ナグルファルに捧ぐ花 / 9



 声が聞こえる。不定形なざわめきの様な、どこか遠く、壁の向こうか何かで囁き交わしている様な、小さな、小さな、ぼそぼそとした息遣い。言語になりそうだが、それにはまだ至らない様な、音。
 それでも土方にはそれが声であると解った。だから、耳を澄ませてじっと意識を傾ける。
 無念も苦悶も最早無い、それが何を望んでそこに居るのかを、せめて聞いてやりたいと思った。
 恨み言は既に聞き飽きた。罵声も。代わって、粛々とした悲しみも。
 慚愧の念に堪え難い痛苦を憶えた事は、無い訳ではないのだ。ただ、同情しても哀切の念に駆られてみても、一時だけ嘆いてみた所で何の意味もない事を土方は知っている。棺に花を手向ける事が、彼らにとって何の慰めにもならないだろうと言う事も。
 だから、立ち止まるのも、振り返るのも、已めた。そうする事で彼らが救われる訳では無い。感傷は自己満足でしか無い。
 きっとそんな理解を、人は冷酷だと評すのだろう。
 故に、鬼だなどと罵られた。
 その『鬼』が、伸べた手を。傾ける耳を。それはただじっと見つめている。
 (……これも所詮は俺の、身勝手な自己満足だ。知ってるさ、そんな事は)
 幾ら無意味だからと切り捨てた所で、それが消えて仕舞う様なものではない事も解っている。信念だの無念だの未練だの魂だの、そんなものが何か力になると思った事はない。ただ、全くの無意味ではない事も、どこかでは解っている。否、信じている。
 小さな、小さなざわめく音の中で、土方は目蓋を下ろした。
 此岸の音が、世界が、遠くなる。
 
