カラの水槽 / 7 石鹸とタオルを放り込んだ木製の桶を頭に器用に乗せた神楽と、その横にはこちらは特に何も持たずに、新八の姿。少なくとも銀時が最後に見た時はそんな様子だった。 時刻は十八時過ぎ。夕食を早めに終えて、普段ならばそろそろ風呂でも沸かすかと言う頃合いだが、その肝心の風呂は貸し切り状態にある。因って、揃って銭湯に行こうと言う所だ。 神楽はお妙と銭湯に入れると言う事でずっと上機嫌そうにしている。お妙にも新八から電話を入れて既に約束は取り付けてあるらしい。子供と言うのは大体にして広い風呂が好きなものだと言う例に漏れず、神楽も銭湯行きが決まってからと言うもの無駄にテンションが高い。 「銀さーん、まだですか?」 「銀ちゃん早くするヨロシ!アネゴが待ちくたびれて洗い髪が芯まで冷えちゃうアルよ〜」 言うなり微妙に調子の外れた神田川を口ずさみ始める神楽に、銀時はトイレの中で嘆息した。どうにもさっきから余り腹の調子が良くないのだ。夕飯前にこっそり件の栗羊羹を一本丸ごとつまんだのがいけなかったのかも知れない。 「銀ちゃーん!」 「ああもううるせェな、お前ら先行ってろ!銀さん後からゆっくり行くから。頼むからトイレぐらいゆっくり入らせろってんだよ」 粗方毒素を排出したと言うのに、未だ痛む気のする腹をさすりながら銀時はそう声を張り上げた。腹が壊れるとどうして色々なものに謝りたくなるんだろうとぼんやりと考えながら、俯いて自らの爪先を見つめる事暫し。 「じゃあ、僕ら先に行きますね。行こ、神楽ちゃん。姉上ももう待ってるだろうし」 「そうアルな。じゃあね、銀ちゃん。スプレーちゃんと撒いとけヨ〜」 やがて玄関先から聞こえて来たそんな声たちと共に、玄関が開いて閉まる音。そして軽快な足取りで外階段を下りて行く音が遠ざかってやがて聞こえなくなる。 「あーやっぱ高級品が肌に…いや腹に合わなかったか。それとも食い過ぎか…」 機嫌の良くない自らの胃腸を宥めながら、銀時はカラカラと音を立ててトイレットペーパーを手に巻いて取った。実はもう出るものなど無いのだが、銭湯に浮かれている神楽のテンションに合わせて行動出来る気がしなかったのでトイレに籠城していたのだ。 心なし軽くなった腹を癖の様にさすりながら立ち上がり、二度流す。それからトイレ内に引っかけていた着流しを肩に羽織って外に出ると、銀時は水場へ向かって水を一杯だけ飲んだ。もう既に疲労感は拭えそうもなく、銭湯に出掛ける気など失せて仕舞っている。 風呂が空いてたら、と溜息混じりに思いながら、閉ざされているが電気は灯っている風呂場の戸を振り返って銀時は目を眇めた。表したかった感情が不快か不満かは解らないが、自然と足が動いて手は戸を開いている。 そうして無言で覗き込んだ浴槽には、水に顔の半分は沈んだ土方の姿があった。言いたかったのは文句か嫌味か悪態か、それとも。 「……オイ待て、オメー溺れてたりする?」 「………」 声を掛けるが反応はない。鼻先まで水に沈んだ顔の、目は硬く瞑られ眉はぴくりとも動かない。銀時の額に思わず汗が浮かぶ。 「ちょっと。なぁ、オイ?土方くぅん?」 洒落になんねぇ、と呻きながら、銀時は裸足で浴室に入ると土方の肩を揺すった。衣服を着た侭だからか、大分重たげに揺れる身体に合わせてざぶざぶと浴槽の中で水面が波立つ。 「……?」 ややあって、眉を寄せながら土方の眼が開いた。彼は暫くの間呆けた様に揺れる水面を見つめていたが、やがてその目はゆっくりと動いて銀時の姿を見上げて来る。 「何だ、何かあったのか」 「いやお前今溺れてたよね。ほぼ溺れてる感じだったよね?」 「…溺れてねェ。