カラの水槽 / 9 江戸は河川の多く整った町だ。元々海沿いが低地だった事もあるのに加えて埋め立て地で土地を増やした経緯もあって土地が水に弱く、特に下町側では生活用水の確保も兼ねた大掛かりな治水工事が行われ運河が町中に整備されている。 土地を縦横に貫く河川たちは、同時に物流の大きな助けともなった。江戸湾で獲れる新鮮な江戸前の魚介はその日の内に河川を遡って日本橋の魚河岸へと届けられる。冷蔵技術が発達していない頃でも、河川に因る速やかな運搬で足の早い生物たちは傷まない内に江戸の民の腹へと収まる様になったのだ。 そんな訳で江戸の河川は大変よく整備されている。交通網として船が往来出来る深さと、易々氾濫しない堤防とで支えられ、大きな河川には並行して放水路が作られ町を護っている。最早江戸の人々の生活は河川無しには成り立たない程だ。 そんな訳で河川はイコール道でもある。ナマズ天人の、縁日から離れての最後の目撃証言となった運河沿いを、情報を求めて訪ね歩くと言う作業は思いの外に骨の折れるものとなった。 かぶき町の様な発展した繁華街には河川の類は殆ど無い。水路は皆地下の暗渠となっており、その分道と土地とが増やされている。今や地上の発達した交通網は河川に取って変わりつつあるのだ。 江戸の中でも鉄筋の建物の多いかぶき町だが、賑わう中心地を離れて仕舞えば直ぐに街並みは一昔前の様相に変わる。一言で言えば静かな住宅街だ。その中を滔々と流れているのが、柳の木を左右の川縁にぽつぽつと並べた幾つかの大きな運河だ。ナマズ天人の最後の目撃証言は、この運河に掛かる橋の上でデートをしていたカップルのものだった。 そこを起点に上流と下流とに手分けして聞き込みを行っていったが、訊けたそれらしい証言は夜の町を慌ただしく走っていったと思しき音程度のものだ。それさえも探し求めるナマズ天人のものであると言う確証も無い。 万事屋総出で午前一杯まで駆けずり回ったが、得られた情報は昨日と殆ど変わりない。落胆と徒労感を背負った侭、新八と神楽とを買い物に寄らせ、銀時は一人先に家路へとついていた。買い物を手伝わない代わりに昼食当番の役目を負ったので、二人が戻ってくる前に準備をしなければならない。 「たでーま」 施錠を開けて小さな声で呟く。普段は家の施錠など滅多にしないのだが、風呂の中にVIPもとい護衛対象でもある依頼人を棲まわせているので戸締まりはする事にしている。こんな事でも立派に依頼の一端だ。 水場に入った銀時は、冷蔵庫に向き直った所で一旦停止して脱衣所の方を見遣った。食事は、どうせまた訊いた所で要らないと突っぱねられるのだろうが、一応訊ねてみた方が良いだろうか。 思って口端を下げる。どうしてこう、下らない事で煩わされているのだろう。単に金勘定の発生する依頼なだけだと割り切れれば楽な筈だと言うのに。依頼人が食事を要しようが断食していようが、そんな事は知った事ではないのだと思えば良いだけの話だと、言うのに。 (……本当に、デカくなり過ぎた金魚でも飼ってるみてェだ) 神楽の口にした、魚みたいだと言う言葉を思い出す。確かに金魚の泳ぐ水槽から掬い上げたと言う意味では正しいのかも知れない。銀時はそんな皮肉にもならない思いつきに、浮かびかけた微量の同情を持て余して後頭部を掻いた。どんな表情をしたら良いのかよく解らないと思ってから、ひとりでこうして立っているのに何を、何に気にしているのだろうかと困惑する。 「…オイ、生きてるか?」 困惑を義務感に替えてそっと浴室の戸を開いてみると、浴槽から流れ落ちる水音がまず聞こえた。開けっぱなしのカランからは水がざぶざぶと浴槽に満たされた水面へと流れ続けている。その中で土方の身体はいつもの様に座った侭水の中へと沈んでいた。顎から上だけが辛うじて水の外に出ていて、目は薄ぼんやりと開かれた侭何処ともつかぬ奈辺を見つめている。 「…土方?」 思わず名を口にしたのは、水の中のそれが本当に己の知る土方と言う人間なのかどうか、一瞬判断に困ったからだ。姿形も、朝方目にした様子とも殆ど違えないと言うのに、どうしてそんな気がしたのかはよく解らない。 憶え知れぬ戦慄を背筋に感じながら見下ろす銀時の姿へと、ややしてから土方の視線だけが向けられた。覇気のまるでない目は、緩慢過ぎる動きと併せて何処か無機質なイミテーションか何かの様で薄気味が悪い。 「……土方、」 もう一度声を掛けると、明確な意識のまるで無い様に見える目がじっと銀時の姿を見上げて来た。奇妙なものでも見る様に傾げた頭から細かな水滴がぽたりぽたりと滴って波立つ水面を叩く。 