真っ白なシルエットの様に切り取り浮かばせる。
 お岩の見せて寄越したパンフレットには、仙望郷の出来てからのものだったが、インフラが進んだ時に付近の村々が町おこしでもしようと奮闘したのか、山にある名勝や高山植物や野生動物の紹介、史跡などがかなり大雑把に記されていた。
 山は、大昔は修験者の領域とされていた。今でこそバスは走っているしインフラも整備されているが、昔は霊験灼かな霊山であったと言う。
 今はもう修験者も居なくなり、山に幾つかあった札所の役割を為していた霊場も、宿坊となっていた寺や社も既に失われて久しい。
 低地はハイキングコースとして整備されたし、連峰の小さな峰々は簡易的な登山も行える程度になっており、隣接した山の山腹辺りに作られたダム湖へ通じるロープウェイもある。夏は程良く観光地として賑わっているそうだが、それ以上の標高、仙望郷のある辺りは未だ『玄人向け』の山だ。旅館のある建物とその周辺の道路以外は見事に『山』で、正しく秘境とでも呼ばれる様な場所なのだ。
 そんな理由もあってか、地図に記された史跡は大雑把にも程があったのだが、雪深い深夜の山中で、そこに辿り着く事の出来た自分はかなり強運の持ち主なのではないかと、銀時はそんな事を思う。
 何故史跡などを探しているのかと言えば、お岩も詳しくは知らないと言う、大昔に人身御供の風習が行われていたのならば、そう言った場所だから、と言う理由からだ。
 それも、社などの人工物ではなく、出来れば昔から変わらない、磐座の様な自然物など不動のもののある場所。
 そうして銀時が目星をつけたのが、山頂へ向かう山道を記したパンフレットの絵に描かれていた、尾根沿いに山頂から恰も転げ落ちて来て、未知の力で倒れる寸前に急停止した様な奇岩だった。
 大きさはそんなに巨大ではない。不動岩などとパンフレットでは勝手に名前を付けられていたが、人が頑張ればよじ上れそうな岩が山中に張り出してぽつりと落ちているだけのものだ。少し天辺が鉤型になっている様に見えなくもないが、人工的に削ってそれらしく作ったのかも知れない。岩肌は少し滑らかに見えた。
 それ以外には何の特徴もない。観光するに相応しい名勝と思って来れば落胆する事は請け合いだ。現に銀時も今、少々趣は異なれど落胆している。
 懐中電灯の角度を変えて岩をぐるりと照らし出してみる。だが、幾ら見回せど暗闇では何の変哲もない岩にしか見えない。雪に足下を埋められてただぽつりと佇む岩は、何故こんな処にあるのだろう?と言う学者の疑念以上の感慨を何ら導いてはくれそうもない。
 ここに何かがある、と言う確信があった訳ではなかった。だが、可能性としては高かった。人身御供とは儀式的な所行だ。人命を差し出すのだから、その行為に『正しい』と思わせる意味を与えるのだから、易々と行われて良い様なものではない。だから、儀式を行う際にはこう言った『神』或いは人智を越えた未知を感じさせる様なものを寄る辺の様として行われる事が多い。
 雪化粧に覆われた岩の表面を手で一撫でして、「くそ」と銀時は吐き棄てた。他にパンフレットに描かれていた名勝や史跡は、どれもこれも人工物ばかりだった。そしてその何れも、未だカミサマの様な何かが存続し続けているとは思えない様なものばかりだった。
 (宿まで降りて来てたって事、土方を歩かせ連れて行こうとしていた事、そのへんを考えると、存外に徒歩で行き来の出来る様な距離なんじゃねェかって思ったが…)
 甘いどころか、楽観的でいい加減な目算に過ぎたのだろうか。呻いて銀時は頭を抱えた。寒くて、暑い。深夜の雪山には何処を見回せども何ひとつ標すら見当たらない。遭難しながら人を──正確には人の魂を、捜すなど余りにも無謀に過ぎる。
 だが、お岩曰く、一度連れて行かれた土方の魂は極めて危険な状態にある筈だと言う。朝を待ってゆっくり登山、などと言っていた日には、眠る土方の体はその侭永遠の眠りについて仕舞いかねない。
 時間はない。手がかりはない。何一つない。吐いた白い溜息を煩わしさと共に振り払って、銀時は踵を返そうとした。頼る目的地であったこの岩が外れだとしても、そこで絶望して諦めていられる程に悠長な状況ではないのだ。
 「!」
 その時であった。
 かつん、と。とても小さい筈なのに、奇妙に響く音が鳴った。…気がした。
 雪は音を吸うから山は静かだ。動物の類も歩かぬ様な、月も眠る静寂の夜だった。故に、そこに混じった異音は恰も警鐘の如くに何よりも鋭く響き渡った。