 *
 
 「どっかおかしな所とかねぇ?熱っぽいとか怠いとか節々が痛ェとか…」
 今日も早朝から浴場の掃除である。デッキブラシをわしゃわしゃと鳴らして湯垢を落とす作業と言うのは存外に力が要るし、中腰だから足腰にも響く。
 そんな最中に投げた問いに、湯桶を洗っていた土方は一瞬だけ動きを止めて、それから溜息をついた。如何にも面倒臭いと言った気配がそこから漂って来る。露骨に。
 「まぁ慣れねぇ作業はしてるからな。多少は疲れるが、特に酷いもんじゃねぇよ。幸い、寝不足にもなっちゃいねぇしな」
 「……」
 さらりと飛んで来た棘を躱さず受け止めて、銀時は決まり悪く目を游がせた。昨晩の、如何にも怪奇現象としか言い様のない光景は未だに、明確に意味を持った説明が出来そうもないし、あった事をその侭言ってみた所で信じて貰えていない。
 挙げ句の果てには「怖い夢でも見たんだろ」と笑い飛ばされる始末である。流石の銀時もその言い種には少し落ち込んだ。夢では無かったのだと、思い出せば出すほどに、自分の記憶が信用出来なくなって来るだけに余計に。
 (感覚っつーか…、妙にリアルだったのは間違いねぇんだよな…)
 思い起こしはするが、伸ばした手には何も触れなかったし、寒気の一つも残っていなかった。あったのは、蹴り飛ばした己の布団が夜の空気に容赦なく冷やされたと言う、当たり前の現実だけ。
 説明しようがなく、証拠もない。確証も。それで記憶と宣った所で、そんなものは単なる妄想と何ら変わらない。
 まして現状では土方の方が『感』に優れている状態だ。そんな土方が『あれ』を認識しないで平然と眠っていたと言うのであれば、銀時の下手な説明など、おばけの想像に怯えて悲鳴を上げたのと何ら変わらないのである。
 ちらりと土方の様子を窺う。今日は例の、顔の無いアレに似ているらしい『何か』に話しかけている様子はない。昨日までであれば仕事に励みながら、まるで子供でも構う様に声を時折掛けていたと言うのに。
 ひょっとしたら見当たらないのかも知れない。先程掃除で風呂場に入って来た時も、土方はきょろきょろと何かを探している風にも見えた。
 (……そう言や、昨日の一件の後にも、部屋の中にアレは居なかった感じだったよな…。まさか、たァ思うが、アレが土方に取り憑いて悪さをしてたとかそう言う感じなのか…?)
 昨晩の黒い塊を思い出すが、カオ○シぽかったかと言えばそうでもない気はする。だが、解らない。そもそもにしてカ○ナシっぽく見えるとは土方の証言のみだし、ひょっとしたら銀時の想像と土方の見ているものとが全然違うと言う可能性もあるのだ。
 元より、スタンドなど実体のないものなのだ。不定形なものであるのかも知れない。
 (つまり、例のアレが、あの時のアレではないって言う保証なんざねぇ、訳だが…)
 「……なぁ。おめー曰くのカオナ○っぽいって奴、部屋の隅とかにずっと居たっつってたろ?今もまだ居るのか?」
 怖がっていると思われるのも癪なので、極力あっさりとした調子でそう問えば、土方は、今度ははっきりと手を止めた。途絶えた音にそちらを振り返れば、何故か睨む様な目で見返される。
 「…今はいねぇよ」
 それがどうしたのだ、と言いたげな、妙に厳しい目と口調だった。「いや、」と直ぐに、何でも無いと振り払おうとした銀時は、何故か酷くいけない事をして仕舞った様な心地になって、らしくもなく狼狽える。
 (地雷、踏んじまった時、みてぇな)
 「ホラよ、やっぱり、見えてねぇってのは逆に気になるからね?どうしたのかなとか…」
 咄嗟に浮かんだ笑みは、自分でも解る程に態とらしかったが、銀時がそう思う頃には土方は、その睨む様な目を手元へと向けて仕舞っていた。桶は存外に湯垢が残り易い。それを丁寧に擦り落とす手が再び動き出す。
 「……まさかてめぇ、あいつらが昨晩俺を喰おうとしていたとか何とか、そんな世迷い言を続ける気じゃねぇだろうな」
 「えっ」
 露骨に下がった声のトーンに、銀時は慌ててぶんぶんとかぶりを振った。
 「いやまさかそんな事思ってねぇよ?ないですよ?」
 その通りですとは勿論言えない。言わせてくれなさそうな、明らかに『地雷』への牽制としか思えない様な、鋭い刃の様な気配を宿らせた声だった。
 それを感じた侭に、或いは土方との付き合いの中での経験や記憶の侭に表すのであれば、間違いなく、憤りに類するものだった。
 土方は──怒っているのか。一体『何』に対して。
 そしてもしも、それが銀時の発言に憤る様なもので間違いないのだとしたら。
 「………とにかく。そんなのは杞憂だ。あいつらの事は放っておいてやってくれ」
 『それ』を。初日には怯えて見ていた様なものであった筈の『それ』を。昨晩不気味なものがお前を襲おうとしていたのだと話した銀時以上に、土方は信じていると言う事だ。
 銀時には『見えない』、土方しか知る事のない様な、ものを。
 我知らず固く拳が握られていた。デッキブラシの木製の柄が、噛み締めた下顎が、ぎし、と音を立てる。
 「…………そ」
 とりつく島もない断言に、銀時はそう軽く頷くのが、精一杯だった。
 
