ナグルファルに捧ぐ花 / 5



 夜もまだ明けきらぬ内の時間帯なのは解っていたが、目蓋をぱちりと開いた銀時はのろのろと上体を起こした。きっと酷い隈の浮いているだろう目元を揉んで、寒々しい空気の中にそっと息を吐く。
 (結局殆ど眠れなかった…)
 灯りの灯された侭の部屋は、夜明け前だと言うのに明るい。その分、灯明の小さな光源ひとつでは照らしきれぬ部屋の隅に蟠る闇が濃く感じられる。例えば部屋の四隅。例えば布団の中。例えば卓の下。その何処からか──或いは何れもからか、無表情のお面の様な顔がじっとこちらを見つめている、そんな妄想を、馬鹿馬鹿しいとは思いつつも描ける程に。
 欠伸を噛み殺す銀時の布団の真横で、土方がごろりと寝返りを打った。「うーん」と不明瞭な呻き声を上げた彼はもぞもぞと布団の中で手足を持て余す様に動かし、やがて目蓋を開く。銀時と同じ様にはっきり、ぱちりと。
 「……お早うさん」
 「………おう。あー、良く寝たな久々に」
 昨晩も同じ様な事を言っていた気もするが。布団からはきはきとした仕草で身体を起こした土方は、両腕を上に伸ばしてちいさく欠伸をした。
 「旅に来てまでいつもと起床時間が大して変わらねェとはな。これも習慣って奴だな」
 (嘘こけ。目の下真っ黒じゃねーか…。つーか夜中ずっと寝返り打ちまくってたし)
 ふん、と無駄に得意気に笑って言う土方の目元を見遣って、銀時はそっと嘆息する。眠れていないのはお互い様だが、これは完全に強がりモードに突入している時の土方の態度である。こうなると指摘するのも否定するのも起爆装置にしかならないのだと、流石に長年の付き合いで銀時もいい加減に学習した。
 いつもの日常生活の中での戯れならばともかく、こんな状況で喧嘩などわざわざ買いたくはない。ここは気付かない振りをしてやるのが懸命だろう。
 窓辺に立って、寝疲れた身体を解す様に軽くストレッチ運動をしている土方だが、矢張りその目線は室内を余り游いではいない。寧ろ必死で目を逸らそうとしている様だ。
 恐らくは、昨晩言っていた『子供のカ○ナシ』の様な奴とやらが居るのだろう。まだ、この部屋の何処かに。
 (そう思うとぞっとしねェ話だが…。まぁ後でレイにでも訊いてみるかな)
 がりがりと頭を掻いて二度目の欠伸をすると、銀時は土方を促して仕事着に着替えた。廊下を歩きながら簡単に建物の構造を説明し、従業員用の休憩部屋へと向かう。寝不足だろうが何だろうが仕事はあるし、仕事をするには腹が減っていては始まらない。こんなスタンド旅館だが、人間用のまかないぐらいあるのだ。
 「お早う、ギン、十。随分ゆっくりした朝だね。まぁ初日だから許すけど、働くと言った以上はちゃんとやる事はやって貰わないと困るよ」
 目の下に隈を作った二人を迎えたのは、割烹着を着物の上に着たお岩であった。余り朝から目の当たりにはしたくない、お登勢と良い勝負のインパクトのある面相であるのだが、周囲どこを見ても半透明のスタンドだらけの中では、逆に安心すら憶えて仕舞うから不思議なものである。
 「返す言葉もねェよ。今日は昨日の分も励む」
 律儀にそう返す土方の態度が何か気に入ったのか、お岩はゆったりと笑みながら、お櫃から白米をよそいつつ言う。
 「そいつは頼もしいね。そうそう、十。レイに聞いたんだが、アンタ元々『見えない』領分なんだってね。だから…そうさね、風呂場の掃除を頼むよ。お客様への温泉の開放は六時からだ。それまでに片付けとくれ。わかったね」
 「おう」
 頷くと、土方はさっさと朝食に向いて手を合わせた。有情な事にも、なるべくスタンドに遭遇しない様にとお岩なりに気遣って割り振ってくれたのだろう仕事だが、それに気付いたかどうかは定かではない。
 「俺は?」
 「ギン、アンタも取り敢えず十と一緒に風呂掃除から始めな。色々指導しておやり。任せられると判断したら、朝食の配膳の仕事が待ってるよ」
 「りょーかい…」
 つまりゆっくりする暇などないと言う事だ。土方への掃除の指導もそこそこに慌ただしい接客仕事が待っている。肩を落としつつも銀時も席につき、頂きます、と言うものの味わう間もなく食事を平らげた。それでも、以前の柿ピーオンリーの時よりは断然マシな待遇である。
 銀時は昨日の疲れも昨晩のアレコレで全く取れていないと言って良い状況なのだが、土方の方はと言えば流石徹夜慣れしていると言って良いのか、一度動き始めたら、眠気や疲労など全く感じさせない様子でいる。
 レイの姿は見当たらなかったが、お岩の方で土方の仕事を配慮してくれたのは有り難い。だから銀時はそのことを──土方の『見えて』いるものについてを聞きそびれて仕舞ったのだが、仕事の段取りを考える内に忘れていた。
 
