カラの水槽 / 10 躊躇は然程長くは続かなかった。半ば茫然とした侭居間へと向かった銀時は受話器を取って、山崎に予め連絡用にと渡されていたメモを散らかった机から乱暴に探り出すとそこに記された番号へと電話を掛けた。コール音は僅か二回で途切れ、地味な声が電話に出る。 《もしもし、旦那ですか?何か解った事でも、》 「無理だ」 言葉は吐き捨てる様な鋭さになって口からこぼれ落ちて、銀時はそれを拾おうとするあらゆる努力を放棄した。 無理だ。言葉通りだ。正直に言うと、手に負えない、と思った。きっとここに居る事はあらゆる意味で土方にとって良くは無いのだ。 水の中の、熱すぎる体温。冷やされきった膚。熱さで何処か焼き切れて仕舞った様な思考の鈍さ。死にかけの魚の様に生気の淀んだ眼。それらの何もかもが銀時の心を酷く苛む。罪悪感も責任感も何も憶えていなかった筈の心に、もっと肝の冷える何かの可能性或いは答えを突きつけて来る。 《え?…どう言う事です、旦那、ちゃんと説明を──》 「無理だ、ってんだよ」 受話器の向こうの困惑しきった声を乱暴に弾く様に言うと、銀時は一度そこで息を吐いた。寄った眉根の狭間にあったのは、掌からこぼれ落ちた冷たい腕に対して抱いた恐れ。 苦悶と困惑とを目前にして感じた、恐れ。 「……、お宅の副長さん。症状がヤバくてもう家じゃ手に負えそうも無ェ。これ以上酷くなる前に、水槽でもなんでも良いから使ってでも病院や専門の機関に任せた方が良い」 《………》 銀時の絞り出す様な声に、返るのは息を飲む音と、沈黙。電話の向こうで果たして山崎は何を思いながらこの言葉を聞いているのだろうか。 単に依頼の対象である土方の状態が悪いだけなら、そうだと報告すれば良い。報告した上で、違う場所への移送を提案すれば良かった。だが、銀時は「無理だ」と口にして仕舞った。もう出来ないと。お手上げだと。関われないと。説得される余地など一切無いと。 そんな、弱音でしかない言葉の裏に潜んでいるのは、恐れ。何を由来とするのかも知れないその恐怖から少しでも逃れて、責任を負うまいとする銀時の怯懦な言い訳はどう思われているのだろうか。 彼の上司である土方が銀時を責めなかったから、山崎も銀時を責めると言う選択肢を放棄したのだとは、彼らが万事屋を訪ねて来たその日に知れていた。本来ならば、土方を水槽へと落とす原因を作った張本人として何かしら言いたい事ぐらいあっただろうに。 勤勉にも山崎は、事を己の責任であると定義した土方の意見に従い続ける事を、今に至るまで遵守し続けている。果たしてこんな弱音をこぼす銀時の無責任とさえ取れる行動に、言動に、彼はどんな蔑みを抱くのだろうか。 (依頼の放棄って事には変わりねぇ。情けねェけど、勝手だとは解ってるが、) それでも恐れた。恐れから眼を背けようとした。この恐れには触れるべきではないと、銀時はそう感じたから立ち竦んだ。 では逆に土方だったらどうだろうか。それが己の職務であり役割であるのなら、恐れなぞ呑んで立ち向かうだろうか。強がってでも向かい合おうとするだろうか。 己の心にいつからか刺さっていた棘の痛みに、たった今気付いて抜いて棄てようと言う銀時とは、何か異なった答えを出しただろうか。 「…、魚だよ。神楽が言ってた。その通りみてェだ。水の中でしか生きれねェ、人の体温で熱傷を負う、金魚みてェにただ茫っと水ん中で揺蕩ってる」 言う度に我知らず表情が歪んだ。泣き笑いの様なそんな顔で、銀時は途方に暮れて俯く。受話器を手放さぬ様に力を込めて握って、そこに縋って立ち尽くす。 土方が、あの男が、銀時の全く知らないものへと変容して行くのが恐ろしかった。 目の届く場所で、手の届く場所で、己の責任でもある事で、気安く喧嘩などしていられたあの男が容易くあの男で無くなって行く事実が、怖かった。 (馬鹿みてェな喧嘩して、殴り合って、言い合って。俺がからかうから嫌われて。でも他にどうやってアイツに向き合って居たら良いのか解らねェ。心配して、声かけて、不安になって、その先どう振る舞ったら良いのかが、) 嫌われていると知っている相手に、どうして猶も嫌われる様に相対し続けたのかと問われれば、それしか知らなかったからだとしか言い様が無かった。 情けねぇ、と銀時は呻く。ダチとして付き合うにはもう手遅れで、それでも、厭われていてもそれを止められずに居た自分は、本当にただの子供の様だと思う。 挙げ句に、気付いた時にはもう近付く事も出来ないなんて。弁解など要さない所に居るだなんて。 「………早く、アイツを助けてやってくれよ。こんな、大嫌ェな奴の所で魚みてェになってるより、アイツの帰りたい場所に少しでも戻してやってくれよ。その方がアイツも喜ぶだろ。安心出来るだろ」 力のない笑いを伴った軽薄なそんな声音に、説明にすらならぬ危機感に、果たして山崎は何を感じてどう結論付けたのか。長い間を空けて、やがて彼は短く息を吐き出した。 《……………解りました。出来るだけ騒ぎにならない様、なんとか移送の手段を練ります。明日またその事についてお話を詰める為そちらをお訪ねしますので、それまでの間は副長の事をお願いして良いですか?》 「……、」 問いてる癖に否やを言わせない声だと思って、銀時は俯いた侭「ああ」と答えた。どの道それ以外の答えは有り得ないが、気乗りがもうしなくなっているから、声は自然と投げ遣りに重くなる。 「水ん中に入れとくぐらいしか、俺に出来る事ァ無ぇけど」 《それで構いません。お願いします。──あと、》 何か釣り込まれる様な響きがそこにあった訳では無い筈なのだが、銀時は途切れた言葉の先を待って黙る。 《こんな事俺が言うのも野暮でしかないですけど、副長は嫌いな相手にまで職務だからと情けを掛けたり出来るほど、寛容で出来たお人じゃないですよ。旦那ならよくご存知でしょ?あの人結構短気ですから》 「………」 笑みとしか言い様の無い柔い声の紡いで寄越したそんな続きは、銀時に益々煮え切らない心地をもたらしただけだった。何か言いたげに己の口が開いて閉じるのを他人事の様に見て、それから無言で電話が切られるのを待ってから、嫌に重くなった気さえする受話器を黒電話へと戻した。 * ここはどこだろう。今は何時だっただろう。 止めどなく浮かんでは消える疑問は、生じては弾けて消える水泡か何かの様だ。その何れにも呉れてやれる答えが見つからず、土方は緩慢に流れる意識を集めてなんとか明瞭な形を作ろうと、もう幾度目になるだろうか、試みた。 ここはどこだろう。憶えがない。水が冷たい。音が反響しているから狭い空間だ。 今は何時だっただろう。空腹も排泄も感じなくなってから体内時計は全く宛にならない。窓から光が何も差し込んでいないから、夜か悪天候か。 どうして、こんな憶えの無い場所で水に浸かって何時間も過ごしているのだろう。 疑問の行き着いた先に、然し解答が出て来ない。少なからずこの場所については、正体の掴めそうなものが時折頭の中を過ぎるのだが、それが何なのか誰なのかが判然としない。 「……帰ら、ねぇ、と」 記憶の中に翻った銀色の光がするりと解けて消える。その先に在ったのは、原始的な本能。あそこで生きて、暮らしてきた。だから。 あそこ、と言うのはどこのことだっただろうか。 憶えのある気のする人たちが居る、あの場所の事、だ。 (そうだ、はやく、戻らねぇと…) 思考も意識もまとまりがなく浮かんでは次々と弾けて形にならず消えていく。役立たずの頭の中で、土方の背を押したのは、使命感と焦燥感だった。その正体は解らないが、観念じみた感覚は解る。或いはこれこそが帰巣本能と言う奴なのだろうか。 水の中から土方は立ち上がった。