ナグルファルに捧ぐ花 / 20



 意識が戻った瞬間、凄まじい圧迫感に襲われて目を見開く。
 「──っ、ぐ、」
 突如襲ったのは、頸をねじ切られるのではないかと思える程の衝撃。咄嗟に、頸に巻き付く荒縄を手で引っ掻いて指をそこに潜り込ませようとするが、頑丈に結われて括り付けられたそれは爪一枚すら通そうとはしてくれない。
 「か、はっ」
 縄を切ろうとしているのか、苦しいだけなのか、自分でも判然としない侭に爪でがりがりと縄の表面を引っ掻いて毟る。だが、一本一本がきつく、太く編まれ、それを更に何本も縒った頑丈な縄は、その表面を幾ら削ろうともびくともしなかった。
 「〜……、」
 ぎりぎりと絞め上げ気道を塞ぐ強さに、頸動脈を圧迫する力に、ひゅ、と喉奥が酸素を求めて喘いだ。急激な酸欠状態に脳がブラックアウトしそうになる。視界が、激しい耳鳴りが、遠ざかる中で、どくどくと血液が酸素を送ろうと必死で流れる音の、早すぎる拍動が耳の後ろで響いている。
 先頃見た、幻の様な世界の光景が土方の脳裏を過ぎった。頸にこうして縄を掛けられ、崖からぶら下げられた者たちの無惨な死を。──否、当人たちが英雄的行為と信じて擲った命を。
 幻想の死と、現実の死とが重なって見えた気がして、土方は遠ざかる意識の中で半ば無意識に藻掻いた。すると、足が床を思い切り蹴った事に気付く。裸足の爪先が、冷えた床板を確かに引っ掻いた。
 (まだ、足は完全に浮いちゃ、いねぇ…?!)
 爪の割れる小さな痛みに縋って、土方の足は床を探した。すれば意外な事にも、足は──膝はまだはっきりと床についていた。膝の骨ががつんと床に当たって鈍く痛みが返る。
 「……?!」
 その、床に当たった膝をついて体勢を整えれば、縄に掛かっていた圧迫が緩くなった。頭はほぼ上を急角度で向いてはいるが、膝は確かに床についている。
 弛んだ縄の隙間から一気に流れ込む酸素に、肺が痙攣して咽せた。土方はげほげほと咳き込みながら、真上から下がる縄を両腕で掴んで、体勢を決して崩さぬ様にしながら幾度も呼吸を繰り返した。小刻みな息遣いが段々と大きめの深呼吸に戻る頃、漸く、未だ己は生きているのだと実感して、息を大きくついた。
 ゆっくりと見上げれば、縄にはまだ余裕があった。膝立ちになっているから、縄を両手で必死に掴んで姿勢を保っている状態だが、両足できちんと立てばまだ吊られるまでの猶予は残っている。
 (……確かに、絞まってたよな…?吊られてもいねェのに、どうして)
 強烈な力で上に向かって引っ張られたとしても、それが離れた様な落下感は無かった。つまり、最初から両足は猶予を持ってそこにあった筈だ。縄だけがじりじりと上方に向かって引き上げられて、それでも何故か頸以外の部位は、抑えつけられでもしていた様に浮かばなかった。
 「…………なんだ、こりゃ」
 己の両足を見下ろして、思わずこぼれたのは問いの様な言葉ではあったが、掠れて引き攣った、ただの呻き声でしかなかった。何だ、も何も、答えは明確にそこに顕れていた。
 土方の両方の足首には、まるで複数人が掴んで抑えつけていた様な痣があった。ご丁寧に指の食い込んだ様な痕まで残っている。
 床の上には相変わらず椿の花が落ちている。それに触れて見えた幻の様な風景が、どの程度の時間のものであったのかは定かではない。一時間以上だったのか、僅か分秒の出来事であったのか。何にせよ、土方が『それ』を見ている隙でも狙うかの様に、縄が引かれて行く間、両足が『何か』たちに押さえられていた、と言う訳だ。