 *
 
 下げて来た朝食の膳を磨くのは単純作業だ。食器はレイの様な雇われスタンドが洗っている為に仕事としては楽な方なのだが、布巾で四隅と面とを綺麗に拭き取るだけの動作が余りに簡単且つ単純過ぎて、気がつけば意識は目の前の膳から離れて埒もない思考を始め出す。困ったものだ。
 『今日は元気がないわね』
 洗った食器を片付けているレイがそんな事を振って来るのに、銀時は苦笑と共に肩を竦めてみせた。スタンドには元気も落ち込みも余り無いかも知れないが、生きている人間と言うのは色々あるのだ。そう思った所で口にはしないが。
 『十と何かあったんでしょ?』
 「……あのさぁ、敢えて避けてんだから空気ぐらい読んでくんない」
 あっさりと指摘された銀時は若干引き攣りながらも、何とか躱した。躱す努力はした。つもりだ。
 膳には食事の汚れが残っている。スタンドなのに、半透明なのに、こう言う訳の解らない道理には少しばかり苛々させられる。それもまた今更の事ではあったが。
 銀時の正面にしゃがみこんだレイは、頬杖をつくと少し困った風に嘆息してみせた。生前の彼女がどうだったのかは解らないが、どうにもこの娘は余り顔に感情を出さないので、何となく構えて仕舞う。
 「…見えねぇものを説明しなきゃならねェってのは、思ったより苦労するもんなんだな。結局通じねぇと難儀するばかりで」
 前にしゃがんでいるレイが、何か聞きたげな様子に見えたので、仕方無しに愚痴めいてそうこぼす。すると彼女は無表情の侭少しだけ笑った。
 『アンタも十も、本当は『見たくない』方だからね。実際に目に見えていたとしても、それを意識の全てで受け容れるって言うのは難しいわよ。やっぱりどこかで無意識で拒絶して仕舞う部分があるんだから。別に、普通に生きて行くんならそれは悪い事でも何でも無いよ。女将みたいに、それが避け難く自分に根ざしたものである訳じゃ無いんだから』
 「……」
 ひょっとしたら慰められているのだろうか。ただ怖がっているだけの部分は確かに根っこにある。だがそれも何だか気まずいしみっともない気がして、銀時は頬を掻いた。最後の膳を磨いて、積み上げて片付ける。
 (無意識で拒絶するのも当然、か)
 まくっていた袖をなおして、肩越しに背中にやっていたネクタイを前に戻した所で、銀時はレイの言葉を反芻した。
 これは好奇心なのだろうか。それとも嫉妬の様なものなのだろうか。土方にとって『地雷』と思えるだろうものへの。
 「……ならその、見なくても良いって奴が、それでも見ようって思うもんってのァ、一体どんなものだって?」
 『………』
 先日も似た様な事を問いた時、レイは同情とも諦めともつかない様な表情をしてみせた。
 そして今度は。銀時の問いに、レイは困った様に息を吐いて立ち上がった。ぱたぱたと着物の裾をはたく様な仕草は人間じみているが、透けた足下は、そこに何もないと言う事しか示してはいない。
 「ひじ…、あいつは、放っておけと言った。だが、それを見てねぇ、見る事の出来ねェ俺には、それが善くないものだと判断する事すら出来ねぇんだ。あいつが、喰われて初めてそれに気付くなんて事ァ、真っ平御免だってのに」
 悪夢か、現実かの区別すらつかない光景が、然し土方自身も理解していない様な脅威であったら。土方の、何でかんでお人好しな所に付け込んで、騙しているのだとしたら。
 呻く様な銀時の呟きに、レイはふうと大きく溜息をついた。ひらりと白装束の手を振る。
 『…まぁ、それに関しては、私たちにも見えてないものだからね。確実に、間違い無いって断言は出来ない。だけど、十の見ている『もの』が、害を及ぼす様なものじゃないだろうとは、一応言えるわよ』
 「……は?」
 見えていないのに、断言出来る。道理に合わない言葉の様に感じられて、銀時は眉を寄せた。ぽかんと口を開く。
 『だから。私も直接見えている訳じゃないから、はっきりとは言えないのよ?だけど、女将からそれの話は聞いた事があるし、十の様子からしても間違いないと思うわ』
 だから何が。