ぼたぼたと全身から水が滝の様に落ちていく。ふらつく足で浴槽から出ようとすると、途端に意識をぐらつかせる程の息苦しさと熱さとに襲われ、堪らず土方は膝を付いた。ざぶん、と水に全身を覆われ、掠れた呼吸を繰り返す。 (本当に、魚みてェじゃねぇか) まとまらない意識の中で、何故かそれだけははっきりと認識出来た。土方の記憶は時系列も因果関係も混ざって、順序立てた明確な思考を生んではくれないと言うのに、その感覚は、恐怖は嫌になるほど鮮明に目の前に突きつけられている。 鰓なんて無いのに、皮膚の全てが呼吸器以外の場所から酸素を得ようと喘いでいる。だが人体にそんな機能は無いから苦しいだけだ。大気が熱くてどうしようもない。変温動物ではない筈の人体だと言うのに、今では自らの体温調節さえ侭ならなくなっている。 (魚…、) 水面が眼前に迫り、顔面が水に漬かった所で意識がまたぐるりと回って融けた。 ここはどこなのか、いまはいつなのか、そんな終わらぬ思考の狭間で不意に思う。 魚こそが自分だったのではないか。自分は魚だったのではなかっただろうか。 そんな思いつきを否定する記憶は幾らでも浮かぶのに、水の中でこうして喘いでいると、記憶など定かでは無く、今の現実こそが正解なのではないかと、そんな心地になって来る。 (魚) それは最も癇に障る単語だった筈だ。そんな気がする。魚。否、金魚。そんなもの飼った事などない。だが、そんな奴だと言われて酷く腹が立ったのを今でも憶えている。侍だとか言う前に、敵とすら記憶に残されなかった事は屈辱的だった。そんな輩に大将が貶められたのも気に入らなかった。 それで刀を持ち出したのだから、子供じみた感情とは言えそれは己にとってとても大事な事で、執着すべき敗北感だったのだろう。 飄々と振る舞う男に、金魚を飼っている何某とやらではなく、土方十四郎と言う名を、存在を、刻ませたかった。それでも幾らそう望んだ所で、あの男はいつだって土方の事を対等に見ようとはしてくれず、沖田と一緒になって小馬鹿にしてからかうばかりだった。 ──業腹だった。悔しかった。違う名で呼ばれたあの時から、この距離感が何一つ変わらぬ事が。彼我の狭間に横たわるのが、段々と忌避感や苦手意識になっている事に気付きながらも、消えない事が。 「こんな、所で、魚になんざ、」 水から顔を起こしてぜいぜいと喘ぐ様に呟くと、土方は再び浴槽から立ち上がった。魚だったか、人間であったか、そんな事はどうでも良い。今はただ、帰らなければいけないと、そう思うだけだ。己が己で在れる場所へ戻る事が出来ればきっと、こんな無様な姿をあの男の眼前に晒し続ける必要なんて無くなる。 浴槽から出て、ふらふらと憶束ない足取りで歩き出す。三歩も進まぬ内に熱に意識は歪み、膚が熱を帯びて肺は呼吸困難の苦しさを訴えて来る。 魚なのか。それとも人間なのか。どこへ帰ろうと言うのか。 水の中、と脳裏に答えが返る。今し方出て来た筈の、水の中。もっと綺麗な、流れのある、水の中。恐らく本能的に望んだのは、途切れる事なく蕩々と流れる河川。漂い、泳いで過ごす為の。 否、戻りたいのは、真選組の屯所だ。水でも川でもない、日々忙しく立ち働いては投げ出す命を研鑽する為のあの場所。魚ではない、人間の帰るべき場所。 「………」 土方は振り返らず、熱と呼吸困難とにぜいぜいと喘ぎながら前へと進んだ。真っ暗な夜の家の中。玄関らしきものが見えたその時、足ががくりと崩れて膝が落ちた。世界がぐるぐると回転する気持ちの悪さは、一種の危険信号である気はしたが、もう立ち上がる事も前に進む事も出来そうにない。 くるしい、と思ったその時、床が近付いて来て土方の意識はゆっくりと途絶えた。 水から出た筈だと言うのに、どうしてこんなに溺れそうに苦しいのだろうか。 。 ← : → |