貫 / 2 迫る刃の気配に、限界まで研ぎ澄まされた感覚だけが勝手に反応する。僅かに反らせた顎先数糎の所を、血の尾を引いた刃が手応えなく通り過ぎて行くのを眼球だけを動かして見下ろせば、空振りの先に確定した己の未来を悟った、刃の持ち主の恐怖の形相があった。 それ程に大きくはない、然し見過ごす事の出来ない、攘夷浪士のアジトの一つの制圧任務だ。動員された主要な面子は一番隊と、サポートとして控える十番隊のみで、場所は町中にあるほぼ廃墟となった雑居ビルであった。 大した規模の作戦では無かったのと、可及的速やかに片付ける必要のある事情も手伝って近藤は来ておらず、現場の総指揮は土方が担当したが、現場判断は概ね沖田の権限で執り行われている。 沖田を含めて一番隊は荒事にもっとも長じており、手練れも数多く揃っている。たかだか十人程度の攘夷浪士など一時間もかからずに片付けられる。 つまりは総指揮官である土方には、現場に乗り込む理由も無ければ必要さえも無かったのだが、まあ余りよろしく無い言葉で言えば、憂さ晴らしと言うやつである。沖田に肩を竦められ、山崎には諦め混じりの制止をされながらも、刀を閃かせた土方は先陣を切る一番隊と共に現場へと飛び込んでいた。 机仕事で余り動かせていない体は、然し間もない戦場の気配に自然と引き締まり、脳は瞬時に覚醒する。身に染みついた防衛本能と闘争の昂揚とに、意識は狭雑な世界を突き抜けて一点へと集束される。それは己が生きる為に目の前の敵を斬り捨てるだけの、酷くシンプルな思考。 つい、と翻した手で、刃を真っ直ぐにそちらに向けて突き出せば、攘夷浪士の胸元、狙った一点に違えず切っ先が突き刺さる。苦悶に見開かれる目を見ながら土方が更に体重を込めて足を踏み出すと、刃が進む感触と共に、着衣の背を膨らませながらその尖端が浪士の背中の肉を突き抜けて飛び出す。 殆ど懐に飛び込んだ様な形になった土方の頬に、浪士の吐き出した血がばたばたと滴る。生ぬるく、思いの外に不快な臭気を感じた土方は、浪士の体を蹴ると同時に刃を後ろに引き抜いた。 ぐるん、と浪士の眼球が裏返る程に上がり、支えを失った肉体は骸となってその侭仰向けに倒れる。支える意識など何も無いから、後頭部が床に衝突するごとりと言う鈍い音が響いた。 袖口で汚れた頬を乱暴に拭った土方は、刀をそっと上向きに立てて真っ赤に染まった刀身を見つめた。骨は掠っていないから、刃毀れの様子はない。ただ刃は脂と血とでべったり隈無く汚れており、次の斬撃では最大の切れ味は期待出来そうも無かった。 だが、それを案じる迄も無く、耳を幾ら澄ませど、既に現場となった雑居ビルから争いの声は途絶え、静まりかえっている。どうやら他の階や部屋も一番隊が制圧を終えたらしい。 後は死体の数と身元の確認をしつつ物件内を隈無く捜索して、記録を取ったら後始末をするだけだと指折り数えてみた土方は、解りきっていた事に苦笑した。こうして一つや二つの死体を拵えるよりも、実際はその後処理の方が膨大な手間を要するのだ。現場に居ようが居まいが、結果的に仕事は増えこそすれど減りはしない。 熱を持った身が暑さを訴えて来るのに、乱暴な手つきで襟元を弛める。ついでにスカーフを抜き取って汚れた刀身を軽く拭うが、血も脂も刃に伸びてまとわりつくばかりで、掃除にもならない。早く帰って手入れをした方が刀の寿命は延ばせるだろう。ただでさえ血は鉄分を多く含むから、金属を早く錆びさせて仕舞うのだ。 「アララ、生きてやしたかィ。煙草の匂いが珍しくしねーもんで、おっ死んだとばかり」 「生憎だったな。ぴんぴんしてらァ」 汚れた刃にふと映り込んだ沖田の姿に、土方は億劫な心地で肩を竦めてみせた。煙草を吸う事は考えなかった訳では無かったのだが、今すぐにはそんな気分になれなかったのだとはわざわざ説明してやる気にもなれない。 沖田は土方の拵えた一つの亡骸を、ひょいと首を擡げる様な態とらしい仕草と共に見下ろすと、「ふぅん」と目を細めてみせた。 「何だよ」 「いえ別に。まーた随分面倒な事をしてんなと思っただけでさァ」 言う沖田の目が、亡骸の致命傷となった刺し傷を見ている事に気付いた土方は、無言の侭で汚れた刃をそっと鞘に収めた。 然し沖田の聡い観察眼は、土方のそんな動きの意味まで具に見つめている。そんな錯覚を憶えて仕舞い、土方は誤魔化す様に言葉を探しながら口を開く。 「てめぇ程に器用じゃないんでな。殺し方を選べる余裕なんざ無い事もあらァ」 相手が一人で無ければ、刃の切れ味は勿論、効率的な動作をした方が良いと言う判断が下るから、普通は刀を刺すよりも切り払う事を選ぶ。返り血は飛び易くなるが、その代わりに場所を選ばずとも致命傷は与え易くなるし、少なくとも沖田にも土方にもそう言った経験や技倆は既に身に染みついているものだからだ。 元々、片刃で反りのある刀は突き刺すのに適した形状をしていない。腕の良くない者が先頃の土方と同じ事をしたら、刃を折って仕舞うか骨を擦って仕舞い、一本を台無しにするだけだろう。それでいて更に、確実に仕留めきれずに終わる可能性もあるのだ。沖田が「面倒な事」と言うのも、充分に頷ける話なのである。 土方の刃は綺麗に片方の肺を貫いている。それこそ針の穴を通す様な精度で。その事を踏まえて見れば到底、『余裕なんざ無い』と言う言葉には当てはまらない。 考え過ぎて藪蛇だったか、と、己の失言を感じた土方は舌を打つが、対する沖田はそこまで頓着する気など端から無かったのか、死体に近づき過ぎて靴先に付着して仕舞った血を嫌そうに見つめながら肩を竦めた。 「まぁ、腕が鈍らねェ限りは、土方さんなら確殺は出来ますしねェ。一応」 続く沖田の言葉は、土方の身構えていた様な蛇では無かった。どうやら藪をつついたと思ったのは自分だけだったらしい。我知らず小さな溜息と共に胸を撫で下ろす。 「ったり前だ。仕留め損ねて苦しんでる様なんざ見て愉しむ趣味はねェよ」 胸の中央付近に澄んだ紅い染みをぽかりと穿って倒れている亡骸をちらと見遣って、土方はふんと息を吐いた。相手が変な風に動いたり、易々倒せない様な防御装備を身につけてでもいない限りは、斬っても払っても刺しても、ほぼ一撃で仕留められる自信はある。寧ろそうでもなければ、命の遣り取りと言うリスキーな中で変な事など考えるべきではない。 淡々と答えを投げる土方に、それ以上特に何も言い募るつもりが沖田に無かったのかどうかは解らない。階下から山崎ら調査班が上がって来た事で、ともあれ会話はそこで終わった。 これからは事後処理の時間だ。土方は未だこれからが忙しいのだが、一仕事終えた解放感にか、すぐ横で沖田は欠伸を噛み殺す様な仕草をした。 杞憂だった、と思うのも癪だが、混ぜっ返したくもない。土方は沖田のだらけた態度には気付かないふりをして、調査班に指示を出していった。 。 ← : → |