ナグルファルに捧ぐ花 / 19



 「この国の──いえ、この世界の為に戦う手伝いが出来るならば、それは何よりも喜ばしい事です」
 「我々はあの戦いの時、真選組や皆さんに護られて生き延びる事が出来ました。だから、今度は我々が真選組の使命と、市民の命を護りたいのです」
 
 そう、少し興奮気味の上擦った声で語る若者たちを土方は、眩しいな、と思った。若さ故のひたむきさ、或いはそれは無鉄砲さと呼べるものであったのかも知れない。
 そうであったとしても、任務を使命として向かってくれるのであればそれも構うまいと思った。どの途彼らの役割は後方支援が殆どだ。前線で刀を振るう者らと違い、直接的な危険は殆ど無い。
 況してや、あの一件以来世界はすっかりと平和になり、江戸も順調に復興の兆しを見せている。平和に向けて歩む未来を盤石のものとする事こそが、これからの彼らの役目となっていくのだ。
 
 ──英雄として、
 
 ──奉られ、
 
 ──讃えられ、
 
 ──望まれなければならない。
 
 そうでなければ、我らは何の為に命を奪われたのか。
 
 
 
 「──?!」
 弾かれた様に、土方は伸ばした指をその場から退けた。火傷でもした様に指先がちりちりと熱い。思わず見遣るが、指には火傷どころか擦り傷ひとつありはしない。
 続けて床に落ちた侭の椿の花へと視線を再び投げる。よもや、花がその花弁の色の様に紅い炎でも纏ったのではあるまいかと言う程に、熱か痛みか──そんなものを、触れた指先に与えて寄越した、紅いだけの花を。
 (なんだ、今の…)
 未だひりひりと痛む気のする指で、冷たい汗をかいた項に触れる。お堂の様なこの建物の中は相変わらず寒く冷えているから、薄く汗ばんだ膚は落ち着いて行く鼓動と共にどんどん体温を下げて行く。
 着物の裡で、鳥肌の立っている二の腕を擦って、土方は辺りを見回した。四方の灯明がどこからか吹いた風に揺らされたのか、放射状に壁に伸びる己の影もゆらゆらと揺れている。俄に湧く寒気と相俟って酷く不気味になってきた。
 椿に──床に落ちていた花に触れただけだ。したことはと言えば、それだけだ。
 だが、その瞬間に何かが脳を揺さぶって抜けていった様な気がしたのだ。記憶を辿る様な思考には確かに、嘗て殉職した若い隊士たちの姿があった。然しそれが突然波濤の様に押し寄せた呪詛めいた念にかき消され──、
 (…いや。どちらかと言うと、記憶の中にノイズが入り込んだと言うか…、)
 それは、言うなれば、観ていたテレビがいきなり強烈な砂嵐になった様な感覚だった。砂嵐どころか、その向こうから怨霊が這い出て来る様な衝撃と言っても差し支えないかも知れない。
 意味も訳も解らないが、ただひたすらに不快であったのだと思う。嘔吐感にも似た寒気と冷や汗は恐らくその所為だ。拒絶反応の様なものなのだと思う。
 怖ろしいと思えるのは、得体の知れない事象全てに感じる事だ。
 そして、怖ろしいと感じるのは、それが己の理解とはきっと相容れないものなのだと何処かで確信していたからだ。
 「……、」
 咄嗟に、足下に転がっている椿の花に向けて片足を振り上げかけて、やめておく。今度は足の指が痛みそうだと言う以前に、それが意味のない八つ当たりの様なものだと気付いたからだ。
 (………お前の首がこうなるぞとか言う婉曲な嫌味かと思ったが、どうもそう言う訳だけでもねぇらしい)
 死を想起させる紅の花首は、あの黒いものが置いていったものだ。メッセージか、含みのある意図なのか、ただの儀式的な意味合いでもあるのか。
 「……………クソが。結局はこうなりやがる」
 床の上にどかりと音を立てて座り直して、土方は己の頭を癇性めいた仕草でがりがりと掻いた。認めたくはないが否定ばかりを連ねていても意味が無い。
 この訳の解らないお堂の様な建物に閉じ込められて向こう、初めて起きた、己の行動以外の事象だ。椿の花とそれとどう繋がったものなのかなど解らないが、少なくともたったひとつ、この花を掴んでみようとした事で、黙って座している以外の変化があった。それが賢明な事なのかどうかはこの際だからさておく。
 (これを触って何かが起きたと言うなら、触れって事だろうが。火傷しようがなんだろうが、)
 ──やってみない事には解らないのだ。
 そんな土方の様子を端から見る者があれば、切腹前の侍の様だとでも表したかもしれない。少なくとも潔さを見出したその目には、迷いや躊躇いの類は無かった。
 大きく深呼吸して、それから土方は再び手を伸ばした。床の上で静かに横たわる、紅い花へと。
 
