カラの水槽 / 8 眠りは浅く、頭も身体も疲労感から完全に脱する事が出来ない侭、銀時は夜明けを迎えた。家の中の人間様の浮かない心地になど拘わらず窓の外では朝の早い鳥達が忙しなく騒ぎ立て、新聞屋のバイクが道を走っていく音が聞こえてくる。 空はまだ薄暗い。日の出は遅くなって日の入りは早くなる。まだ気温は高いが、暑かった夏ももう終わりなのだと、四十五億回もの間繰り返されてきた自然のサイクルが勤勉な知らせをくれている。 眠る前に身体が冷えていたからと、夏用の布団を二枚重ねにしたのが間違いだったのか。体温ですっかりと温められた布団の中で銀時の肌は薄らと汗ばんで、ただでさえ余り良くなかった寝覚めの不快感をより増していた。 放っておいてもすぐに乾く程度だと思いながら、蒸された気のする腹を軽く掻いて、寝間着の侭銀時は布団を蹴って立ち上がった。眠気は遠いが疲労感の拭えていない頭を振って居間へと出る。それ程疲れる様な事などしていない筈なのだが、どうしてこんなに疲れた気がしているのか。 新八はまだ出勤して来ていないし、神楽は昨晩銭湯の帰りに寄った恒道館で眠って仕舞ったのでその侭泊まって行くと、昨夜銀時が眠る前に連絡があった。 だから今この家の中には銀時一人しか本来ならば居ない筈だったのだが、実際にはそうではない。 否、腹の調子さえ悪くなければ銀時も銭湯に出掛けていた筈なので、そうなるとこの家には水風呂の中の面倒な客人しか残されていなかったと言う事になっていた筈だ。 水風呂の中から出られないのでは番犬にもならないと、本人が聞いたら間違いなく憤慨しそうな冗談を考えながら、銀時は水場で顔を洗って口をゆすいでから冷蔵庫に貼ってあるカレンダーを見遣った。今日の日付の所には新八の字で「銀さん」と書いてある。その意味する所は、万事屋三人で公平にジャンケンで決めている食事当番の割り当てなので、面倒だろうが億劫だろうが基本的に決まりは絶対である。 冷蔵庫を開けて中を覗き込んでみる。普段から探す程のものが入っている冷蔵庫では無いから、めぼしいものは直ぐに見つかった。生卵のパックが一つ。古い為にワゴンで売られていた、少々しんなりした小松菜。三パック売りの豆腐。 米をといでから炊飯器にセットし、鍋に湯を沸かす。そうする間に卵を割って塩と出汁の素を混ぜて菜箸でぐるぐると混ぜる。卵は余り混ざり過ぎていないのが好みだ。 沸いた鍋で、洗った小松菜を下茹でし、水にあげてから半分程度に分けて片方を大雑把に刻み、もう片方は細かく刻んで溶いた卵の中へと放り込む。 もう一度鍋で湯を沸かして出汁の素を振ると、大きく刻んだ小松菜を沸いた湯に入れて、開けた豆腐一パックを手の上で切って投入。後は味噌を入れるだけで味噌汁の出来上がりだ。 鍋に一旦蓋をすると、フライパンを熱して油を引き、卵を焼いて行く。だし巻きにするのは面倒なので平たく丸い形の侭だ。 卵に火の通る香ばしい匂いが満ちてきた頃、フライ返しを使って出来たての卵焼きを幾つかに切り分けたら換気扇を回して調理手順は終了。神楽の卵かけご飯用に生卵を幾つか器に乗せておけば、あとは白米が炊けるのを待つだけだ。 一仕事終えた充実感に軽く伸びをすると、銀時は今まで努めて意識しない様にしていた風呂場の方を向いた。昨晩の夕飯は、土方がぐったり水に沈んだ侭だった上に本人も必要ないと辞退していたが、果たして一夜明けた今はどうだろうか。普通に考えれば相手は幾ら体調不良でも立派な成人男子なのだから、腹はかなり減っている筈だ。 神楽の用がある為米はいつも(ある時は)多めに炊いているし、一人増えるぐらい何と言う事も無い。……まあマヨネーズは用意してやれそうもないが。 「オイ」 脱衣所から、開いた侭の浴室に向けて声を掛ければ、「何だ」と水の中からは直ぐに返事が返る。どうやら溺れてはいなかった様だが相変わらず体調は悪いらしく、声音に潜んだ怠さは浴室の中にいやに反響し大きく聞こえた。 「朝飯用意したけど、食える?」 「……いや、要らねぇ」 黒い頭がかぶりを振る仕草と共に水風呂がちゃぷちゃぷと音を立てる。今し方の返答より弱々しく聞こえるその声に、銀時は腰に手を当てて嘆息した。