貫 / 4 そうして気がついた時には、土方はカウンター席のテーブルに突っ伏していた。 「おいおい、大丈夫か副長さんよ」 「問題ねぇから触んな…」 ぽんぽんと乱暴に背を叩いて言うのは、土方の隣の席に座る坂田銀時である。彼はコップに満たされた焼酎をぐいと煽ると、土方に払いのけられた手を横目に見て、「へーへー」と呆れた風情で肩を竦めてみせたが、 「親父、悪ぃけど水一杯貰えるか」 そう店主に声をかけ、受け取った水のグラスを土方の手元へと置いて寄越した。これはどうやら心配されているらしいと酔った頭で判断した土方は、むっと顰めた顔を起こした。犬猿の仲の男に気を遣われるのなど真っ平御免だった。 「おめーさっきっから、碌すっぽ食ってもねぇのに酒ばっか重ねるからそうなるんだよ」 頬杖をついて呆れ声で続ける銀時だが、彼もそれなりの酒量を既に重ねている筈である。先程厠へ立ってはいたが、その足取りも脳味噌の回転も頗る元気そうで、何だか腹立たしい。 適当に入った筈の居酒屋で、杯を傾けるより先に出会って仕舞ったのが件の男であった。互いに隣り合った偶然の遭遇に「うげぇ」とは口にしたものの、端とは言えカウンターの席をとっとと明け渡されて仕舞っては身動きも取り難い。 仕方がないと諦めて酒を煽った土方であったが、これもまたいつも通りと言うやつなのか、隣り合って出て来る話題は平和な世間話どころか、切れ味の悪いなまくらの応酬。殺傷能力は無いが無駄に痛くて後を引く、下らない言葉の投げ合いに溜まる憂さを晴らそうとつい杯を重ね、悪循環に気がついた時には土方は悪酔いに因る胃袋の叛乱に襲われかけていると言う次第である。 銀時も確か余り酒には強くなかった筈なのだが、腹にものの入っていない状態で徒に酒量ばかりを重ねて仕舞った土方の方が分が悪かったのは間違いない。 はあ、と、これまでの経緯から土方は盛大に溜息をつくほかなく、味のしない水で喉を軽く湿らせた。嘔吐感は酷くないが、後から頭の痛くなりそうな怠さを感じる。 「オイ」 「…あ?」 ひらひらと真横で手を振られて、土方はゆっくりと銀時の方を向いた。するとそこで、何やら食材が視界に飛び込んで来た。 「少しはなんか入れた方が良いからよ。食えるか?」 「………、っ」 距離が近すぎて、突きつけられたそれになかなか焦点が合わない。 それはこの店で供されている、煮物に入っている竹輪だ。斜め切りにして、里芋や人参などと一緒に味が染み込むまでよく煮てある。緑色の鮮やかな絹さやの刻みがその上に乗せられ、皿に盛られて提供されているのを、見た。 差し出された一切れの竹輪は、不作法にも孔におでんだか焼き鳥だかの串を通されて、土方の目の前で揺れていた。自分の使った箸を使って差し出すのに抵抗でもあったのか。尖った竹串の尖端が、竹輪の孔を貫いて土方の事を無造作に指している。 「食えるか?」 もう一度そう重ねられ、竹輪の小さな孔の向こうから銀時の目が覗く。 「………ぁ、?」 酔い以外の感覚でぐらりと揺れた脳が吐き出したのは、答えにもならない小さな一音。何の意味もなさない様な吐息にも似た返答。 然しそれを了承と取ったのか、竹串の尖端が更に距離を詰めてきたかと思えば、土方の、薄く開かれた侭の上唇に触れた。傾いた串から竹輪が滑り落ちて、舌の上にぺたりと乗っかる。 煮物の味を舌先に感じた瞬間。土方は閉じるのを忘れていた口を慌てて閉じて、放り込まれた竹輪を無理矢理に咀嚼した。 「っ食いもんで遊ぶんじゃねぇ」 「遊んでねぇって。はいアーンしてーって奴だろ」 「ガキ相手のつもりかてめぇ」 内心の動揺を悟られまいと、態と喉を大袈裟に上下させて竹輪を呑み込んだ土方は、おしぼりで口を拭うとふんと息を吐いた。「とにかく何でも良いから腹に入れとけよ」と悪びれた様子もなく言う銀時は、竹串を皿に戻すと小馬鹿にした様に肩を揺らして笑ってみせる。 それが本当に心配や親切心から来たものなのか、それとも単に土方をからかいたかっただけなのかは解らない。ただ土方は胸の裡に蟠った憶え深い感覚を誤魔化す様に、水をまるで酒の様にして呷った。 当然だが、全く酔えそうもなかった。 * 一度冷めた酩酊は鮮明な意識を保つ事を促しており、もうこれ以上は酔いも酒も楽しめそうには無くなっていた。 ならば居酒屋でこれ以上無駄に時間を潰す理由もあるまいと、席を立った土方にすぐ続いて、銀時も店から出て来た。明らかに己の後を追って来たと知れる彼のその行動の理由は恐らく、具合の悪そうであった土方の事を彼なりに気に懸けたからなのだろうと思う。 ふたりが犬猿の仲である事は周囲も認める所だし、実際口喧嘩も下らない衝突も絶えない。