ナグルファルに捧ぐ花 / 8 雪山の夜とはこんなにも酷く静かなものなのだと、ここに来て始めて知った気がする。 庭木に積んだ雪が時折その重みに負けて枝から取り落とされる、そんな音でさえも白い雪のしんしんと降り積む世界では大した音を発さない。夜の静けさに合わせてでもいる様に、ほんの少しだけ空気が揺すられる程度だ。 ここに来た時には煩いぐらいに飛んでいた鴉も、外部から実体を伴った人間が訪れでもしない限りは静かで、昼ですら雪の音と宿から漏れ聞こえてくる生活音以外の音は殆どしない。 そんな静かな夜だから、どんな小さな音でも聞き逃す事はあるまいのかと言えばそんな事もない。宿を歩くスタンドは普通は物音など立てないから、例えば何か足音が聞こえたとすればそれは、銀時自身か、土方か、お岩か、ただの足音っぽい家鳴りか、ポルターガイストかの何れかでしかないのだが、そんな当たり前の生活音(?)ですら遠い事がよくある。まるで音そのものを発する事をすら厭うかの様に。聞こえて仕舞う事すら憚られるかの様に。 まるで景気の悪い葬式の様だと思う。これから常世へ旅立つ者をそんな息が詰まる様な静寂を以て送り出すなどと言うのは、銀時からすれば真っ平御免であったが、この土地が、ここを訪れる者たちがそう願っているのだとすれば、仕方がないのだろう。 そんな静かな深夜にふと目を開いて仕舞った銀時は、人の顔の様な気持ちの悪い模様を描く、天井板を真っ暗な闇の中で凝視して、それが単なる模様である事を再確認して、それから溜息をついた。目を閉じる。 時計はないが何となく解る。きっととんでもない深夜に目を醒まして仕舞ったのだ。 部屋は火鉢が燻っていて仄かな温度を保っていて、布団は客のスタンドに出しているものと同じである為に、ふわふわとした羽毛が詰められていて温かい。寝心地だけならば、自分の家の煎餅布団と交換して貰いたいぐらいの快適さである。 「………」 きっと、草木も眠る様な時間帯の筈だ。布団と火鉢のお陰で体温は保たれているので、寒さで目覚めた訳ではない。では尿意かと思えばそうでもなさそうだ。意識をすれば、トイレに行っても良い程度の様子だとは知れたが、わざわざ深夜のスタンド旅館の寒々しい廊下になど出たいものでもない。我慢出来るならした方がマシである。 然しそうなるとどうして突然目など醒まして仕舞ったのか。音はない。静かすぎる程の闇は、目を閉ざした事で余計にその感覚を痛い程に拾って仕舞う程に、ただただ静かで、音がない。 外は風もないのか、雪も止んでいるのか、幾ら耳を澄ませども、草葉の揺れる音さえ聞き取れはしない。 深夜となればお岩も眠っているだろう。土方も。銀時は閉じた目の下で顔を顰めながら、布団の中でもぞりと体を動かした。土方の見ていると言う例のアレが、銀時には見えていなくとも、この四角い部屋の何処かに居るのかも知れないと思うだけで鳥肌が立ちそうなので、目は開きたくない。 ごろりと打った寝返りは、特に意識していなかったが、土方の方へ横に体を転がす動きになっていた。二つの布団の隙間はぴったりくっついている訳ではないから、隣に眠っていると言っても、少しは離れている。灯りはもう点けていない。そうしなくても眠れると土方が言ったからだ。 再び、耳を澄ます。横を向いただけ縮んだ距離が、土方の眠る息遣いぐらいは気取れる様にはなっていないだろうかと思って。 「──………」 (……ん?) 呼吸音だろうか。風より弱いが、それに似た乾いた音がした気がした。気の所為かと思うが、それは静寂の中にごく自然に混じって確かにある。聞こえてくる。