ナグルファルに捧ぐ花 / 4 縁側からは裏庭がよく見えた。裏庭と言ってもわざとそうと設えた様なものではなく、客が見る様な風景がある訳ではない。本当にただの、建物の、裏側のスペースと言った風情だ。庭と言うよりは裏山と言った方が正しいのかも知れない。 だが、人里離れた雪山深くでは、そんな裏庭の風景でさえも目新しく感じられる。陽もすっかりと沈んで、山への斜面の続く森にしんしんと雪が降り積んでいくだけの有り様を、闇の中に宿から漏れる灯りだけがぼやりと照らしている。 その灯りの外側に出ると、途端に世界は夜の闇に包まれて仕舞う。冬だからか小動物の立てる音や気配ひとつせず、時折雪が木からぼそりと落ちる音さえも聞こえて来ない。目に見えぬ部分には何があるのか。そんな想像さえもし難いほどに、そこに在る夜は静かで無辜な存在であった。 要するに、何も見えないと言う事だ。夜になっても賑やかなかぶき町のそれとは何もかもが違う。溜息をついて肩を落とした銀時は、寒々しい風の吹き付ける窓をそっと閉じると、従業員用に宛われている羽織の中でぶるりと背を震わせた。湯を使ってからまだそう経っていないと言うのに酷く寒い気がする。何と言うか、精神的に。 これだけ雪が降っている中でも、真冬でも、背筋が厭な感じに冷えていても、このスタンド温泉旅館で『人間』が暖を取る事が出来るのは火鉢と古風な石油ストーブしかない。もとい、火鉢だけでは流石に寒くてかなわないと銀時が何とかごねた結果、古びたストーブが追加されたと言うのが正解である。 そのストーブの上では薬缶がしゅうしゅうと音を立てている。その蒸気も、隙間風の多い部屋を暖める手伝いに果たしてなっているのかなっていないのか、定かではなかったが。 「……」 部屋の中央付近に敷いた布団の中では、土方が寝て──否、気絶している。昼間に倒れてから向こう、ぴくりとも動く気配がないと言うのには流石に心配もしたのだが、そんな風に気を揉んでいた銀時に対してレイ曰く、元から相当に疲れていたんじゃないの、だそうで、成程それにも頷けるものがある。説得力と言う意味では覿面に。 そもそも、カレンダーを真っ黒にする程の連日の多忙に見かねたからこそ銀時も、つい保養の旅行に、と誘って仕舞ったのだ。頭の中では、スタンドだの何だのと言う部分はすっぽり抜けて仕舞っていたし、兎に角土方をゆっくりと休ませてやりたかったと言うのは紛れもなく本当の事だ。 銀時の方はバイトがメインとは言え、二人で遠出する機会などまず無いし、土方が休んでいる間に自分のバイトを終わらせれば、後は二人でゆっくり出来る時間もあるだろうと、そう思っていたと言うのに。 認識が甘かったか、目算が甘かったか。兎に角土方はこんな所でまで、無駄に負けず嫌いの性分を発揮して仕舞い、挙げ句の果てには何やら一時的に『見える』様にされたとか何とかでこの様だ。 気絶が発端とは言え、眠っている事には変わらないのだから良いと言えば良いのかも知れないが、土方当人にとっては堪ったものではないのかも知れない。銀時は己の短絡的且つ大雑把に過ぎた言葉を今更の様に反省しつつ、寝返りひとつ打つ気配を見せない土方の顔を見つめた。溜息。 (まぁとにかく…、目ェ醒ましたらどうするか訊いた方が良いな。コイツの事だから意地張りそうな予感しかしねーけどしゃーねぇ…) 普段スタンド的なものが見えていない様な人間が、いきなりレベル三十六だかなんだか、普通のスタンドでさえ見えていないものが見えて仕舞う様な状況にされた(らしい)のだ。町の周りのスライムを倒している程度の勇者が、中盤の難ダンジョンの強敵の中に放り込まれる様なものに違いない。そうなっては土方自身の心労も常より嵩んで仕舞うだろうし、それで結果的に温泉に来る前より疲れている様では世話がない。 怒るか、落胆させるかは必至。だが、この侭無理をさせても仕様が無い。