寝てただけだ」 「水の中で寝るイコール溺れてる様なもんだろーが!」 図星なのか唇を尖らせてぶすりと言う土方に向けて一言怒鳴ると、銀時は脱力感に任せてかぶりを振った。人の家だと思って水死体になられたりなどしたら迷惑極まりないと、言いかけた言葉をこぼれる溜息の代わりに飲む。真っ向から心配して仕舞ったなどと取られるのは癪だと思ったのだ。 「好きこのんで寝てた訳じゃねェ、やる事がなくて暇だったんだよ」 畳み掛ける様に文句を続けない銀時に気付いた風でもなく、そう言い訳でもする様に言い直すと、土方は狭い浴槽の中でぎこちなく両腕を伸ばした。何しろそんなに大きくはない家庭用の浴槽だ。大人二人で入れない事は無いが少々手狭と言う程度のサイズなので、一人ならば幾分余裕もあるが広々と言う訳にはいかない。身体の動きが自由にならないとあちこちが痛むのだろう、立てて曲げた膝を苦しげに動かしているが、その挙措は水の中と言う事を差し引いて見ても酷く重たげに見えた。 近藤と山崎は帰る前に、土方に現状の方針を包み隠さず話して行っている。その内容をまとめると「ナマズ天人を見つけるまでここで待っていてくれ」と言うだけの話で、それに対して土方の返した答えは、「水の中じゃ仕事一つ出来やしねぇ」と言う不満げな声だった。その事からも、日頃仕事の鬼である真選組の副長にとっては、狭い浴槽の中で身を縮めていると言う現状が精神的にも肉体的にも相当に辛いものなのだろうとは伺えた。 果たして銀時が気紛れを起こして風呂を覗かなければ、或いは銭湯へ出掛けて仕舞っていたら、どうなっていただろうかと思考の片隅で思う。沈んで死んでいただろうか、身を縮めて眠った侭じっとしていたのだろうか。 何もする事がなく、誰もおらず、動く事も出来ないからと、静かに水の中に沈んでいたのだろうか。 「暇なのは羨ま…じゃねェ、同情するけどな、それで世を儚んで入水とかほんっと迷惑だからやめてくんない?」 「馬鹿か、死ぬ気なんざねェし溺れる気も無ェわ」 埒もない思考を振り切りさも呆れた様に肩を竦める銀時に向けて唇を尖らせて言うと、土方は片腕を水面から出して何か書き物でもする様に軽く振ってみせた。どうにか仕事が出来ないかと考えているのだろうとその様子からは伺えたが、黒い上着の袖から水がぼたぼたと滴っている様な状況だ、書類など書かせた日には何か書く前に紙が駄目になって仕舞うに違いない。 「なぁ、お前服着たまんまだけど、気持ち悪くねーの?それとも真選組では撮影の為に特別許可を得て服を着た侭入浴しています的な感じで通してる訳?」 動かす腕から滴る水と、湿った生地がまとわりついてさぞ動きづらそうだと、銀時は目を細めるのだが、対して土方はと言えばあっけらかんとした調子で、 「今更だな。……まぁ、確かに水の中には居るんだが、水から上がってる時と同じ様な感覚がどう言った訳かしててな、逆に脱いだ方が落ち着かねェと思う」 そんな事を言うと、水にすっかりと濡れて形の崩れたスカーフに触れて、暫く形を整えなおそうともぞもぞと弄っていたが、やがて諦めた様に役立たずになった布をずるりと首から抜き取った。 水の中で布を結ぶも、脱いだ服を着るも出来る訳が無い。つまり水の中で衣服を着ていると言うのはおかしな事である筈なのだ。それを逆に落ち着かないと言われても理解出来る気がせず、銀時は「ああそう」と曖昧に頷いておいた。 どう言う訳だか水に何時間も浸かっているのに皮膚にもふやけた様子が無いし、常識的な物の見方を今の土方に当て嵌めてみても意味など無いのだろう。何しろ健康体なのに水に入っていないと変調を来すなどと言う訳の解らない状態なのだから。 