それと同時に、空気が、さわさわと静かに、静かに揺れている事に、銀時は不意に気付く。 耳を澄ませども判然としない。どこか遠い、壁の向こうか何かで囁き交わしている様な、ぼそぼそとした息遣い。言語になりそうで、そうはまだ至らない様な、音。 「……?!」 思わず目を見開いた。途端、『それ』が重たく、障子の向こうから注ぐ月明かりを遮る様な影を作っている事に気付いて、銀時は布団を蹴飛ばす様にして発条仕掛けの人形の様にその場に起き上がった。 「な、ん…、」 己の喉が間の抜けた呟きを漏らすのを聞きながら、布団の上に片膝をついた銀時は『それ』を茫然と見上げた。なんだこれ、と脳が言葉を補完し反芻する。 目の前にあったのは、そうとしか言い様のないものであった。或いは、現象であった。 布団が敷いてあるのは大体部屋の中央だ。入り口と、銀時と、土方と、障子と、外。そんな順番で並んでいる中で、障子とその向こうとを遮っている、山の様な影。黒く、不定形な、何か。 それが、土方の布団の上にずしりとのしかかっている。 「──っ!!」 人より大きい、巨大で、真っ黒な蛞蝓か何かが布団に乗っている様だ。それが丁度、土方と言う、眠る人間を頭上からぱくりと捕食する数瞬前に見えた。 咄嗟に木刀の存在を探しかけ、然し手の届く傍にはないと気付いてとどまる。だが動作は止まらない。獣が飛びかかる時の様に銀時は『それ』に掴みかかろうとするが、伸ばした手は空を切る。透けて、体が真っ黒な影の内へと入り込む。然し黒い不定形な、蛞蝓の様な塊の形は崩れても揺らいでもいない。光を遮る影が出来ているのに、実体がない。 それが土方の顔に覆い被さる様にして闇色の体を伸ばした。首なのか手なのかも解らないそれが、眠り続ける無防備な体に触れようとしている、その事実に激しく生理的な嫌悪感が湧いて、背筋が粟立った。 「土方っ!」 己の手で払えないならば、土方自身が目を醒まして逃れてくれる他にはない。理性的にそう考えられていた訳ではなかったが、銀時は眼下の土方の両肩を掴んで揺さぶった。 途端、真っ黒な影はざっと砂の様に崩れて消えていった。晴れた闇の中で見下ろせば、土方がきょとんと目を開いて銀時の事を見上げていた。 「ぶ…、無事、か?」 「………いや、てめぇが何故か俺にのしかかってる現状以外は無事なんだが…、」 銀時の必死の形相を前に、土方は暫し唖然とした様な顔をしていたが、やがて眉をぐっと寄せた。口元が引き攣る。明らかに怒っている時の表情だな、と妙に冷静にそんな事を考えて仕舞う銀時の、肩を鷲掴みにしている腕がぺちりと掌に叩かれる。 「……で?何してんだ、馬鹿力」 冷えた言葉に、はっと我に返った銀時が手を離すが、その時には浴衣の雑に乱された土方の、肩には紅い、手の刻んだ痕がくっきりと残って仕舞っている。夢中だったとは言え、相当に強い握力で掴んで仕舞った様だ。 「い、いや違うからね、誤解。誤解だから!俺ァただ、オメーがなんか変な黒いのに夜這いされそうになってたから……」 慌てて、布団からぱっと降りた銀時は、畳の上に思わず正座した。降参の意を示そうと両手を上げて必死に言い募るのだが、それに対して、上体を起こした土方は目を僅かに眇めたのみ。否、額に少し青筋が見えた気がする。 「ほう。黒いのじゃなく銀色のには夜這いされかかってたみてぇだが?」 「だから誤解だってんだろ?!変なスタンドだか化け物みてーなもんに襲われかけてたから…、大体な、夜這いすんならとっくにしてるわ!」 「威張るところじゃねぇだろ!