カラの水槽 / 11



 浅い眠りの中、銀時の耳はその物音を捉えていた。暗闇の中にぱちりと目を開いてみるが、目の前の光景は灯りを消す前と何がどう変わったと言う訳でもない。
 それでも何か胸騒ぎの様なものを憶えて、上体を起こす。家には銀時の他に神楽と定春とが居る。二人のどちらかがトイレにでも起きた音と言う可能性は高い。それとももっと単純に、棚から物が転がっただけとか、家鳴りがしただけかも知れない。何しろ安普請な家だ。廊下は水に酷く濡れた後だし、風呂場の水は流しっぱなしだ。何か物音の一つや二つしてもおかしくはない。
 不安を否定する思いつきは幾らでも浮かぶと言うのに、銀時の身体はそれらの意見とは真逆にも布団を蹴って立ち上がると寝室から飛び出していた。居間に出ると、程なくして廊下と水場との境辺りに倒れている土方の姿が目に留まり、強く打ち付ける心臓の鼓動と共に息を呑んでいる。
 「〜ッ何、やってんだお前!」
 水から出たら苦しい事も熱くて堪らない事も、誰あろう土方自身が一番解っている筈だ。ぐらりとした眩暈の中に孕んだ怒りの侭に、銀時は冷えた床板の上に横たわる土方に駆け寄った。浴室までまるで水死体が歩いて来たかの様な水の跡が続き、土方が自分の意志で水から上がってここまで来たのだと知れる。
 ぐにゃりと全身から力の抜けた土方を抱き起こせば、濡れた衣服越しにもはっきりと解る放熱と、苦しげに繰り返される喘鳴の様な息遣いが返る。水に戻さなければいけないと思って銀時が立ち上がろうとすれば、びくりと腕の中でびしょ濡れの身体が跳ねた。明瞭な音声ではない苦悶が、開かれ喘ぐ口からか細い笛の音の様に漏れ出す。
 (、火傷)
 咄嗟に手を離して床に土方を横たえる。びしょ濡れの衣服越しだから火傷はしないとしても、銀時の体温が触れる事は土方を益々熱で苛むだけだ。だからと言ってこの侭床に転がしてバケツの水を被せた所で仕方がない。
 「っくそ、こんな様で深夜に一人歩きとかおめーどんだけ馬鹿なの?!」
 焦点の定まらぬ目を中空に投げて、ただ熱と息苦しさとに力なく喘ぐ土方のその姿は、水槽から落ちて地面の上で跳ねていた金魚たちの様だった。あの金魚たちはどうしたのだったか。顛末まで考えたくなくて、銀時は激情の侭に怒鳴ると浴室へと飛び込んだ。浴槽に溜まった水を洗面器に掬うと頭から思いきり良く引っ被り、水を滴らせた侭取って返すと、陸に落ちた金魚を──否、ぐったりと倒れている人間を抱え上げる。水を浴びたぐらいでは体温が冷え切る程と言う訳にはいかないが、これで幾分マシな筈だ。
 脱力と水を吸った衣服の所為か、嫌に重たく感じる土方を抱えて銀時は風呂場に戻った。シャワーの冷水を全開にして、その水の下で浴室の床に下ろした土方の身体を揺さぶる。
 「オイ、起きろ!こんな所で寝てんじゃねェ、どんだけ寝相悪ィんだおめーは!」
 殆ど怒鳴り声と言っても良い銀時の大音声に、雨の様なシャワーに顔を叩かれていた土方の目元が数回痙攣する様に震え、やがて目蓋がのろのろと持ち上がる。
 薄く開かれたその狭間から、子供の様な寄る辺ない瞳が覗くと、銀時は土方の両肩を掴んでいた手からこわごわ力を抜いた。果たしてこれは、己の知る土方十四郎と言う男なのか。目の前で同じ様に水に打たれている男を、腐れ縁で喧嘩相手の坂田銀時だと認識出来ているのか。
 この数瞬の、裁定を待つ様な時間が恐ろしかったから避けようと決めたと言うのに、結局は夜飛び起きてこうして一緒に水まで被っている自分が何だか酷くどうしようもなく思えた。
 どうなっても、どんな関係でも、目の前でそれが損なわれて行くと言うのはやっぱり恐ろしい。だが、目の前に居なければ、知らない所で全てが終わって行くのだとしたら、それはもっと恐ろしかっただろう。
 思い知る、敗北感にも似た脱力の中で、銀時は水に冷やされ続ける手で慎重に、水に打たれている土方の額に触れた。指先で髪の間を滑る様に辿って耳の後ろ辺りでぐしゃりとずぶ濡れの黒髪を乱す。
 「よろず、や」
 そんな銀時の仕草をぼんやりと見上げていた土方がそう呼ぶのに、背筋が砕けそうになった。この虚脱に似た感覚を安堵と言うのだと知っている。
 全く、何て為体だと己を罵りながら、銀時は力なく笑う。
 「そーだよ、万事屋だよ。おめーさ、幾ら暇だからってあんま奇抜な事しだして人を心配させんのやめてくんない?」
 言葉はやんわりとした調子で放たれたが、相変わらずのぼやりとした眼差しで銀時やその周囲を暫しの間見つめていた土方はそれを叱責と取ったのか、「……あ、」と弱々しく呻くと目を伏せた。
 「……また、迷惑かけたみてぇで、すまねぇ」
 今は意識がはっきりとしているのか、それとも水から上がった事で気でも張ったのか、昼間よりは明瞭にそう言って寄越す土方の背を、銀時は軽い仕草でぽんと叩いた。実際はお互いに濡れ鼠なのでびしゃりと気の抜けた音と感触であったが。
 「迷惑だって解ってんなら、大人しくここに居りゃ良かっただろうが」
