ナグルファルに捧ぐ花 / 6 「おい、そっちまだ掃除中だ。危ねぇからもう少し待ってろ」 デッキブラシが床や浴槽を擦る、ごしごしと言う音の中からそんな声がする。だが銀時は振り返らない。黙々と目の前の、桶で出来た山の清掃作業に集中し続ける。 早朝の、まだ客の入らない浴場だ。脱衣所の入り口には『ただいま清掃中です』の看板が置いてある。幾ら壁など関係ないスタンドであっても、そんな状態の風呂に乗り込んで来る客などいない。半透明であっても足が無くても、現世の理(きまりごと)にきちんと従うのは、ひょっとしたら生前の習慣が身に焼きついているからなのかも知れない。 ともあれ早朝の、清掃中の、浴場である。客の入る時間ではない今そこに居るのは、バイトの清掃作業に励む成人男性が二人。二人だけ。客は清掃中の看板を越えて入って来ないし、他に清掃員が居る訳でもない。 まずは床を掃除してぬめりを念入りに落とした銀時は、続けて桶や風呂椅子の掃除に取り組んでいる。木製の桶は簀の子の床同様に水垢で直ぐにぬめって仕舞うので、しっかりと掃除しなければならない。プラスチック製のケ○リン的な桶よりも掃除に手間がかかるのは難点だが、鄙びた温泉宿の雰囲気にはこちらの方が合ってはいる。 浴槽の方は土方が掃除をしている。一旦お湯を抜いて、デッキブラシで豪快に水垢を擦り落として、付着した湯の花を掃除して、排水溝に残ったゴミを片付ける。作業としてはたったのそれだけだが、広さもあって結構に時間がかかる。 土方はこう言った掃除の作業に慣れが無かった様で、その手つきはぎこちなく、銀時が床と桶を洗い終える頃、漸く浴槽の清掃が終わると言った有り様だ。作業速度にすれば半分かそれ以下と言ったところか。 元々彼はバイトに来た訳では無いのだから構わないだろうとは銀時とて思うのだが、余りに仕事の効率が悪い。日頃振り回している刀をデッキブラシに持ち替える事などまず無いだろうから、仕方のない事なのは承知だが。 声が聞こえたのはそんな最中である。無駄口を叩いている暇などないだろうと反射的にそう思うが、基本的には沈黙を好まない銀時である。それに応えを返してやりたくなるのだが、生憎と放たれた言葉は銀時へと向けられたものではない。 繰り返そう。客はいない。二人の他に働いている者もいない。そして土方は銀時に向けて声をかけた訳ではなく、独り言にしても余りに大きすぎる。 「こら、走んな。大人しくしてろ」 「…………」 ややって再び聞こえた声の中に小さな笑いの気配を感じて、銀時は恐る恐る、浴槽の掃除に励む土方の方を振り向いた。檜の浴槽の、今は湯の張られていない空の其処で、土方はデッキブラシを大凡器用とは言えない手つきで扱っている。 その目線は時折と浴室の隅から隅へと向けられ、表情は労働中とは思えない程に穏やかである。 「…………」 銀時はそんな土方の姿からそっと視線を外した。念のためにと浴場内をぐるりと見回すが、矢張りそこにはスタンドの姿はおろか気配ひとつしない。土方の向ける視線の先にも、何も居ない。何も。 「…………」 つい昨日の朝には、付いて──憑いて?──来て隅に居座っていたと言う『それ』から必死で目を逸らしていた筈なのだが、一体どう言う心境の変化なのやら、今日の土方は『多分』、『それ』に声を掛けて、僅かに笑みを見せるにまで至っている。 多分、と言うのは何の事はない、銀時には全く『それ』が見えていないからである。 傍目には土方が独り言を口にし、一人で笑ったりしているだけにしか見えない。掃除をしながら、と言う点を加味すると、間が抜けているのを通り越して少々怖い。 子供のカオ○シの様なもの、とかなんとか。度々本人が口にしていた『それ』を、恐らくは見ているのだと思う。銀時にも見えない以上、それは恐らくただのスタンドの類ではないのだろう。レイが開いて仕舞ったと言う土方の『感』が知覚しているそれは、一体何なのだろうか。未だ普通の宿泊客──スタンドにはびくびくして仕舞う土方が、『それ』にならば怖れを見せなくなった。どう言う事なのか。 (まぁ考えて解る事じゃねーけど…) 単に気になると言えば気になるのだ。幽霊の類のまるきり苦手な男が、どうして昨日まで真っ当に怖れていた『それ』に、笑みまで見せる様になったのか、が。 嫉妬とかではなく。断じて。 考えに没頭している間に、次の桶はもう無かった。洗っていない桶を手で探っていた銀時は、作業の終了に気付くと密かに嘆息して、綺麗になった風呂椅子と桶とを壁際に綺麗に積み上げた。肩に下げたタオルで軽く頭を拭うと、汗で湿った感触が返る。やはり幾らお湯を抜いて換気をしていても、風呂場なだけあって基本的には暑くて堪らない。 「なぁオイ、ひじ…、じゃねぇや、十。俺ァ次の仕事行くから、おめーはちゃんと掃除済ませて、手順通りに終わらせといてくれ」 慣れない呼び名を間違えそうになるのはこれで果たして何度目だったか。銀時の声は湯気に煙る浴室に普通の肉声として響いて、掃除に没頭している土方の耳へと届いた。デッキブラシを動かす手を一旦止めると、彼は銀時の方を見て「解った」と頷く。 「手順憶えてんな?」 「当然だろうが。えぇと、栓閉めてお湯を戻して忘れ物や状態確認して、お湯が充分溜まったら、脱衣所のゴミを片付けて、清掃中の看板を戻して、終わり……、だったな?」 ところどころで考える様に視線を揺らしながらも、土方は銀時の昨日指導した全てを何とか諳んじてみせた。 「良く出来ました」 態とらしく手を打って言ってやれば、土方は得意気に口端を持ち上げて笑って寄越す。そんな所が矢張り、自信に溢れた土方らしいなと思って、銀時は感じた微笑ましい様な心地の侭に笑い返した。 スタンドに怯えて震えているよりも余程土方らしい。何があったのかは解らないが、悪い事の様に思えないのだから良いかと、銀時はつい癖の様に考察したり邪推したりしそうになる己の好奇心を抑えた。 。 ← : → |