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  貫 / 3



 (…あ。傷治ってら)
 掌を天井へと伸ばした所で不意にそんな事に気付いて、土方は何週間か前に負った傷の跡など殆ど残っていない指を、障子の向こうから差してくる陽に翳した。ほんの少しだけ、再生した皮膚だけ色が違って見える様な気もするが、そうと言ってもまず解らないだろう。
 あれからも通常業務の合間に延々と古い書類の整理と言う雑事が続き、それが漸く終わったのはつい昨日の昼の事だ。すっかりと、お片付けチームとでも言った様相と化していた土方とその部下たちは、最後の書類をファイリングした瞬間に思わず、上がったテンションの侭にハイタッチなどし合って、作業の完遂を喜んだものである。何やら感じ入った様に天を仰いで泣いている者まで居た。
 軽い気持ちで言い出した書類整理の作業も、気付けばそのぐらいに過酷な業務になって仕舞った。通常業務のついで、と言うには正直大変な時間であったが、これが後の役に少しでも立つのならば充分だ。それに、達成感が大きければこそ、煙草の味もより旨く感じられた。
 誰が何と言おうと打ち上げをしようと誰からともなく言い出して、流石の土方も部下たちの頑張りを労うべきだと己に溜まった疲労感からもそう判じ、俺の奢りだと言ってちょっとした祝宴の開催を許す事にした。
 連日の疲労と宴会での騒ぎもあって、部下たちには今日は非番ないし半ドン、または見廻りなどではなく軽い仕事を言いつけてある。あのテンションの翌朝では仕事に出たとして恐らく使い物にはなるまい。
 結果的に宴会の音頭を取る事になった土方だったが、副長職がいきなり当日に非番と言う訳にもいかず、今日は通常通りのスケジュールを過ごす事になっていた。それも解っていたので、折角の祝宴と言っても酒も余り入れていない。羽目を外しまくった者の集う宴会模様の中で、よく堪えたものだと己を褒めてやりたいぐらいだ。
 そうして翌朝の寝覚めはいつも通りの早朝。体内時計が比較的に正確な事に定評のある土方は、余程の事が無い限りは目覚ましのアラームなど用意しない。
 柔らかな朝陽に翳した手をくるりとひっくり返して、戻して。左手の親指で、左手の指の腹を、すり、と擦り合わせてから、土方はゆっくりと上体を起こした。痛みなど無い。傷が消えたのと同じ様に、もう何も残っていない。
 それからふと思い出して、手を伸ばして机の引き出しを開いてみれば、書類整理に獅子奮迅の活躍を見せてくれた千枚通しはすぐに転がって来た。
 あのあと血は拭っただろうか。憶えていない。だが、紙束に孔はその後何度も穿って来た。だから血など拭いておらずとも残っていないだろう。
 鋭い尖端を持つ道具を暫くじっと見つめていた土方だったが、やがて今が何時かを思い出して我に返る。折角いつも通りに起床しても、朝議に遅刻したりしたら意味が無い。
 ぱたりと引き出しを元通り閉じて、両腕を上に向かって伸ばせば自然と欠伸が出た。立ち上がって、洗面所に行こうと手拭いを目で探すと、鴨居に引っかけた黒い隊服が目に飛び込んで来た。
 疲労する程に仕事と、仕事以外の事を積む日々が幾ら続こうが、結局はこれが日常。これの方が、日常だ。幸いにか今日は物騒な仕事の予定は無い。つまりは、何の問題も無い日だ。
 傷も無く傷を負う理由も無く、机の前で費やす時間。
 「……結構な事だ」
 我知らず呟きがこぼれて、まだ薄暗い部屋の隅へとそっと転がった。
 
 *
 
 夕刻の見廻りはいつも通りに特に何事もない侭終わった。週末なだけあって、家路を急ぐ務め人や寄り道に勤しむ人々が多く、街路は僅かの高揚感を保って賑わっていた。
 朝は晴れていたが昼から雲が少し出ていて、雨は降らないそうだが、夕焼けのない空はいつもよりも薄暗い。
 共に歩いていた筈の沖田の姿はいつも通りに、気付いた時には霞の様に姿を消して仕舞っていたが、いつもの事なので特に気にもしないし、沖田に限って何かが起きるとは土方は端から思っていないしどの途もう終業時間だ。勝手に一人で帰っているに違いない。
 夏の近くなった陽気は少し暑さを感じる程度。湿り気はまだ少ないから不快感は然程ではない。衣替えも終えているから、いつも身に纏っている隊服の生地も、冬のそれとは少し素材が違う。通気性があってほんの少しだが軽いのだ。
 それでも化学繊維とやらのお陰でか、防刃効果は冬の厚い生地と余り差が無いと言うのだから、世の中は全く便利に発達していくものである。
 ただ、上着だけは相変わらず重たい侭で、それが少々難と思える点である。真選組の職務は危険と隣り合わせにある為、常に纏う上着からは身を守ると言う機能を少しでも損なわせる訳にはいかないのだ。
 とは言え、一昔前ならば服の中に帷子を着込んだりサラシを巻かなければならなかった事を思えば、上着を羽織るだけで良いと言うのだから楽なものだ。
 夏用の生地とは名ばかりの重たい上着は、間違えて冬用のそれを着て来た所で違いにさえ気付く事は無いだろう。そのぐらいにはどちらも重たくて、丈夫に出来ている。
 然しその上着こそが暑さを感じる最たる原因である。土方は既に重たい上着を脱いで、肩に引っかけて歩いていた。命を預ける役に立つ上着も、今は命を預ける様な状況には無い。そのぐらいの融通はきいてくれても良い筈だ。
 見廻りの職務と言う時間はもう終わったので、このぐらい気を抜く事は許されると思う。サラリーマンが背広を脱ぎ捨てて呑みに行く様なものだ。
 呑み、と考えた所で、土方は昨晩呑み損ねた酒をふと思い出した。きょろ、と辺りを見回せば、繁華街のあちこちで飲み屋や食堂は暖簾を既に上げている。
 昼が遅かった為に空腹は余り感じていなかったが、喉は渇いているし、脳も体も程良く疲れている。それに何より、先日漸く長かった書類整理と言う戦いを終えたばかりだ。週末の明日は暦通りに土方は休みの予定になっていたし、酒を呑む事を躊躇う理由など幾ら探してみた所で見つかりようもなかった。
 ただ一つ気になるのは己の装束だ。基本的に土方は隊服の侭では呑みにはいかない。仕事の上での用事や呑みならば別だが、私用の時は屯所に戻ってちゃんと私服に着替えてから行く様にしている。
 「………」
 面倒臭さと見栄の様なものとを天秤にかける事数秒。溜息をついた土方は、脇道にそそくさと入ると首元を覆うスカーフを解いてポケットに仕舞い込み、襟元のボタンを外した。その程度では、洋装や佩刀が基本の幕臣の身形である事は何一つ隠せないし誤魔化せてもいなかったが、真選組の──警察の人間だと即座に看破される可能性は大分低くなる筈だ。
 脱いだ上着の、目立つ縁取りの装飾を隠す様に折りたたみ直して小脇にそっと挟むと、土方は見下ろした己の格好に一応満足した。役人である事は解るが、ぱっと見で真選組のしかも副長であるとは思われまい。
 元よりそんなぐだぐだになるまで呑むつもりは無いし、仕事帰りにちょっと一杯やるだけだから、と開き直り気味に考えながら、取り敢えず目についた縄暖簾と赤提灯とに惹かれる様にして、居酒屋の入り口をくぐった。







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