カラの水槽 / 3



 久々に万事屋の呼び鈴が鳴った時、銀時の反応は然し冷ややかであった。読んでいた新聞から顔を起こす事三秒。逡巡の生じた時間も同じく三秒。議題は単純明快な一つ。出るか、出まいか。
 迷った挙げ句に銀時が選んだのは後者だった。何となく欠伸を噛み殺す仕草をしてから新聞へと視線を戻す。特に面白い記事など無かったので真剣に読んではいなかったが、先週のジャンプが合併号だったので流石に読み飽きており他に暇を潰せるものが手元に無かったのだ。
 向かいのソファに座っている神楽はTVで放映中のワイドショーを観ながら酢昆布を囓っており、こちらにも動く気配は無い。出なくて良いのかと問いさえ来ない。まあそうだろう。大概の場合、万事屋の呼び鈴が鳴ると言う事は碌な事にならないのが常だ。
 呼び鈴を鳴らす用事として一番可能性が高いのは階下の大家かその尖兵のネコミミ従業員か機械(からくり)従業員で、彼女らの用件は家賃の回収以外に有り得ない。
 だが、家賃はつい先日祭りで稼いだ金を、聡く嗅ぎつけたお登勢に因って取り立てられたばかりだ。金を取り立てる用事も無いのに大家らが呼び鈴を鳴らしに来る事はあるまい。
 暇を持て余した桂がふらりと訪れる事もあるが、こちらはよく黒い狗の群れを連れて来て迷惑以外の何者でも無いので、出ないのが正しい対応だ。とは言えこの呼び鈴は桂のものでは恐らく無い。桂であれば銀時の居留守と言う手段を悟っているので数秒と待たず呼び鈴を幾度も鳴らすからだ。
 後は飛脚と言う可能性もあるが、郵便も荷物も届く予定は無い。また、セールスの類は万事屋をわざわざ訊ねてなど来ない。
 と、なると可能性としては最も低いのだが、依頼人と言う線も有り得る。…かも知れない。
 そんな推論に行き当たった銀時は、今度は十秒少々悩んでから新聞を畳んだ。だが未だ立ち上がるには至らない。
 矢張り神楽に立ち上がったり動いたりする気配は無いが、ちらりとTVから外れた視線は、「出るアルか」とだけ銀時に問いかけて来ていた。まあ要するに面倒くさいし神楽には出る気は無いと言う事だ。新八が居たら動く気の無い銀時と神楽の代わりに出てくれるのだが、つい先頃買い物に出て行って仕舞っている。
 出る気が無い事については銀時も同意する所だったのだが、一度依頼人かも知れないなどと考えて仕舞うと気になってくる。逃した魚は大きいものになるかも知れないのだ。
 そんな銀時の躊躇いを後押ししたのは、タイミングよく鳴り響いた、二度目、最初の一回よりたっぷりと間を置いてからの呼び鈴の音だった。気になって仕舞ったのならいっそアタリでもハズレでも出た方が気も済むだろう。
 どこか捨て鉢な心地で、畳んだ新聞をテーブルに放り投げると、後頭部を引っ掻きながら銀時は廊下へと出た。磨り硝子の玄関戸の向こうには黒いシルエットが二つ見えた。さて一体何だろうかと思いながら三和土に降りてサンダルを突っかけながら戸を開く。内鍵など掛けていない。
 「はいはいどちらさん?」
 言った所で目の当たりにしたのは、余り歓迎したくはない顔ぶれだった。どう見た所で来客でも依頼人でも無い。
 どうやらハズレだったらしい。相手が挨拶の類を口にするより先に開き掛けた戸を閉めながら、
 「うちは新聞取らねーし国営放送も見てねーから」
 そう正しく門前払いの体を取ったのだが、銀時のそんな行動を果たして読んでいたのか、相手は戸の隙間に靴を差し入れながら閉まろうとする戸を両手で必死で押さえて抵抗して来た。
 「新聞でもテレビでも無いしおまけに宗教でも無いですから。ちょっと真剣な用事なんで、話だけでも聞いて貰えませんかね」