 *
 
 その事に気付いたのは、風呂場に入った時だった。
 ネクタイは外して、腕と裾とを捲り上げた格好で浴室に一歩入った土方が、見て解るほどあからさまに全身で硬直するのを見て、銀時の背筋もまたぞっと粟立つ。厭な予感、なんて言う高尚なものを感じ取った訳ではない。単に、昨晩からの経験則だ。
 咄嗟に辺りを見回す。然し矢張り何も見えない。見えやしない。
 露天ではない屋内浴場は檜張りの浴槽に、床はタイルの上に簀の子状になっている。湯はまだ止めていないから、浴室内はもやもやと湯気が漂うばかりだ。客の入れる時間ではないから誰もいない。銀時の目にもスタンド一人映ってはいない。
 見えやしない。或いは、居やしない。咄嗟にそう思うのだが、硬直した土方はばっと慌てた様に銀時の方を振り向いた。その顔色は心なし悪い。
 「オイィィ!どう言う事だよ、なんか付いて来てるっつーか増えてるじゃねーかアレ!あのカオ○シもどき!」
 「…や。そう言われても、俺には『見えねぇ』からなぁ…」
 器用に小声で叫んだ土方が、銀時の胸元を掴んで喚き散らす事数秒。彼は不意に遠い目をしたかと思えばがくりと肩を落とした。パニックになっている時に冷静な態度で相対された事で却って落ち着いたのか、怖がっていると指摘されるのを怖れたのか。力無く頭を抱える。
 「……本当に何なんだ、アレ…」
 ちらと浴室の隅──真ん中にも見えたが──を見遣って言う土方に倣ってみる銀時であったが、矢張りそこには『何も居ない』。
 レイやお岩に言わせれば、銀時のスタンドを感知する感もなかなかのものらしいのだが、土方が一時的に『開かれた』と言う感覚は、そんなものを遙かに凌いでいると言う事なのだろう。もちろん羨ましくも悔しくも何ともないが。
 「……ひじ…、十、取り敢えず、時間もねェからおっ始めんぞ。温泉は源泉掛け流しで元栓とかねェから、ここに板突っ込んで流れを変える。流れた分は外の露天に行くから気にしなくて良いってよ。で、浴槽の栓が──…、」
 デッキブラシを片手に、浴槽に温泉を流し込んでいる檜の注ぎ口を示しながら、言って銀時は少し後ろに居る土方を振り向いた。
 「──」
 そしてそこで言葉を失う。土方は、風呂の中を見ていた。水鏡でも覗き込む様にして。じっと。
 説明を聞けとか、そう言う感情は湧いたのだろう。スタンドに──銀時には決して見えない『何か』に気を取られて居る、単純な面白く無さも。恐らくは。
 だがそれでも、銀時の口からそれらの言葉が出て行く事はなかった。
 それは、張られた湯を見つめる土方の目が、表情が、怖れや怯えとは全く異なった様相を浮かべていたからなのか。
 瞳は驚いた様に瞠られている。薄く開かれた唇は戦慄いて、眉はまるで痛苦を示すかの様に寄せられていて、銀時は不意にそれを、泣きそうだ、と思った。
 「………そうか」
 然し実際に土方の目から涙がこぼれる事は無かった。彼は湯に映った己に向けて──否、そこに『居た』何かに向けてそう、酷く重たい調子で頷き項垂れると、次の瞬間にはいつも通りの表情に戻った顔を起こした。
 「悪ィ。ちょっと聞き逃した。もう一度説明してくれねぇか」
 「え…、お、おう…?」
 じっと案じる様に観察していた視線に気付かれた様な気がして、銀時はぎくしゃくとした仕草で、浴槽の隅に取り付けられた栓を示した。湯を抜いて、掃除をして、湯を戻す。その手順を最初から説明するのを聞く土方の様子は、先頃までとは全く違った。
 何を『見た』のか。或いは、『聞いた』のか。それとも、『居た』のか。とにかく、銀時の説明を聞く土方の顔は仕事に励んでいる時のそれであって、怖れも、パニックも、何も伺えない。
 問うべきか。寸時そんな事を思うが、どうせ『見えない』ものの事だ。昨日、銀時とレイとが土方にスタンドの事を説明していた時と同じ。『見えない』以上は、『居ない』も同義。それを斟酌してやる事も、理解した振りをしてやる事も出来やしない。在る認識すらも叶わぬ多元を俯瞰的に見る事は決して出来ない、それが世界の道理だ。
 解る事の出来ないものを、解ってやろうとする事も難しい。ただ一つ確かなのは、何かがあって、土方は銀時には『見えていない』それを、畏れる理由を無くしたと言う事だ。それ以上も、それ以外も、銀時には解らない。
 (訊いて、答えるって確証もありゃしねェ。……そうだな。そんなもんか)
 胸に不意に差し込んだ気のする翳りにかぶりを振って、銀時は時計を見上げた。次は給仕の仕事が待っている。土方についてをのんびりと思索している暇は無い。
 取り敢えず怖がってもいないし震えてもいない。大丈夫そうなのだから良いだろう。言い訳の様にそう思うと、銀時は浴場を土方に任せて、自分に宛がわれた次の仕事へと向かった。
 どうしてこんなに居た堪れない様な心地を憶えて仕舞うのか。それさえもよく解らなかった。







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