「よろずや……?…なんで、こんなところに…、」 「いやここ俺ん家だからね?オイ、お前本当に大丈夫か?」 ぼんやりとした眼差し同様にぼんやりと霞んだ声で妙に辿々しく言われ、銀時は狼狽を隠せず訊いた。額の熱でも計ってやろうかと寸時考えるが、無駄だと思って止める。どうせ熱いに決まっているからだ。 「………」 その侭黙り込んで仕舞った土方は、銀時の問いを咀嚼しようとした訳では無い様だった。ただ再び忘我の淵へと戻っただけの様に、その侭水へと沈んで仕舞おうとしている。 「オイ!」 咄嗟に銀時は声を上げた。寝たら死ぬぞ、などと言う馬鹿な言葉が浮かんで消える。水の中に沈んで仕舞えば寝ていなくとも死ぬのだ。人間は水の中ではどうしたって生きられない。 銀時は咄嗟に浴槽に手を突っ込むと、水中に沈んだ侭動かない土方の腕を掴んだ。土方は相変わらずぼんやりとした目で、至近に迫った銀時の顔を見つめて緩慢に瞬きを繰り返している。ここまでくれば銀時にでなくとも解る。明かに今の土方は普通と言える状態ではなかった。 窶れの見て取れる顔を見返して、銀時は苛立ち紛れに舌を打った。矢張り明かに悪化している。無駄な義務感など持って万事屋を訪ねてきたりするからこんな事になっているのだと思えば、腹が立って仕様がなかった。 「よろずや?」 掴んだ腕に力が籠もりそうになった時、土方の意識が不意に戻ってきた。然し言葉は続かない。恐らくは直ぐ様にまたその意識は遠ざかりそうに揺らいでいるのだ。まるで切れかけの蛍光灯か何かの様に。 切れたら、水に沈んで仕舞ったら、もうきっと戻らない。そんな曖昧で何の意味もない想像を打ち消す様に、銀時はともすれば戦慄きそうになる口を開いた。 「…お前やっぱ飯食え。水から出たくねェってんならこん中で食うんでも構わねェから、」 食事抜きが原因でこうなっているとは思わなかったが、兎に角何か人間らしい、いつもの土方の生活らしい事をさせてみたかった。そうでもしなければ、この、何処を見ているとも知れない眼は水に沈んできっと戻って来れなくなって仕舞う。 焦燥は荒唐無稽な想像の中から涌いて出た。それを笑い飛ばせる気は、少なくとも今の土方にはしない。銀時は土方に言い聞かせる様に強く言うと、掴んだその手を水から引き揚げた。ぐっしょりと濡れて血色の悪い肌色にまとわりつく白いシャツの袖から水がぼたぼたと滴って、浴槽の水面をひととき賑わす。 「──っづ、ぁ!」 その侭腕を引いて立ち上がろうとした銀時の手の中で、掴まれている土方の腕がびくりと跳ねた。背筋ががくりと突っ張って震え、力なく頽れた頭はか細い苦悶を上げる。 藻掻く様な腕の動きに抗わず、半ば反射的に銀時は五指を開いていた。解放され水へと落ちる土方の腕。苦しげに歪められた表情の下には確かな困惑。 え、と間の抜けた声を漏らした銀時とて困惑は土方と同様だった。水の中、土方の腕にはそれを掴んだ銀時の掌と同じ形の赤い痣が──否、皮膚の表面にまるで焼きごてでも押しつけた様な、火傷の痕が出来ていた。 思わず銀時は自らの掌を開いて見つめた。だがそれは見返した所で見慣れた己の掌だ。特別熱を持っている訳でもない、水の中に入っていた為に常より少しだけ冷やされている筈の手だ。 (人間の体温で、火傷、した?) 水の中にしか居られない身体。大気に触れているだけで感じる熱と息苦しさ。高すぎる熱を水に因って冷やした身体はもう、同じ人間の体温程度でさえも高熱に感じる様になったとでも言うのか。 焼けた腕が痛むのか、土方は暫くの間苦しげな表情を保った侭俯いていたが、やがて強張った力を抜いて再び水の中へと頭部、顔面の一部を除いて沈んで仕舞う。 「………、」 悪い、と謝れば良いのか、どうしてこんな事に、と問えば良いのか、大丈夫か、と気遣えば良いのか。或いはそのどれでも無い事をするべきなのか。 銀時は開いた己の掌の向こうに茫然と、水に沈む土方の姿を見ていた。 全くの余談。よく原作中に運河らしき川が出て来てますけど、銀さんたちの行動範囲だからかぶき町からそう遠くないんだろうしアレって何川なの?と言う疑問が常々ありまして。ちょっと遠いけど神田川か、現在では暗渠化してる蟹川なんかが丁度良い所流れてるなあと思うんですが、どうなんでしょうね?取り敢えず整合性考えるのが面倒だったので今回はシンプルに神田川と想定してますけど。 …そんな訳でよく作中に出て来る舞台を地図上で追って、このへんかな?とか想像してるんですが、結構に万事屋の行動範囲と真選組の活動範囲が広くて吃驚します。…いやまあ勝手な想像なんですけどね。 ← : → |