すっかりと乾いて仕舞っている浴室に裸足で上がると、水風呂に昨日とほぼ変わらぬ様子で沈んでいる土方を見下ろして言う。 「具合悪ィのも、現状が気に食わねェのも解るよ?解るけどさ、おめー飯も食わねェでこの侭保つと思ってんの?いざ治ったって時に痩せ細ってその侭病院直行するつもりですか?いい加減拗ねてねェで、ちったぁ手前ェでも回復する努力とかしろっての」 苛立ち由来の棘しか無い言い種に、土方は濡れた頭から水を滴らせながら、言葉を吐いた張本人である銀時の姿を見上げて来た。常の様な強い反発や反論は無いが、苦しさと悔しさとを噛み締めた唇の裡に飲み込んで、堪える様に、或いは懇願でもする様にじっと見つめて来る。掴みかかりたかっただろう腕は水の中に沈んで出て来ない。恐らく拳は握りしめていただろうが。 「………面倒かけてる事は謝る。だが、何も喉を通りそうもねェんだ。気にしてくれなくて良いから、構わねェでくれ」 頭でも下げる様に水に向いて、土方は今にも軋りそうな歯の隙間から辛うじて平淡にそう告げると、それきりもう顔を起こそうとはしなかった。 「……あっそ。ドMな副長さんは放置プレイがお好みと」 思いの外に捨て台詞としか言い様の無い声が出て、銀時はむっと顔を顰めながら浴室を後にした。これではまるで自分の方が拗ねている様だ。 別に食事だって敢えて土方を思ったり勘定に入れて作った訳ではない。だが、ああまで頭ごなしに拒絶の言葉を投げられればそれなり腹も立ってくる。土方が、幾ら具合が悪くとも、嫌う人間の手など借りたくないとでも考えているのではないかと思えて来て、それでついむっと来たのだ。 そもそもにして、銀時には真選組や土方個人を毛嫌いする様な理由も感情も特にはない。どちらかと言わずとも毎回何かにつけて喧嘩を売り買いして来るのは大概の場合土方の方が先だった。 普段はクールぶっている癖に、その実煽られたり馬鹿にされたりする耐性の少ない土方の反応はいちいち面白く、銀時もつい調子に乗って彼の部下である沖田と一緒になって土方の事を小馬鹿にしたりからかったりと言った事を行って仕舞うと言う訳なのだが、銀時から見ればあんなものはただのコミュニケーションの一端の様なものだ。 土方とて沖田のそれを解っているから、彼らは決定的に仲違いする事もなく親友や上司と部下と言う関係たり得ているのだろう。 だが、恐らく銀時のそれを土方は許容してはいないのだ。故に本気で反発するし徹底的に嫌う様な態度も隠さない。近藤の問題行動や沖田のおふざけや山崎の軽口は許容出来ても、銀時のする同じ事は許されない。 だから銀時は、己を嫌う土方に対して、心の狭いお堅い奴だと評して納得していた。殊更に嫌っている訳でもない相手は然し、銀時の事を決定的に厭っているのだから、そんな相手を近くに留め置かねばならない事を快く思える筈も無かった。嫌われていると解っている人間の面倒など普通は見たくない。土方とてそれは同じ筈だ。 (何せ、嫌ってる奴に対しても警察の義務感てのを忘れる訳にはいかねェって奴だよ。そりゃ不満や鬱屈も溜めるか) 馬鹿正直か馬鹿真面目か。どちらにしても損な性分だと思う。 金魚の水槽の中に外来種とやらを見咎めた時も、水槽に転んで金魚をぶち撒けた時も、体調不良を押して昨日ここまで来た時も、だ。土方の中には、嫌う男に関わらねばならないと言う億劫さよりも、自らの重んずる職務が最優先に置いてあった。 己の心配をするよりも義務感を優先して行動した挙げ句に、その大嫌いな相手の所で世話にならなければならないなど、土方はその事実をどれだけ気鬱として抱えているのだろうか。 (気にしたって仕方無ェけど) はぁ、と思い出された罪悪感と結論とを一緒くたに大きく息を吐けば、頭に熱を持ち始めていた銀時の内圧も徐々に下がって来る。 そうなって来ると自分の子供じみた言動や態度が酷く馬鹿馬鹿しく思えて来るのだが、浴室にとって返して「ごめんね」と言う様なものでもない。土方がいつもの様に、銀時の言い種に対して突っかかって来てくれていればこんな、後悔の苦味を伴う面倒臭い思いは感じずに済んだだろうに。 