 唇が乾いてかさつく。冷や汗が項を冷やすのを実感しながら、土方は扉の隙間を見遣った。そこに明確に何かの姿がある訳ではない。だが、解る。閉ざされた扉の僅かの隙間、そこから、また手でも伸ばして来たのだろう。
 (暴れた程度で離れたか消えたかしたって事は、どうやら無理矢理にどうこう出来るって程の力は無ぇって事か…)
 楽観的かも知れないとは思うが、そう脳裏で静かに今し方の出来事を反芻すると、土方は膝立ちの状態からゆっくりと立ち上がった。頸に結わえられた縄が少し余裕を取り戻してだらりと撓むのに息を吐きながら、目でその先を手繰る。まだ余裕があるとは言ったが、床にぐるぐるとのたうっていた縄の長さを思えば、もう残り時間は僅かしかない。
 縄を軽く引くと、梁を通ったそれは殆ど真っ直ぐに、ぴんと張った状態で扉の向こうへと消えていた。
 「……」
 取り敢えず解った様な気のする事が幾つかある。
 この辺りでは人身御供の風習が昔あった。恐らく今はもう無い。あの幻の中の人物たちは皆古風な、粗末な格好をしていたし、生贄を捧げる事で飢餓や災害が収まる道理など無いと、今では『解って』仕舞っているからだ。
 命を他者が奪う事は法律や倫理で大きく制限された。罪を犯してまで『生贄』と言う供物を捧げるなど、その行為に意味がないと知れている時分には余りに馬鹿げている。
 嘗てそんな生贄として果てて、崖下に集っていた黒い影たちは、このお堂の様な建物の外に居る『もの』と──恐らくは土方の足を先頃まで掴んでいたあれらと同一のものだ。土方がレイによってチャンネルとやらを開かれ、最初に目にする羽目になった、あの見上げる程に背の高い、黒い影の様な姿の『もの』。
 そうなると、あれがただの、そこいらに漂って温泉を楽しんでいるスタンドたちとは毛色の違う存在であるのだと、土方が一目見てそう感じた事にも説明がつく。
 ただひとりやひとつのスタンドである筈がない。怨念か執念かそれとも慈愛か。とにかくそう言ったあらゆる、捧げられた人々の思いが歪に集って固まって、ひとつの『もの』を形成したのだろう。それがあれの正体だ。
 (……で。多分にそれは、あの呪詛めいた言葉から察するに、『皆の為に自分は死んだ』と言う、そう信じなければならなかった、大義や使命感──…、)
 それを未練と断じるのは簡単だろう。或いはもっと意地が悪く言うのであれば、負け惜しみ、と。
 彼らは、自らに嘘をついた。家族や村の仲間を自分の命ひとつで救えるのだと、ただ純粋にそう信じて、それ以外の現実を拒絶した。
 そうして世界に凝った。己の死は無意味ではないと。見届ける為ではなく、そう思い込む為に。そう言う『事実』と成る為に。行き場を失った魂たちは自らを英雄や神と定義し、供物と言う同じものたちを求め、集って、固まって、澱んで──やがては三十六天の淵にまで希釈されながらも、それでもその意志や方向性だけが其処に在り続けた。
 (ある意味じゃ、それも一種の『神』の概念なのかも知れねェが…、個々の自我が連続性を保っている事なんざ、人には到底出来やしねぇ。最早怨念とかそう言うレベルを超えた、『ただそこに在る』だけのものになっているって所か…)
 つらつらとそう考えた所で土方は苛々と額を揉んだ。『見える』様になってから向こう、こんな超常的で半透明な何かに造詣など深くなりたくないと言うのに、『見える』だけに、なんとなく解って仕舞う(様な気のする)事はあるのだ。その辺りは人間もスタンドも余り変わらないのかも知れない。
 ただ、最早『ただそこに在る』だけのそれには明確な方向性の意志や、真っ当な思考は存在していないのだろう。