 *
 
 一面の雪原であった。
 ちらほらと、枯れた茂みや木が疎らに点在するだけの、雪深い山中だった。
 歩くにも困る、膝下まですっぽりと埋まって仕舞う程の深い雪の中を、それは歩いていた。
 ゆらゆらと不安定に揺れる木の板の上に乗せられた人を、幾人もの人々が担いで運んでいる。
 輿と言えばそう見えなくもない。板から伸びる四本の持ち手を、男たちが息を切らしながら必死になって担いでいる。
 藁や毛皮で出来た原始的で粗末な防寒具は寒そうなのに、輿を担ぎ雪中を進む重労働で、誰もが汗をかいていた。
 早く終わらせたい。早く終わらせよう。見下ろした顔たちは皆そんな一念しか抱いていない様に見えた。
 雪の中に埋もれかけた様な、奇岩の前に辿り着く頃には、辺りはすっかりと暗くなっていた。輿を先導する者がいつの間にか点けた松明が、闇の中にその奇岩を薄ぼんやりと照らしている。
 輿が一旦下ろされた。然し担ぎ手たちは息をつく間もなく、手際の良い作業めいた仕草で、輿の上に乗せられていた者の首に荒縄をかけた。
 そこで土方は漸く、それが己なのだと──己の視点であるのだと気付く。
 どこからか、男の一人が真っ赤な椿を採って来て、土方の髪に挿した。
 祝詞の様な声が唱和される。男たちが雪の中に平伏してなにかを唱えている。
 古語の様な言葉を聞き取るのは困難であったが、それが『何か』への祈念であると言う事だけは解った。
 やがて再び輿が持ち上げられた。首から下がる荒縄を、暗闇の中辛うじて目を凝らして追って行けば、それが奇岩に出来た鉤の様な部分へと結び付けられている事を知る。
 輿を担いだ男らが、再び唱和する。それは赦しを乞う様にも聞こえたが、その乞う先は輿の上の存在へと向けたものではないのだろうと、傾ぐ視界の中でそう思った。
 男たちが手を離し、輿は自然と崖から落ちていく。落下し、岩にぶつかった板は粉々に割れて、幾つかの破片となって崖の遙か下へと消えて行く。
 縄で頸一本を繋がれた肉体は中空に繋がれて落ちない。
 落下でかかった体重の加重で頸椎が砕けたのか、力無く仰け反った頭部から椿が落ちていくのが、何故か見えた。
 その時には土方は──その見ている視点は、或いは視点の主の意思はきっとどこか別の場所に在ったのだと思う。
 ぶら下がった亡骸を見下ろしながら、男たちが祈りの様なものを捧げ続けている。
 山の怒りよ、この捧げ物によって鎮まれ。
 吹雪を止め、作物を枯らすのを止め、獲物を与えて、我らを赦し給え。
 恐らくはそんな事を幾度も重ねているのは解ったが、同時に、事を成し終えた彼らの声から、疲労が安堵へと変わっていっているのも知れて、土方は思わず皮肉げに笑う。まるで、日常的な一仕事を終えただけの様だ。
 (人ひとりに負わせるにしちゃ、随分と大層なお願いばかりだな…)
 これは人身御供と呼ばれる風習なのだろう。人ならざる者を信仰するに至る、悲劇や奇跡が、嘗てのこの地にはきっと根付いていた。
 然しひとの一人の死など、如何に捧げられたとして、如何に使われたとして、消費すればただの一人の死だ。人間では計り知れない程に大きな視点で見れば、何れは地球の裏側で嵐を起こすやも知れないが、少なくともこの場の限りでは、人ひとりの死も、蝶々一匹の死も、世界には大した影響を及ぼしはしない。
 残酷で、夢の無い話だが、それが現実だ。人間の尺度で見れば、今死ぬか寿命で死ぬかも、精々が数十年の差異でしかない。その数十年は人の社会では子孫を一代二代繁栄させるだけの時間を持つかも知れないが、世界だのカミサマだのに願い支払う対価としては、余りに短すぎる。そうして繁栄した文明も、世界は時に一瞬で滅ぼし得る、そう言うものだからだ。
 (……だが、実際にこうやって捧げられた連中からすれば、人ひとりってのは、そいつの全てだ。そいつの世界の全てを対価として支払われるんだ、相応に『奇跡』でも与えて貰わなきゃ、死んだ甲斐も無くなっちまう…)
 それでも。──それでも、死には甲斐も花も咲かぬのだと、土方は知っている。だからこそ、刀の一振りで描く死も、理不尽なばかりの殉死にも、意味を見出そうとせずにはいられないのだ。それで己の両腕が幾ら重くなろうとも。足取りが泥の様に澱み捕らわれようとも。
 輿を担いで来た人々は、祈念の唱和以外に何一つ口を開く事は無かったが、その表情には一種の疲労と、諦観しかなかった。悲しむ者、悔いる者など、居ない様に見えた。或いは、それが『儀式』ゆえに、皆そうしようとしているのかも知れないが。
 (……………誰もが、本当は気付いていたのかも知れねぇな。これがただの『作業』──習慣だと)
 雨が降るまで雨乞いをすれば、雨乞いの儀式は必ず成功する。……つまりは、そう言う事だ。
 思って、土方の見下ろした先では、『捧げ』られた者らが徐々に集まって、黒い影の様な塊を形成して行っていた。
 
 自分以外の皆を、救って、護って、この命は潰えたのだ。
 
 集った黒い影は──崖下へと落ちて朽ちた椿の花たちは、新しい骸を見上げながら口々にそう叫んだ。嘆いた。
 それは己を捧げた村人たちへの憎悪ではない。無念ではない。
 覚悟の末の死を。大義と、使命と、素晴らしい事なのだと思って、願って、そう在り続けようとするものたちの、ただの、消えない声であった。







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