恐らくこう言ったやり辛さを予想していたから、この依頼に対してどうにも気が進まなかったのだろう。そう胸中で渦を巻く憤懣に言い聞かせる。 朝餉の匂い漂う台所から風呂場までの距離は近い。だがその空隙を真っ向から見つめるにも、言葉と行動を探しながら埋めるにも、全てを納得し放り棄てるにも躊躇いがあって、動けない。空回りした思考も言葉も、脳から溢れて冷えた床の上に役立たずに散らばるばかり。 やがて神楽を連れた新八がやって来たのを契機に、銀時は漸くその場を離れる事が出来たのだった。 * 昼を回って、万事屋は真選組からの依頼通りにかぶき町で情報収集に当たった。だが、訪ね人であるナマズ天人についての情報は然程に得られなかった。と言うのも夜の、しかも縁日で賑わう町中だ。ちょっとぐらい羽目を外した変な奴が真っ裸で走っていても誰もが大して気にも留めなかったらしい。 金魚すくいの屋台を離れて走って逃走、直ぐに追跡した土方も途中で見失い、その時点ではただの猥褻物的な捉えられ方しかしていなかった為に捜索をあっさりと打ち切って仕舞ったのだった。 銀時らは三人手分けして、ナマズ天人が縁日を離れてからの目撃談を中心に聞き込みをして回ったのだが、何れも得られた証言は大したものでは無かった。精々、大体の向かった方角程度。 成果がほぼ無くとも仕事は仕事だ。依頼主に報告義務がある。そんな訳で銀時は家に戻るなり山崎に伝えられた連絡先へと電話を掛けていた。 「…つー訳だ。かぶき町の繁華街とは離れた方角の川縁が、俺らで辿れた最後の目撃談だったよ」 《そうですか…。繁華街から離れれば人も監視カメラも減る。追跡は難しそうですね…。奴さんはそれを解って逃げたんでしょうか…》 「さあ?俺に訊くなよそんなん」 電話の向こうのあからさまに落ち込んだ声に、銀時は指先で捻っていた電話のコードから指を引っこ抜いて投げ遣りに言った。万事屋として依頼を受けて動いているが、捜査の相談までは対応しかねる。自分でも妙だと思い直したのか、そうですね、と苦笑で返す山崎の、水風呂に相変わらず沈んでいた上司であればもう少しまともな返事を返していただろうか。思うが、わざわざ風呂と居間の電話とを往復してまで伝える程の事ではあるまい。結局のところ問わねばならないぐらいに成果も無かったのだから。 《それでは引き続き調査の方、可能な範囲で構いませんのでお願いします。こちらも得た情報全てを活用してナマズ天人の行方を追いますんで》 「へいへい」 銀時の投げ遣りな返事に頓着する事なく、それでは、と切られる電話。銀時は通話の途絶えた受話器を見つめてやれやれと嘆息した。 明るい材料が欲しいのはこちらとて同じだった。当て所ない調査と成果の無い調査と言うのは存外に骨が折れる。ゼロに等しい手がかりから雲を掴む様な情報を得るのには、運と地道な根気が必要になるのだ。 現在の土方が健康体と診断されたからと言って、症状を見せる前に接触した謎の天人に原因が恐らくはあるだろう想定に変わりはない。では、問題の探される側に果たして人間に対する悪意や害意があるのか。それが当面の問題だ。逃げる気があって逃げているのか、隙あらば土方の様な犠牲者を再び作ろうとしているのか。それとも全く無自覚にあの症状をばら撒いているだけなのか。 「明日は最後の目撃談のあった川縁から先で聞き込みだ。午前中から動くから、おめーら今日は夜更かしとかすんなよ」 受話器を置くと、銀時は居間で寛ぐ神楽と新八に明日からもまだ仕事が続く事を宣言した。縁日以降は仕事もなく暇だったのもあってか二人共にそれなりにやる気の様だ。 「はいヨー」 「解りました。あ、あの通りのスーパーで明日ティッシュペーパーが安いんですけど、途中で寄っても大丈夫ですよね?」 「おう、寄ってけ。んじゃ荷物持ちに定春も連れてくか」 調査の計画と言うよりただの日常会話だ、と緊張感の無さを感じつつも、銀時はトイレに行くついでに浴室を覗いてみる事にした。朝早くに棄て台詞めいたものを残して以来なので少々気は重かったのだが、こちらも依頼人と言えば依頼人だ。依頼内容の進捗を一応は報告する義務がある。 「生きてるかー?」 