 視線だけでそう問えば、レイは銀時を促して厨房の外へと出た。思わず後に続くと、彼女は廊下を足のない歩みでするりと移動し、旅館の裏手に当たる勝手口の方へと向かっていく。どうやら余り他のスタンドたちの間で話したい様な話題では無いらしい。
 『想像通りなら…、まぁ多分間違いないけど。十が見ているものって言うのは、生きている人間に何の害も、善い事も起こせない、そう言う質のものよ』
 廊下に出て少し歩いた所で不意にレイがそんな事を呟いた。
 『よく考えてみて。私ら普通のスタンドにさえも『見えない』程に、三界に影響力を持たない、三十六天のぎりぎりにしか居られない様な存在が、生きて動いている人間をどうこう出来ると思う?』
 「……や…、そんなスタンドの世界の事を、雨が降ったら筍が生えるだろ的に、さも当たり前みてェに言われても……」
 思わず脱力感の侭に呻く。見えなければ何も出来ない、などと断じれる様な根拠も知識も銀時には無いのだ。言われてみればそんな気はしないでもないのだが、今ひとつよく解らないと言うのが正直な所である。
 『…じゃあ言い方を変えるわ。例えば家の中には不快害虫が山の様に住んでいるけど、それに気付かない限りは何とも思わないでしょ?置いといた饅頭を囓られでもしたら気付くけど』
 「…………最ッッ悪の、解り易い譬えに礼を言わせて貰わぁ…」
 相変わらずの無表情で、とんでもない角度から切り込まれて、銀時は頭を抱えた。勿論想像して仕舞ったのは、黒くて平たくて頭文字がGのアレの事だ。家のどこかでひっそりと同居を決め込み、一匹見たら三百匹の大家族を作っていると言うアレだ。
 譬えは最悪だったが、レイの言わんとする事はなんとなく解った気はする。見えなければ、気付いていなければ、確かに害はない。それの及ぼす影響が目に見えた『害』では無い限りは。
 (……て事は、あの夢とも現実ともつかねぇ、土方にのし掛かってたアレは、『見えない』やつらとは別の何か、って事で良いのか…?)
 思わず銀時は掌を見た。感触は何一つなかった。だが、夢や恐怖の創り出した妄想では無いとするのであれば、そう確信するのであれば──姿は、在った。銀時の『感』程度でも見える様な、姿が。
 (じゃあ、あれは一体『何』だったんだ…?本当にあの瞬間にそこに居たんだと、したら)
 姿を伴う存在として、土方に、気取られる事なく害なそうとした、ものは。
 銀時に見えているものだとしたら、スタンドであるレイにも見えるものの筈だ。勿論、お岩にも。目さえ醒ましていれば、今の土方にも。レイの譬えに習うならば、それは不快害虫が饅頭を食おうと姿を顕したと言う事になるのではないか。
 『強いて言えば、悪霊』
 「!」
 ぽつりと、独り言の様に呟いたレイの声に、銀時は咄嗟に顔を起こした。レイに投げたそれまでの問いと、銀時が今描いていた思考は全く繋がっていなかった筈だった。だが、その言葉はまるで双方を繋ぐ様に綺麗に、銀時胸の裡の、冷えた部分へと落ちて来る。
 寸時固まった銀時には気付かずに、レイは続ける。
 『ギン。十の見ているものは恐らくね。悪霊って言う類のものに食い散らかされて仕舞った可哀想な魂たちよ。隔離世の中でも酷く希釈されて仕舞って、幽霊にさえもその存在を認識出来ない。三十六天の最も隅の層に存在するだけのもの。何の意思も持っていない、魂の滓みたいなもの』
 だから、害も善い事も出来る様なものではないの。
 そう締めくくった声には、確かな憐れみが籠もっていた。死者である筈のレイが──死と言うそれ以上の涯てにも行けない様な存在であっても憐れまずにはいられない。そんなものを、見て仕舞ったら。知って仕舞ったら。
 「………」
 憐れむか。同情するか。無意味と解っていたとしても、見えて仕舞ったそれを、土方が無視出来るとはとても思えなかった。





今更ですが、死生観と言うか幽霊設定は、どこの宗教に触れてもイカンと思いましたので完全に独自のアレです。全力ファンタジー。なので幽霊も三界も三十六天も元ネタを色々混ぜて勝手に作ったもので、現実の用語とは合致してませんので一応ご注意下さい。

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