 一見してにこやかな声と表情ではあったが、銀時と戸一枚を挟んでの拮抗は流石に彼の力では堪えるのだろう、地味な顔は盛大に引きつっているし手足も、ついでに声もぶるぶると震えていた。もう何秒か凌げば、戸を閉めて彼ら招かれざる来客たちの姿を視界から締め出すのは容易そうだ。
 「……で、何の用な訳」
 だが、銀時がしたのは戸を閉める事ではなく、溜息混じりに戸を押さえていた手を緩める事であった。どうせこんな事をして逃げた所でしつこい警察の追求から逃れられるとは思っていない。職権乱用だとはつくづく思うが。
 完全には手は離さないが、取り敢えず無理矢理に閉めようとする力を抜く。不意に途切れた力の拮抗に山崎は寸時バランスを崩すが直ぐに持ち直した。てっきり勢いで転ぶぐらいは想像していたのだが。これもまた、何だかんだと言いつつ銀時が話には応じるだろうと見抜いていたと言う事なのだろうか。地味だがあれでなかなか油断のならない奴なのだとは銀時も知っている。重ね重ね言って、地味だが。
 「ですから、真剣な話ですって。ちょっと捜査への協力が必要って言いますか、その、副長の証言の裏付けを取りたいんですよ」
 「…おめーらの『真剣』な話って大概碌なもんじゃねェよな」
 「そう言わず」
 捜査協力、と言う言葉に銀時は目を細めて、手にしている紙袋を差し出す山崎のやや後方に、ずっと無言で佇んでいるもう一人の男の方へと視線を遣った。そこに居るのは証言の裏付けとやらを必要としているらしい張本人である所の土方の姿なのだが、その様子は銀時の常知るものとは少々異なっていた。
 土方と言う男は、まあ有り体に言って美男子(イケメン)である。華やかな類の風貌では決して無いが、顔の造作は同じ男として見るに嫌味なぐらいに整っている。残念ながらその造作に伴う目つきの鋭さと表情の硬さと無愛想な気配はどちらかと言えば人を遠ざける質のものなのだが、それさえも女性が観賞用として見るなら、クールだとか好意的なものと取られて仕舞うのだから全く世の中は不公平である。
 同性の銀時に言わせて貰えれば、こんなのは単なる目つきの悪いチンピラでしか無いのだが、生憎と顔の造作に因る補正と言うものは特に女性の間では、財布の中身や性格でさえ凌駕するものに時に成り得るらしい。尤も、異常なマヨネーズ癖だけはハードルが高すぎるらしいが。
 ともあれ、黙って立っていればモテる、そんな土方の硬質に整った顔面だが、今はその半分以上が白い布の下に隠れていた。白い、何の変哲も無さそうな布マスクで鼻の頭までをしっかりと覆って、鋭い目元だけが──否、珍しくもやや怠そうに見える目元だけがその上から覗いている。
 当然だがトレードマークの煙草も見当たらない。いつもご挨拶な口も何を言うでもなくマスクの下だ。銀時は訝しげにそんな土方の姿をじろじろと観察してから、山崎の差し出して来ていた紙袋の方を向いた。
 捜査協力、と言う言葉とほぼ同時に示されたそれは、有名な老舗の和菓子屋の銘の入った紙袋だ。そう大きくはないが結構にありそうな重量から、羊羹か何かだろうと銀時は見当付ける。要する所の、手土産と言う奴だ。それも、恐らくは逆の立場だったら賄賂と呼ばれる類の意味のある物。
 話を聞く、と言うだけで万事屋へとわざわざ警察が持って来る様な品物では断じて無いだろう。そんな義務も義理も関係性も無い。
 「ちょっと話を聞かせて貰いたいだけです。時間も取らせませんから」