銀時がそう声を掛けながら浴室の戸を開くと、土方は相も変わらずに水風呂の中でぐたりと脱力していた。いい加減重くなったのか上着を脱いだ様で、黒い重たげな衣服が浴槽の淵にぐしゃぐしゃになって掛けられている。 「……生きてるか?」 二度目の声が少し引けて仕舞ったのは、水風呂にどっぷり浸かった土方の顔にほぼ全くと言ってよい程に生気が見て取れなかったからだ。目は開いているが睫毛が物憂げな翳りを作っていて表情は暗く、薄く開かれた唇の隙間からは苦しげな呼吸が繰り返されている。 「生きて、る」 返事の無さに銀時が焦れ始めた頃、漸く掠れて弱い声がそう呟きを発した。確かに生きてはいる様だが、明かに具合が悪化している土方の様子に、銀時は浴室に入ると水風呂の中に手を突っ込んでみた。水温は心なし温まっている気がするが、まだ水と言えるレベルだろう。 「熱いのか?」 訊けば、がくん、と頭が頷くと言うよりも脱力すると言った動きで上下した。流石にこれは、素人目でも危ない状態なのではないかと思い、銀時は浴槽に水を注ぐカランを回した。カランから落ちる水は未だ冷たい。少なくとも、土方の浸かっている水風呂に比べれば、水道管を通って来たばかりのそれは大分冷たい筈だ。 「水道代も出るっつぅし、こうしといた方が楽なら流しっぱなしにしとくな」 注ぎ足される流水に浴槽の水は忽ちに外に押し出されて溢れる。溜まりっぱなしより多少でも循環があった方が水温も冷えた侭を保つだろう。水道代の明細を見るのは怖いが、どうせ支払うのは真選組だ。 揺らめく水の中で、白いシャツに覆われた腕は沈んだ侭浮かんで来ない。動く元気も気力も無いのだろうか。脳の働きもかなり緩慢になっているらしく、土方はまるで痴呆の老人か何かの様に長い時間茫っとしていた。 「迷惑かけて、すまねぇ」 大分遅れて漸く紡がれたその言葉が、先頃の流水に対する返答だと気付いて、銀時は返そうと浮かんだ悪態を飲み込んだ。とんでもない遠距離間の通話でもしているかの様だ。 「依頼料は貰ってんだし気にしねェで良い」 気休めの様にそう投げて浴室から出ると、話す銀時の声でも聞こえたのか、脱衣所まで神楽と新八とが様子を見に来ていた。殊更に土方の心配をすると言う訳では無い様だが、まあ普通は目鼻の距離で見知った顔が臥していれば気にぐらいかけるだろう。どうやら、別に銀時ばかりがお節介だと言う訳では無さそうだ。 「水から出られないなんて、まるで魚みたいアルな」 「どっちかって言うと河童じゃねェの」 口に銜えた酢昆布を上下させながらの神楽の、正にその通りとしか言い様のない感想に、銀時は軽口で返す。河童は胡瓜を囓っているものだが、土方が河童だとしたらマヨネーズを啜っているのだろうかと、浮かんだ下らない想像に頬を歪める。普段なら笑っている所だが、今は余りそんな気分にはなれそうもない。 「またそんな事言って」 新八に小声で窘められて、銀時は悪い冗談の様なその想像を打ち切ると浴室から離れた。あの様子だと今日は真横で風呂になんて入らない方が良いだろう。万事屋の風呂はシャワーとカランが同じ蛇口から続く一つしかないから、どちらかを使えばどちらかを止める事になって仕舞う。 夕飯も、そして明日の朝食も恐らくは必要あるまい。それで土方の身体が保つのか、などと言う所は銀時が案じても仕方の無い話だ。本人が構わないで欲しいと口にしたそれ以上に──本人の意志に何ら拘わらず、酷い高熱と言うその症状は起きている。 改めてそう思えば、朝は随分と酷い言葉を投げて仕舞ったかと銀時は己の言動を少し悔いた。水槽に土方を転がして発端を作って仕舞った罪悪感を持て余すばかりか、結局被害者である土方当人へと攻撃を向けているのだから酷い話だった。 いつもの様に怒ってくれたら。張り合いのある相手として、気に食わない面で目の前に居るのなら。幾らでも卑怯な言葉や弄り倒す方法も浮かんだし行えただろうに。その方が気も楽だったろうに。 なんだか子供の様だ、と思った所で銀時は苦々しく気付く。 今までに、喧嘩しか、背を任せ合う斬り合いしか、土方とのコミュニケーション手段を持っていなかったのだと言う事に。 。 ← : → |