真選組の隊服から抜き取られたスカーフは、それ単体ではただの白い布一枚でしかない。それもすっかりと濡れて仕舞っていれば、脱衣所に置いてあるバケツに引っかけた雑巾と大差ない。そんな事を、浴槽の縁にべたりと引っかけられた布を見て思う。 (水から出たら、こう言う事か) 水風呂にすっかりと身を沈める事で、異常に高い体温を下げていると言う土方には、本人の言う通りに服を着た侭でも水の中に居た方が落ち着くと言う事なのだろう。ならば、水から上がれば濡れた衣服はただの重たく煩わしい枷でしかない。 「それに、服が濡れてるから、少しならこうして水から上がっててもそれ程急激に熱くはならねェんだよ」 水から出していた、ぽたぽたと滴を滴らせている腕を再び水中へと戻しながら言う土方に、銀時は自分にとって幾分理解出来そうな譬えを思いつくと同意を示して頷いた。 「あー。デコに濡れタオル乗っけとく様なもんか」 「まあそれだな。多分感覚としては近い」 熱い時や暑い日に、身体は熱くとも濡れたものが皮膚に触れているだけで随分と楽に、心地よく感じられるものだ。とは言え額に布一枚を乗せただけと濡れた服を着続けているのとでは全然違うとは思ったが。 いちいちその点を論ってどうこうと言った所で仕様がない。銀時は返事もそこそこに風呂場を出て脱衣所を見回した。銭湯に出掛けようとしていたから、ひとまとめに準備したタオルや石鹸や新しい下着が脱衣籠の中に置いてあるのが目に留まる。 「……」 或いは己の目は初めからそれを探していたのか。それを見つめながら手が自然と動き出す。銀時は己の裡に涌いた衝動的な行動に対して明確な言い訳を見つけられない侭、背中に羽織っていただけの着物を脱ぎ捨てると黒い洋装の上下に手を掛けた。脱ぎ捨てた衣類は脱衣籠に放って、下着まで脱ぐとタオルを腰に巻き、振り向いて直ぐの浴室へと戻る。 人の入ってきた気配と閉じた扉とに、浴槽に再び沈みかけていた土方がきょとんとした顔を向けて来る。それから目の前の光景を咀嚼するまで数秒。点になっていた目と寄りつつ持ち上がった眉とは、腰にタオルを巻いただけの姿で浴室に座り込んだ銀時がカランを捻るのを見て盛大に、且つ訝しげに顰められた。 「……何してんだ…?」 「見てわかんねーのかよ、風呂入んだよ、風呂。ここ風呂だからね。身体洗う所だからね。おかしな事じゃねェだろ別に」 水を溜めた侭の風呂場の温度はそんなに低く無い筈だが、流れるお湯からは忽ちに温かな湯気が沸き立つ。湯気で浴室が暖まるなと思って、水温調節を殆ど水の方へと絞ると、銀時は手桶に満たしたお湯──否、水に近いお湯を頭から一気に被った。そう寒くない陽気とは言え、背筋が伝い落ちる水と共に体温を冷やして震える。 「いや…おかしな事だろ」 土方は彼にしては控えめな調子でそう呟きはしたが、それは別段咎める気配ではない。ただ困惑は感じる。 家主が風呂に入る、と言うだけの事と言えば確かにその通りだ。浴槽が塞がっているだけ。浴室自体は風呂を浴びると言う意味で、身体を洗うと言う意味での役割を十分に果たせる。 「銭湯行くの面倒になったんだよ。俺ん家の風呂なんだからどう入ろうが俺の勝手だろ」 前半は本音だ。だが後半は少し苦しい言い訳の様に、自分で口にしていてもそう思えて、銀時は改めて己の意図の知れぬ奇行に内心首を傾げた。 もうこの侭風呂に入ってしまおうと思ったのは単に衝動的な理由だ。明確な何かの意図は無かった。腹が痛くて銭湯に行くのは面倒だった。そこに風呂があって、脱衣所にタオルも用意されていたから。だから。 