この仕事が終わったら何か埋め合わせでも、と銀時がつらつらと考えていると、やがて青白い顔色の中で閉ざされていた土方の眉間がふるりと震えた。布団から出て来て、持ち上がった手で目元を擦りながら、怠そうな目蓋がゆっくりと開かれる。 「……よろ、ずや」 色の悪くなった唇が辛うじて形作って呟いたのは、乾いて、雪の音にもかき消されそうな程に、弱く小さい声だった。銀時は思わず眉根を寄せながら、枕元に用意していた水差しを手に取る。 「…はよ。っても夜だけどな。具合はどうだ?」 湯飲みに注いだ水を手渡しながらそう問えば、土方はのろのろとした仕草で上体を起こして、暫く目を閉じて何やら唸る様にして黙考した。恐らくこう至った経緯を反芻でもしているのだろう。 「………あぁ。半日近く落ちちまうたァ、不覚を取ったな。悪ィ」 返事は矢張り強がる気配が強いもので、銀時は小さく苦笑しながら、伸びて来た手に湯飲みを持たせてやった。室温にぬくまって、冷えきっているとは到底いかない水を、ちび、と口中を湿らす程度含ませてから、土方はちらりと部屋を見回した。特に何も言わない辺り、記憶は一応繋がっている様だ。 「まぁその…、昼間、つーかさっき言った通りに、ここはそう言うスポットって言うか、幽れ…、スタンドが集まる温泉でよ…。その、『見えない』なら来た時みてーに普通に過ごす事は出来るし、全く気が休まらねェって事も無いんじゃねぇかな、とは思うんだが、ホラ、こう言うのって好き嫌いとかそう言う問題じゃねェし、怖かったり気持ち悪かったりでおめーの気が休まらねェってんなら、」 「聞き捨てならねェな。誰が怖ェって言ったよ」 おずおずと言葉を探しながら紡ぐ銀時を遮る様にぴしゃりとそう言うと、土方は再び水をこくりと飲んだ。また部屋の中を窺う様に視線を走らせてから、指の背で眉間を揉む。 「『見えねェ』のが普通だったんだ、いきなり見える様になりゃ少しは驚くだろ。別にもう…、その。…慣れりゃどうにでもならァ」 「………」 ヤケクソの様な土方の言い種に、銀時はそっと天を遮る天井板を仰いだ。何やら血天井めいた染みが人間の顔の様な模様を描いていてぞっとしない。そんなものに見下ろされながら寝ていただけで、言う様に『慣れる』訳などない。 銀時はそそくさと立ち上がると、部屋の襖をそっと開いた。すると丁度良くも廊下を、厠帰りなのか温泉帰りなのか、スタンドご一行様が通り過ぎて行く所であった。 「……っ」 振り向けば、土方は引き攣った顔をしながらも、あからさまな拒絶と取れる態度は取っていなかった。悲鳴なり絶叫なりを呑み込んだ口元は戦慄いて、だらだらと滝の様な汗をかいてはいたが。 「…見えるよな?」 「…………み、見えるに決まってんだろ。当然だろ。居るんだから見えるんだろ」 「…………」 なかなかの鋼鉄の意志である。負けず嫌いで頑固な土方の性質が全て裏目に出そうだと考えながら、銀時は襖を閉じると布団の横へと戻った。 (無理しないでも、とか言えば、ますます意固地になるパターンだよなこれ…) 銀時としては、レイに頼んで元通り『見えなく』して貰うなりなんなりして大人しく休ませてやりたいのだが、当の土方本人に一歩も引く気配がないと言うのは困ったものである。最初からお岩に会わせずにとっとと部屋に説明抜きで放り込んだ方が良かったのだろうかと思うが、今更そんな事を言っても仕様が無い。 後は、何とか余り接客──接幽霊の無い仕事を割り振って貰うぐらいしかない。明日、レイに会ったらそう頼んでみようと思った銀時は、肩を落としつつもなるべく気楽なトーンで言う。 「バイトがあんのは俺だけだし、この宿の宿泊費用なんざ見ての通り高いもんじゃねーから、あんま気張って働く必要もねーから。適度に気ィ抜いて良いからな」 土方(おまえ)にそれが出来たら苦労はしないのだが。思った言葉は結局口から出てはいかなかったが、取り敢えず馬鹿にされたり軽んじられている訳ではないとは判じたのか、土方は少し顔を顰めながらも小さく頷いた。