それでも万事屋の坂田銀時と、真選組の土方十四郎とが本当に憎んで啀み合う様な関係ではないと言う事もまた、誰もが知り得ている事であった。 要するに子供同士がじゃれ合っている様なものだと、そんな風に見られている節はあったし、土方とてそれは不承不承ながらに理解している所ではあった。お約束の様な喧嘩だって下らないものばかりだったし、本気で殴り合ったり斬り合ったりも(最初以外は)した事がない。 悪態を投げ合ったり、特に理由もなく張り合ってみたり。それだけの、その程度には気を許して仕舞った相手ではある。だが、それ以上のものにはならない。 だから、別れの言葉すらこぼさずに土方が屯所への帰路を進み始めたその後ろを、五歩ほどの距離を開いて銀時がついて歩き始めて来た時も、またいつものお節介が働いたのか、それとも単に暇だったのかと思う程度で、土方は背後を気にする素振りさえ見せず、極力に背中を意識しない様にして歩を進めた。 彼我の距離は近いが、言葉を投げ合う気配も気にし合う素振りさえも無いふたりは、一体どの様な関係のものに見えるのだろうか。他人か、他人にしては近いが、と首を傾げさせただろうか。 ともあれ、土方は銀時以外に己を伺い迫って来る気配を感じ取って仕舞った事で、これだけは消えなかった悪酔いの残滓を一旦は忘れる必要があるだろうと判じた。 (こんな時間に人を尾け回すんだ、まぁ碌なもんじゃねェのは確かだな) 矢張り私服で歩くより、隊服で歩く方がそう言ったものを引き寄せ易いらしい。それも、居酒屋からのお出ましとなれば、さぞや土方の姿が傍目に隙だらけに見えたのだろう。 土方は幾人かの視線や気配が己の周囲に蠢いている事をひしひしと感じながら、さて背後の男をどうしたものかと考えた。 己は襲撃を受ける謂われが──全く遺憾な事にも──あるが、一応は一般人である万事屋の男にはあるまい。銀時もまたこの厭な気配を既に感じているだろうとは確信していたが、果たして巻き添えにして良いものかと、思案する。 (…まぁ、厭なら勝手にとんずら決め込むだろうし、そう心配はいらねェか) 端から連れ立って歩き始めた訳ではないのだ、面倒事を厭った銀時が土方から離れて一人帰路についたとしても、浪士たちがわざわざ土方とは別にそれを追う筈もない。 寧ろ問題は、厄介事に何かと首を突っ込みがちなあの男が、黙って引き下がってくれるかどうかの方だ。 背後を変わらぬペースで歩く男の足音を引き連れた侭、土方は狭い路地へと足を向けた。足音は、一瞬躊躇ったのか僅かの静止を挟んで、然し変わらず街路を真っ直ぐに進んで行った。 遠ざかる足音を耳にしながら、予想とは少し違ったが、まあ懸命な判断だし楽で良い、と土方は正直にそう思う。 最早隠そうとする必要もない。脱いでいた隊服の上着に素早く袖を通すと、畳んで仕舞ってあったスカーフを巻いた。湿気と日中の温度の残る町の空気は凝って暑く、膚の上が薄く汗ばむのを直ぐに感じる。 続けて煙草を唇に挟んで火を点ける。蟠る悪酔いの不快感を、慣れた紫煙の匂いに混ぜて吐き出しながら、土方は人気のない道をどんどんと進んで行き、やがて薄暗い隘路の直中でその足を止めた。 前方に、夜だと言うのに編笠を深く被った浪士たちの姿。後方からは、足を止めた土方に近づいて来る、先頃からずっと尾け回して来ていた浪士たちの足音。 「真選組副長、土方十四郎殿とお見受けする」 「我ら攘夷の、」 「長口上を聞いてやんのも面倒くせェんだよ。幕府の狗に天誅を下す、とでも省略しやがれ」 前方の浪士たちが何やら勿体を付けて言おうとするのに、土方はそんな無粋な一言と鞘走りの音とを投げつけた。身を翻すなり、背後を塞いでいた男たちとの距離を一息に詰めて、刃の一閃。 「っき、貴様ぁ!」 卑怯なり、とかお決まりの台詞がその口から吐かれるより先に、土方は最初に斬り伏せた浪士の手にしていた長ドスの様な得物を素早く奪い取る。既に鞘からは抜かれていたそれを振り被る様な姿勢で掴むと、近くに居たもう一人の浪士の喉に思い切り突き立て、抜く。 「あひっ、」 刃が抜けるなり間欠泉の様にしぶいた血の後を追って間の抜けた悲鳴が出て来るが、その時には土方は既に二つの死体数秒前から背を向け、前方から憤怒の様相で斬りかかって来た編笠たちを迎え撃つべく振り返っていた。 気分の良い筈のほろ酔い加減。だがそれも隣り合った犬猿の仲の男に妨害され、更には帰路まで邪魔された。機嫌なんてとても良いものではない。果たして向けた形相が如何な質であったのかは知れないが──恐怖を過ぎらせた、至近に迫る顔に然し躊躇い一つ見せる事なく、土方は自らの『仕事』をこなす事にした。 。 ← : → |