つーかなんだその化け物だか何だかって…、何のAVの設定だ、阿呆か」 吼える銀時の声を鬱陶しげな仕草ひとつで払うと、土方は露骨に顰めた顔で部屋をぐるりと見回した。その視線は部屋の何処でも止まる事は無かったから、多分いつもの、顔の無いアレに似たやつは居なかったのだろう。その所為でか、顰め面の侭のつめたい、険の強い視線が銀時を再び見据えてくる。 「……まぁ未遂なら良い。今何時だよ、こんな深夜に叩き起こされるなんざ、良い迷惑だ」 「…………だから黒いにょろにょろした変なのが…、いや、うん…、起こしたのは悪かったと言うかなんつぅか…」 あの異様な光景を何とか説明しようと口を開く銀時だったが、土方から即座に睨み返され、仕方無く言葉を引っ込めた。何ともすっきりしないのだが、取り敢えず謝罪はしておく。 そう。幾度と無く繰り返した事だ。見えていないものの実在を説明するのも証明するのも難しい。 銀時が(まだ何か言いたげな気配を保ってはいるものの)大人しく謝った事で溜飲は下がったのか、土方は覆った手の下で大きな欠伸をすると、枕をぽんと叩いてから再び寝転がった。 「明日も朝早ェんだろうが。もう寝るぞ」 「……あー…、」 土方はそう言うが、素直に追従する気にはなれず、銀時は頭を掻いた。あの妙なスタンドなのかよく解らないものは何の痕跡すら残さずに消えたが、だからと言ってまた現れないとは言い切れない。あれが、どう言う意図で眠る土方にのしかかっていたのかは解らないし、解らない以上は危機は去ったと断じるには危険な気がする。 あの黒い色の、影も、形も、何一つ残ってはいない。だが、確かにそこに居た筈だ。そして、それは銀時が見た悪夢や幻と言うには、余りに現実感があった。 掌を見下ろす。振り払った手に感触は無かった。だが──、居なかった、無かったものではないと、何故か断言出来る。『感』のある者の勘とでも言うか、そんなものでしかないが。 「おい、万事屋…」 いつまでも床に戻る気配を見せない銀時に、仰向けに横たわった土方が片目を開いて、迷惑そうにそう呼んだ。 「……よし。…なぁオイ、やっぱちょっと不気味だから灯り点けっぱで良いか?」 ぽんと手を打って言う銀時の胡散臭い言い種に、土方は片眉を持ち上げはしたものの、これ以上眠る時間を遮られるよりは良いと思ったのか、「臆病か」と小さく笑ってから、「好きにしろよ」と言って再び目を閉じた。 了承を得た銀時は、間接照明として置いてある小さな四角い灯籠を引っ張って来ると、和紙に囲われたそこにそっと火を入れた。今時古風な油の入った皿から伸びている紐の芯に灯った灯りは、和紙によって柔らかい色彩となって部屋をほんのりと、暖かみの色合いに明るく染めてくれる。 払うには至らない闇。部屋の隅の影。それらを威嚇する様に見回しながら、銀時もゆっくりと布団に戻った。掛け布団を蹴って仕舞ったから、温度は大分冷えていて少し寒い。 気配もなく、音もない。寝返りを打って、耳を澄ませて、目を開いてみなければ多分、気付く事すら出来なかった。 ぞっとする。 あれが何であるかなど解らない。ただ、得体が知れないそれに、本能的に忌避感が沸き起こった。あの侭放っておいたら、食われて仕舞っていたらどうなっていたのか。 (……くそ。灯りなんざ気休めにもなりやしねぇ…) 背筋にまだ残る鳥肌の感触を宥めながら、銀時は隣で静かな寝息を立てている土方の姿を見た。余程に眠かったのか、もう寝入っている様だ。 そこに差した影。捕食でもするかの様な、動作。ざわめきにも満たない音の揺らした空気。 多分、今日はもう眠る事は出来ないだろうと、銀時はそう確信していた。 。 ← : → |