それから彼は再びちらりと部屋を見回して、囁く様な声で呻いた。 「……あそこに居る、子供のカオ○シみてーなやつは…?」 「危ねェからジブ○で譬えんのは止めろって」 「ンな事言われてもそうとしか言い様がねェんだよ!ありゃ一体何なんだ…、」 叫ぶが、声は飽く迄密やかで、僅かに震えて波打っている。銀時は思わず土方の視線が幾度も窺っていた部屋の隅を振り向いてみるのだが、そこには何もない。普通に『見える』スタンドから感じる、気配の様なものさえも気取れそうにない。 「……さぁ…。少なくとも俺にゃ見えねーから、レベル三十六相当のスタンドなんじゃねェの」 「レベルってなんだよレベルって!しかも何で三十六とか中途半端なんだよ!ってぎゃああこっち見てるぅうう!見てるっつーか向いてる!」 殆ど息遣いの様な声音で器用に絶叫すると、土方は布団をぎゅうと握りしめて視線を游がせた。青ざめているその顔は本気そのものとしか言い様がなく、一体『何』を見ているのかは知れないが、何となく銀時もそちらを向けなくなって仕舞う。 (何?!何が居るんだよ!つーかここ従業員用とは言え他人の部屋だよね?!お客スタンド様でも入って貰っちゃ困る奴だよね?!) 嘗てここで働いた経験と、元から『見える』と言う時点とで、銀時には一応だが土方に対するアドバンテージの様なものがある。何についての優位性なのかなど解らないが。 兎に角当たり前の様に見えているだけに、極力落ち着いていなければ、怖がっていると自分からばらしに言っている様なものである。故に銀時は落ち着いた素振りで振る舞ってはいたが、内心では泣きたい心地であった。 見えないのであれば居ないも同然。土方が昼間に言った事だが、実際そんなものが『居る』と報告されて仕舞えば、見えなかろうが何だろうが、それはもう『居る』のである。 最早銀時の頭の中では、部屋の隅に得体の知れない存在が膝を抱えて座っていると言う画が出来て仕舞った。それがじっと、夜の暗い部屋の中、眠る二人の人間を見つめている……── (いやいやいや!そんな馬鹿な、そんなもんが居たら怖ェどころの騒ぎじゃ…、いや待てよ、じゃあ普段見えたりはしねぇレベル三十六だかのスタンドってのは普通に世界に溢れて…、) 厭な想像の泥沼に沈みかけている己に気付いて、銀時は必死でかぶりを振った。そんな想像が正しいかどうかはさておいて、土方の言う、子供のカ○ナシの様な奴、とやらが部屋の隅に鎮座しているらしい状況で、人の顔に見える天井板の模様を見ながら平然と眠るのは流石に難しい。 「……なぁ、この部屋ちょっと寒くね?」 こほんと咳払いをした銀時の言葉に、土方はこくこくと頷いた。 「そ、そうだな。ちょっと寒いよな」 「寒いし、暗いし、危ねェから、灯り点けっぱで良いよな」 「お、おう。夜だけど暗いのは危ねェからな…点けっ放しで良いだろ」 交わす目配せ。互いに意味が通じているのかは果たして微妙な所であったが、銀時は態とらしく声を張り上げ、土方も態とらしくそれに追従した。 「明日は朝早くから仕事だし、そろそろ寝るか。灯りは危ねェから点けっぱで。あと、寒いからちょっと布団寄せるな」 「だな。寒いからな。俺も疲れてんのかもな、あれだけ寝たのにまだまだ眠れそうだ。明るくても問題無ェな」 互いに同じ言葉を繰り返しつつうんうんと頷くと、土方は布団の中に素早く潜り込んだ。子供の様な仕草だと思うが、銀時も大概なので笑えない。土方の隣に、敷いてあった布団を素早くずらして来て、頭から被って仕舞う。 灯りが点いていれば大丈夫だとか、布団が近くなら心細くないだとか思った訳ではないが、その程度しか気休めがない。土方は果たして眠れるのだろうか。休めるのだろうか。そんな事を考える銀時の目も、神経も冴えて仕舞っていて、とてもではないが爽やかな眠りになど期待出来そうもなかった。 今更>ナチュラル両思いなのに既成事実もお互い気持ちの確認もない、そんなフワッフワな状態です。 ← : → |