貫 / 5



 死の匂いには隣り合わせで生の実感がある。
 誰の口にした言葉かなど知らないが、それは恐らく確かな手応えの事なのだろうと土方は思う。
 死を与えて生きのびる。死を糧にして生き続ける。そんな生業など碌なものではないかも知れないが、充実感──或いは実感と言う意味では他の何にも代え難いものである事は間違いない。こればかりは幾度繰り返そうが、決して慣れるものではない。それ故に。
 ただその紙一重の所に立つ度思うのは、大義名分への満足でもなく、死にたくはないと言う生への希求でもなく。
 それは、言って仕舞えばただの運の様なものだ。死神の下駄音を引き寄せるその運を近づかせぬ為にと、常日頃からあらゆる努力はする。だが、実際死の匂いの直中へと放り込まれて仕舞えば、殺意に殺意を以て迎え撃って仕舞えば、後はもう本能に任せるだけの、単なる運しかない。
 鍛錬も準備も、数パーセントの生存の可能性を引き上げるかも知れない程度の、誤差にしかならない。
 だから後は己の、意識とは別の場所で動く本能の成すが侭。考えるより先に身体はいつでも勝手に動いている。思う侭に望む侭に、死神と成り得る可能性たちの屍を拵える。
 そこには本来そう言った、生や死のうつろうだけの空隙しか存在していない。だが、そこに本能以上のものの居座る余裕が──言って仕舞えば単純な力量差が──生じる事がある。
 そうなると、果たしてそんな紙一重の僅かの隙間に入り込む夾雑物とは如何なるものであるのか。そんな疑問が浮かぶやも知れない。
 答えは酷く無粋な感情や感慨を以て顕れる。
 興奮や快楽。生の実感。生殺与奪を手にした全能感。……圧倒的に鍛え抜かれた強さを誇る剣客が、何故その手を享楽の血に染めるのかは、そんなたったの一言で容易に知れよう。
 土方や沖田もまた、『そちら側』を知った憶えのある使い手である。だが、そこを越えないのはひとえに理性や嫌悪を知るからだ。或いは、無感情である方が楽なのだと知るゆえにか。
 ともあれ、土方は本能の引き寄せて呉れる己の運は信じている。だからこれもまた、一方的な仕事になると、そう思った。
 この襲撃者たちは少なくとも、大した使い手では無い。道場で竹刀を手に向かえば、間違いなく一本とて譲るまい。
 ゆっくりと刻んで見える様な時の中で、刃のにぶい光が向かって来るのを見ながら、土方は僅かだけ身を躱す。牽制の様に振り下ろされた一撃は、その僅かの動きだけで虚しく空を斬った。
 左手を意識する。血には然程に濡れていない。まだ手は滑りはしない。判断するが早いか、土方は未だ手にした侭だった長ドスを浪士の腹へと突き立てた。無理な体勢で突き出された一撃では致命傷になる様な事は無いが、その痛みや衝撃は消せない。自らの腹部から生える凶器を見下ろして、蹌踉めいた浪士の顎を刀の柄で思い切り殴りつけた土方は、その侭返した刃で喉を一文字に切りつけた。
 作法も無い、初動を誤った斬り合いなど喧嘩の延長線の様なものだ。敵の練度に因ってはこう上手く行く確率は下がるものだが、それでも迅速な行動や騙し討ちは初手として有効な手段である。
 「くそ、」
 今更の様に笠を乱暴に放り棄てながら刀を慌てて構えるなど、斬り合いどころか喧嘩の相手にすら値しない。躊躇い一つなく間合いの内に飛び込んだ土方の、思い切り突き出した刀が、身構える事すら完全に出来ていなかった浪士の胸を貫く。
 仲間たちの続け様の死に怖じ気づいたのか、前方に残っていた最後の一人が背を向けて逃げ出すが、土方はそちらを一瞥したのみで後を追う事はしなかった。
 笠を被っていた者一人には見覚えがあった。先日の雑居ビルでの捕り物で、偶々現場にいなかった数名の一人で、既に手配がかけられている。そんな奴と一緒に行動していたのだから、恐らくはその一味だ。今必死で追いかけて捕まえなければならない様な相手ではない上、どの途そう長い事逃げ果せてなどいられないだろう。
 前方の一人は逃げ出したが、背後の者はそうではなかったらしい。仲間の亡骸を踏み越える様にして、ちくしょう、と自棄の様に叫びながら、抜き身の刃を携えて土方に向けて斬りかかって来る。
 「っち、」
 舌を打つ。胸を刃で貫いた浪士の亡骸が傾いで、土方の刀は一瞬だけ、肉から抜けるのに手間取った。
 その一瞬は恐らく動作にして一歩未満の空隙でしかないものだったが、背後から迫る浪士の自棄の一撃が目的を僅かに遂げるには充分だった。
 大きな負傷にはならないとは思うが、背に何らかの傷を負う事は避けられまい。さぞかし無様に映る事だろうと思った土方が、漸く死体から抜けた刃を手に振り向きながら、少しでも傷を浅くせんと体を反らそうとしたその時、
 