 呆れのはっきりと混じる声でそう言うと銀時はざあざあと頭上から降り注ぐ冷たい水のシャワーを見上げた。土方の行動も大概だが、それを然程に迷惑だとは思えていない己の心の変化にこそ呆れていた。
 「帰ろうと、おもったんだ」
 「……解ってるけど。そうしてやりてェのは山々だが、今直ぐにって訳にゃいかねーんだ」
 帰ろうと、したのか。
 それで、身の危険を感じながらもそれを厭わず水から出て行ったのだ。昼間見た時の様な、自分を明確に見失っていた土方の心はきっと本能的な焦燥に襲われ、居ても立っても居られなくなったのだろう。
 冷静な納得は同時に落胆をもたらした。銀時は胸に去来した小さく新鮮な痛みをそっと飲み込むと、土方の背に触れ起き上がる事を促した。この侭シャワーの下に居るより、水に満たされた浴槽に戻った方が良いだろう。
 促され立ち上がった土方は、浴槽の淵に手をつくと自らを支える様にして立つ銀時の事をまだぼやりと揺らぐ眼差しで見上げながら、熱い吐息と共に口を開く。その横顔は今までに銀時の見た土方のどんな様よりも草臥れ弱々しく見えた。
 「魚に、なっちまったみてぇで、怖かった」
 弱音だ、と銀時は思った。これは、こうして参っていなければ絶対に、この喧嘩相手の男が銀時に晒す筈など無かった姿だ、と。
 土方の自尊心を考えてやるなら、見なかった事に、訊かなかった事にしておくべきだ。この『らしくない』姿を、忘れてやるべきだ。
 そうしなければいつか何かが決定的に違えて仕舞う気がした。喧々囂々と忌憚なくぶつかり合うだけの関係に、それ以外の理由が生じてしまう。裡に抱えた何かが発芽し育って、苦しくなる。
 胸の下で沸き起こったそれにえぐみに似た味わいを憶えながら、銀時は安心でもさせる様に土方の肩を軽く叩いた。
 「多串くんじゃあるまいし、俺はデカい金魚飼ってるつもりなんざ無ェよ」
 「だから、俺は多串でも、金魚でも、無ぇって、」
 特に考えずにそう口にすれば、先程よりも明瞭になった声でそんな風に返り、そう言えば二度目に会った土方の事を思い出せなかった時、そうやって適当に呼んだのだったと、そんな事を不意に銀時は思い出した。
 だから金魚すくいの水槽の前で沖田にそうからかわれた時、土方は複雑そうな表情をしていたのだろう。金魚の水槽を前に、嫌な事を思い出したと考えていたのだろう。
 「……解ってら。おめーは人間で、真選組の鬼の副長やってる土方くんだよ」
 土方に嫌われていると決め込んでいたから、からかっては気を惹いて余計嫌われる。実に馬鹿馬鹿しい話だったと知れた気がして、銀時は呆れ混じりに嘆息しつつ、土方を水に満たされた浴槽へと戻した。
 (ガキかってんだよ、俺ァ…)
 嫌われているのだと思いながらも気を惹きたかった理由など知れている。気になる子に構いたくて、構われたくて、それで虐めたりからかったりするなんて、今時好きな女の子には初心なガキ大将だってやらないだろう。
 そんな己の行動は客観的に子供じみていて、馬鹿馬鹿しいとは思うのだが、今までまともな恋などした記憶は銀時には無かったので、では他にどうすれば良いのかと問いてみても全く答えが出て来そうもない。
 (しかも、この侭じゃ暫定恋愛対象は金魚みてェになっちまうかも知れねぇ、と来たもんだ)
 シャワーを浴槽のカランへと切り替えた所で、ふと銀時は件のナマズ天人の事を思い出した。ぶち撒けられた金魚の水槽の中に真っ裸で佇んでいたのだから、あいつは恐らくは土方の予想通り金魚に擬態し混じって水槽の中に潜んでいたのだろう。
 あれの目的は一体何なのか。土方に病気を伝染すだけ伝染して逃げた?
 然し、土方が水槽へと転がったのは銀時の癇癪の起こした全くの偶発的な事故だったのだ。つまり伝染させる対象として土方を狙ったと言う事は考えられない。かと言って仮に金魚として掬われ誰かの家で飼われたとして、その飼い主が水槽の水を口にする事などまず無い筈だ。そんな勝率の悪い悪戯をする為だけにあんな所に潜んでいたと言うのも余りに妙な話ではないか。
 土方がこの病気の様な症状を伝染された事そのものは明らかにあの時、偶然に因って起きた事だ。つまりあのナマズ天人が狙って誰か不特定多数に病気の様なものを伝染させようとしていたとは考え辛い。
 残した言葉は歓喜。
 渡せた。
 (………渡す、って事は、ひょっとしたら病気みたいな不特定多数への感染が可能なもんじゃなくて、鬼は最初から一人だけだったのかも知れねぇ)
 銀時の頭に閃いたのは、訊けば荒唐無稽としか言い様のない話だった。だが、今までにも魂が入れ替わったり性別が逆転したりドライバーになったりと、人智では説明出来ない様な理不尽な出来事を幾つも経験して来ているだけに、可能性としては全くゼロとは言えないと確信に似て思う。
 猫になった時の様に。ゴリラになった奴の様に。
 あのナマズ天人は、魚になるとか金魚になるとか、そう言った『呪い』の様なものを土方へと押しつけ──『渡し』たのではないだろうか、と。







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