頭をシャンプーで泡立てて、殆ど水のシャワーで洗い流す。寒くて背がぶるりと震えて僅かに後悔の苦味を齎すが、衝動的な行動であっただけにあからさまにそう見えるのは情けなく恥ずかしい気がして、銀時はシャワーにするには低すぎる水温を浴びながらもむきになって平然とした顔を保ち続けた。 その間、浴槽の中に肩以上まで身を沈めていた土方は、あからさまに銀時の方を見る様な不躾な真似はして来なかった。ただ眉を寄せてじっと無言で大人しくしていたが、銀時がシャワーを止めて浴室から出ようとした所で漸く一言を絞り出す。 「らしくもなく気にしてやがんのか」 乾いたバスマットが、すっかりと冷えた銀時の足の裏を優しく撫でる。浴槽を振り返るが、土方の半分近く沈んだ後頭部がこちらを見る事は無かった。 「…だから、銭湯まで行くのが億劫だっただけだってんだろ。腹も痛ェから風呂上がりの一杯を楽しむ気にもなれねーし」 銀時は湯上げタオルで身体を拭いながら、そうつっけんどんに言う。実際口にしながらその通りだと己の納得を引き出して、それでつい衝動的にこの侭風呂に入って仕舞おうと思っただけなのだと結論付けた。 「………水槽に転がったのは俺の不注意だ。てめぇがもしも何か、」 「俺が銭湯行くの面倒だっただけだってんだろ。耳ついてる?熱で頭の回転鈍いの?良い大人が自意識過剰は恥ずかしいよ?」 罪悪感でも抱いているなら──、と恐らく土方はそう続けようとしたに違いない。だが銀時は鋭い調子でそれを遮ると、殊更に小馬鹿にした言葉と態度とを選んで言って、下着だけを履くとタオルを羽織って脱衣所を後にした。 土方の視線も言葉も足もそれを追っては来ない。当然だが。あっちは水から出られないのだから、銀時の方が一方的にコミュニケーションを打ち切って仕舞えば追いも縋りもしようがなくなる。 身体を濡らしていた水を拭き取ってくれたタオルは、今はすっかりと冷えてつめたい。乱暴な仕草でまだ水の滴る頭髪を拭うと、銀時は寝室に置いてある寝間着代わりの甚兵衛に袖を通した。乾いた布は特別暖かくも柔らかくも無い素材の筈だと言うのに、冷え切った体温を更に冷やそうとする外気との間で優しく存在感を主張してくれる。 (…やっぱ、服ってのは身体を温める為に着るもんだよな、普通は) まだ残暑のしつこく残る季節とは言え、冷えた水中で暇を持て余して眠るなど、どんな酔狂でも考えられない。 寒いと身体も心も弱る。どんなに温かな衣服を着た所で、寒いと思えば自然と心は不安になるものだ。今の土方は逆に熱が高すぎて水中に居ると言う状況だが、冷えた侭で過ごすと言うのは余り良い事とも思えない。しかも一人で、何もする事が無いとくれば尚更だろう。 「…………って何考えてんだ、俺」 ぺちりと掌で額を叩いて、銀時は嘆息した。新八にはああは言ったが、銀時とて人の心ぐらいはある。目と鼻の先以上の目の前で臥している人間がいれば、出来るだけ考えない様にした所でどうしたって気にはなる。ただその対象が何かにつけて言い合いや喧嘩をして仕舞う面倒な相手だと言うだけだ。 面倒臭ェ。涌いた感想の侭に正直にそうこぼすと、銀時は風呂場に取って返した。開かれた侭の風呂の戸の前に立つと、まだ湿っている頭髪を掻きながら一言を絞り出す。 「オイ、夜だし寝るのは構わねェけど、水に沈んで溺れんなよー」 「解ってる」 じゃぶ、と言う水音と共に、ぼたぼたと水の滴る腕を軽く振って見せる土方に、銀時は黙って背を向けた。 寒いし、考えるのも気を遣いそうになるのも億劫だ。銀時はまだ冷えの残る体温にぐすりと鼻を鳴らして、もう今日はこの侭何も考えず眠って仕舞う事にした。 。 ← : → |