 「──────」
 
 鈍い色をした刃の切っ先が迫るのがいきなり、土方の視界一杯に拡がった。
 その刃は土方の頭部の、数粍と離れぬ所を真っ直ぐに通り抜けて、髪を揺らし、空気を裂いて、土方の背後へと迫っていた浪士の顔面へと一直線に吸い込まれて──
 「……っ!」
 「危ねぇなあオイ」
 暢気そうに呟かれた、聞き覚えのある声の紡いだ言葉と同時に、白い色彩の着流しがひらりと踊るのが土方の眼に否応無しに映り込んで来る。
 どさ、と背後で鈍い音。自棄っぱちの一撃を目の前から防がれる形になった浪士の肉体が倒れた音だろう。振り返りもせずにそう判断しながら、土方は己の顔の直ぐ真横を真っ直ぐに貫いているそれを、眼球を僅かに動かして見た。
 木刀だ。こんな勢いで突き出されたのを貰った日には、どんな面相になって仕舞うのか余り見たいとは思えない。何しろ鈍器である。鋭い、尖端を持った、切れ味の悪い、鈍器。
 洞爺湖と巫山戯た銘の入った柄を握る手は土方の殆ど目の前にあって、当然だがその腕の主の顔もまた、至近の距離にある。
 「……」
 好き放題な方角に毛先を游がせた、天然パーマの男の顔と、自らの顔の横を貫き通った木刀の一撃。どう言った訳か、道を分かれたかと思えば土方の向かう前方に先回りをして、遅ればせながらも駆けつけて来たらしい。
 坂田銀時。その名を、顔を、ぐらりと揺れそうになる脳味噌で認識した土方は、「万事屋」と半ば茫然とする意識で何とか言葉を紡いだ。紡いでから、間の抜けた己の声にはっと我に返る。
 「てめぇ、一体何して…」
 「いやまあその。何か物騒だったからね?別嬪さんはおモテになる事で結構なこって」
 気になったから助けに来たのだ、などとはきっと口が裂けても言うまい。誤魔化す様におどけた仕草で言う銀時の手がすっと引かれ、土方の真横を通り抜けた木刀が、凄まじい速度で突き出された時とは裏腹にゆっくりと引っ込んで行く。
 ぞく、と土方の背筋が粟立った。思わず、無意識に己の顔に手が触れている。そこにひょっとしたら貫かれた孔があるのではないかと、錯覚して。
 (んな、馬鹿な。そうだったら、俺はとっくに、死んで、)
 それでも、顔の直ぐ横を通り抜けた刃が、己に突き刺さっていったのではないかと、そう思えてならなかった。そのぐらいに、圧倒的に、その刃は土方を貫いていった。
 銀時は土方の手にした汚れた刃と、最後に刀を抜くのに手間取った亡骸とを見て、それから路地裏の他の骸にも、いつぞやの沖田にも似た態とらしい仕草で視線を投げてみせた。
 「おめーさ、知ってるたァ思うが、刺突は隙が大きくなる上、確殺って結果を見ても宛になんねェから、乱戦でするのはお勧めしねェよ?刀の切れ味がもう悪くなった後なら選択肢の一つだが、木刀みてェに易々突き刺さらねェ鈍器ならともかく、まーだ切れ味充分な刃物だと、刺して、抜く、その動作だけで余計な隙も手間も生じちまう」
 どくん、と土方の心臓が跳ねた。粟立った背筋を冷たい汗が伝い落ちて行く。
 今の場面が正にそれだった。刀を抜くのに手間取った。だから。
 そんな事は解っているのに、つい本能以上の『何か』が勝手にそうしようと動いた。だから。
 銀時は、今し方に土方を『貫いた』木刀をとんと自らの肩に乗せて、ふっと笑った。
 「突いて、刃が抜けなくなった所で背後から、ぶすりって、ヤられちまうかも?」
 こんな血腥い場所で、不釣り合いな程に柔らかく口の両端を持ち上げた銀時の笑みに、土方は己の不覚を悟る。
 否、きっと今と言う不覚を晒した瞬間でなくとも、いつからか、これは既に見抜かれていたに違いない。
 どう言った訳かは解らない。だが、この男は知っているのだと。気付いているのだと。
 ──だからこそ、土方を『貫いた』のだと。







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