 (俺について来たって言うあいつらを見て、恐らくは思ったんだろうよ。自分たちの様に、なにかの為に死んだものたちを引き摺る御前が、『次』の供物だと)
 或いは単に本能的に、何百年振りにか己を『見た』土方を、次の生贄のお仲間や己を信奉する信者なのだと、そう判じただけだろうか。それで、供物として求めた。
 だとしたらもっとたちが悪い。それは最早ただの神によく似た概念ではなく、詛いだ。もっと別の、澱んだだけの意思に似た存在へとシフトして仕舞っている。
 要するに、誰彼構わず生贄として彼岸へ引っ張り込む可能性も高いと言う訳だ。この辺りがスタンドを寄せ易い忌み地である事で、『生きた』人間が易々立ち入っていないと言うのは偶然にしてはよく出来ているが、不幸中の幸いだったのかも知れない。
 「まぁ、明らかに警察の職務じゃねぇし、そもそも俺ァ休暇中だろ。スタンド専門家でも何でもねェんだ、寧ろただの被害者だろうが状況からしても」
 また急に荒縄が引かれる様な錯覚を覚えて、縄を手にぐっと掴みながらそんな事をぼやいて──、それから土方は両肩を落とした。溜息。
 (あいつらの姿も、あれから見ていねぇ。万事屋が何処に居るのかも、ここが何処なのかもさっぱり解りやしねぇ。刀もありやしねぇ。手詰まりだろうがこんなん…)
 今己に出来る事などありはしない。
 幾度目かの反芻だった。だがそれでも、感情がざわつく。胸の奥がざらざらとして気持ちが悪い。叫んで、抗いたい。無意味と解っていても。
 これはきっと、当たり前の様な反応なのだろうと思う。スタンドだとか人間だとかそう言う問題ではなく、相容れないと感じる、激しい拒絶や忌避感だ。
 死に意味を持つから、持たされるから、死ぬ事に意味がある、死ぬ事で己や誰かの心が救われる、そんな道理があって良い筈はない。
 遙か昔と今とでは風習、宗教、価値観の違いはあるだろう。それもまた理解している。
 だが──そう時と言う理で隔てられたものであったとしても、命は、半年前でも何千年前でもひとひとりの負う事の出来るたったひとつのものだ。それは生ある上での責。
 命の価値は、今であろうが昔であろうが変わらない。価値観が異なって、生や死の重さが異なったとしても、その付与出来る意味も意義も、変わりはしないのだ。
 刀の一振りで描かれる死は重いものではなければならないが、ひとつひとつに意味を与えていては、何れ腕が動かなくなって仕舞う。
 それでも、積む屍の数と等価に、摘む命はある。
 だから憤りを憶えるのだ。そう在る側に、立ったからこそ。
 「大義なんて、ありはしねェんだ…!死んで意味があったなんて言う嘘にまみれた結果論で、あいつらの死を、ただの英雄的な犠牲と言う名の数にしちまうなんてのは、俺が絶対に赦さねぇ!」
 どうしていまここに、この手に、刀がないのか。届かせるべく語る言葉がないのか。
 殉職と刻んだ手が、筆を握る手が、忌々しかった。
 感情でどう叫ぼうが、どう思おうが、その瞬間に彼らの若い命は、『数』になった。だから、それが赦せないのだと、受け入れてはならない事であると、ただそう思った。そう思ったから、叫んだ。誰かや何かに向ける訳でもなく、棺に手向けるでもなく。
 墓碑を彩る白い花を踏みつける幻影と共に、土方は真っ赤な椿の花を勢いよく踏みつけた。





らしくもなく真っ当に熱血漢なのは、銀さんの影響と戦後故と言う無理矢理な感じで…。

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