 岩に背を向けかけたところで動作を停止させた銀時は、音の出所を探して頭を巡らせた。
 身じろいだ拍子に、かつん。もう一度音が鳴った。今度ははっきりと解った。振動も感じた。咄嗟に下を向けば、その音の正体が、念の為にと持って来ていた土方の刀の柄が、岩にぶつかって立てただけのものであるのだと、容易に知れる。
 偶然。ただの、偶然。言葉を噛み砕いて、銀時は土方の愛刀にそっと手を乗せた。
 これが、たまたま銀時が身を翻したから、岩に当たって、音を立てただけ。
 (ただ、それだけ)
 呟きながらも、違う、と体は勝手にかぶりを振っている。不可解で、意味は解らない。理屈ではないのかも知れない。幽霊の集う温泉旅館なんて場所には、理不尽か『偶然』しか無いのかも知れない。
 小さいが響いた音。雪の落ちる音ひとつしない世界に、己の息遣いだけが今は漂っている。白い呼気を散らしながら、銀時は辺りを幾度も見回した。己のものではない、酷く重たい刀の柄に手を添えて、そこに何か意味がある筈だと無心に思い込む。
 ただの偶然や気の所為でしか無い様な気のする現象から、然し二度も『それ』は起きた。だから、三度目もきっと、ある。
 刀は、土方にとって自らの一部であった筈だ。誰かを斬って誰かを護る為に存在している、その役割をいっそ愚直なまでに自らに課す為の、魂の拠り所であった筈だ。
 土方にくっついて、江戸から来たという『滓』たちもまた、それに護られた者たちに相違ない。だから、土方に、この刀に、寄り添おうとするのは道理である様な──そんな、直感でしかないものに動かされる侭に、銀時の身は動いていた。
 寒さ対策ですっぽりと被る様に着ていたダウンジャケットの、柔らかな毛のついたフードを頭から毟り取る様にして除ければ、衣擦れの音の代わりに閑とした夜の空気の音が飛び込んで来る。
 汗ばんで、血流の少ない耳が急激な外気に冷やされてずきずきと千切れそうに痛む。銀時は両掌を耳に添えながら、全ての意識を聴覚に集中させた。夜の、暗い、雪山の、森の揺れる、風の吹き抜ける、乾いて、湿った、音とも名状し難い様な音を、そこに紛れた、ちいさな声を。音を。囁きには満たないものを。
 「──」
 耳を幾ら澄ませども判然としない。どこか遠い、壁の向こうか何かで囁き交わしている様な、ぼそぼそとした息遣い。言語になりそうで、そうはまだ至らない様な──音。
 きっとこれは声ではない。だが、ここに至る迄に二度、銀時に土方の危機を知らせて寄越した。だから三度目もきっとあると、そう思った通りに、それを聞き取る。
 意志などない。何も出来ない。そんなものたちでしかない筈のそれらは、然しきっと銀時に何かを伝えようとしている。
 風の音だろうか。否。野生動物の声だろうか。否。草木のざわめく音だろうか。否。
 ずきずきと痛む耳に意識を集中させて、銀時は奇岩をふらりと離れて歩を進める。だがその向かう先に道はない。岩から離れ稜線へと向かっている。その侭進めば先は断崖だ。
 だが、銀時は確信した様に進み、崖の淵で足を止めた。ざわめきに満たない音はまだ続いている。真っ暗な闇に覆われた崖の下に向かって、続いている。
 銀時は懐中電灯を崖下へと向けた。すると、光の中にぼやりと、白と黒の陰影以外の色彩が映っている事に気付く。
 紅の色だ。何か、雪の中に鮮やかな色をした花を咲かせている樹がある様だ。
 小さな灯りでは見通せない、木々の茂る峰は闇をそこかしこに纏わせて無辜に拡がっていた。途中に窪地が出来ている様で、危険ではあるが飛び降りた所で死ぬ高さではなさそうだ。
 (夜だし、谷に向いた崖下なんて、幾ら歩き回った所で俺が気付く事も無かった…)
 だから、これは『偶然』ではない。
 そう。矢張りそれはきっと、確かにそこに居て、何かを言っているのだ。明確な意思など失い果てた『滓』の筈のそれが、何かを──、恐らくは、生前強く抱いていたのだろう、誰かを護りたいと言う思いを。
 ならばその向く先はひとつ。
 志半ばにして殉死した部下を静かに悼んで呉れた上司へと手向ける、思い以外の何でも無い。





防寒具の下の銀さんの格好はまだ旅館バイト中のワイシャツ姿です。…いやほら半袖は寒すぎるので。

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