 紋切り型な山崎の物言いに、嘘だな、と銀時は思ったが、まあ良いかと思い直して紙袋を受け取った。手土産まで周到に用意して来ているのだから、ただ一般人の善意の証言が欲しいと言うだけではあるまい。受け取った袋の重みは銀時からの『支払い』やそう言った態度を暗に期待したものだろう。それが高級な羊羹と等価かどうかなど知らないが。
 物に釣られた様で余り面白くはないが、二、三話をするだけで滅多にない高級品の羊羹を楽しめると思えばそれはそれで悪くない。どうせ依頼は無いし暇でもあった所だ。家賃も滞納分を払った(払わされた)ばかりで懐具合も温かくは無いのだ、手土産は有り難く頂戴して仕舞おう。
 それに、風邪でも引いているのか、妙に静かな土方の様子も少々気に掛かった。興味本位、と言うには面白味が無い筈の対象だが、暇潰しにでも足りるなら構うまい。
 己で納得の行く結論に落ち着くと、紙袋を肩に担いで銀時は戸を足で軽く蹴って開いた。
 「ま、入れば?」
 手土産の意味からしても、室内で密かにしたい話の内容である筈だ。銀時がそう促せば、山崎は軽く頭を下げる仕草をしてから、土方を先に万事屋の玄関に通して自ら戸を閉じた。
 
 *
 
 「新八今いねェし、茶は出ねェから」
 取り敢えず客として居間に通しながら、全く客として扱う気の無い宣言は忘れず言うと、銀時は台所へと向かった。紙袋の中身が矢張り羊羹である事を確認すると紙袋ごと冷蔵庫へと仕舞う。真空パックのものではないのか賞味期限が少々近いのが気にはなったが、なかなか食いでのありそうな栗羊羹だ。
 後で茶を淹れて味わおう、と決め込みながら居間へと戻ると、土方と山崎は特に勧められるでもなくソファに座って待っていた。向かいでは神楽がだらけた様子で酢昆布を囓っている。こちらも客として持て成す様な殊勝な気は到底無かったらしい。万事屋として教育方針が一応間違ってはいなかったと言う事だろうかと、埒もなくどうでも良い事を考えながら、銀時は点けっぱなしだったTVを消して社長椅子の方に座った。神楽が客人の向かいにあるソファの真ん中を陣取っていた為座る場所が他に無かったのである。
 耳を軽く小指でほじってから、銀時は机の上に肘をついた。「で、何だって?」そうぞんざいな調子で促せば、山崎はまるきり客扱いも歓迎もされていない現状にも銀時の態度にも特に異を唱えるつもりは無いのか、手帳の様なものを取り出すといきなり本題から入った。
 「二日前の縁日での件なんですが、金魚すくいの屋台をやっていたそうですね?」
 「やってたけど、〜あのな、だからやましい事なんか今回はしてねェって」
 またゴキブリストーカーの時の事を混ぜっ返されるのかと思い、銀時は殊更に煩わしげな態度で大きく溜息をつくとかぶりを振って、心外だと示す。詐欺紛いの露店と言う意味では訴えられてもおかしくない様な事はやらかしたが、被害者である所の近藤の側にも下心を持ったゴキブリストーカーと言う負い目があるのだからお互い様と言った所だろう。それにそもそも今回の露店では本当に妙な事は何一つしていないのだ。責められる謂われは無い…筈だ。
 然し銀時のそんな猜疑心に、山崎は「そうじゃないです」とあっさりとした調子で手を振った。続ける。
 「その時に副長と会いましたよね?で、旦那は金魚すくいの屋台の店番をしていた。ここまで間違いは?」
 「無ェけど…」
 詳細に思い起こそうとする迄もなく、水槽にどこぞの警察官が填った為に屋台の元締めから、商品である金魚の弁償として金を要求された記憶は新しくそして苦々しい。
 件の、水槽に転んだ張本人の様子を伺ってみるが、土方は特に口出しもせずに無言で座っていた。銀時の知る所の土方の為人であれば、渋面を浮かべるなり睨み付けて来るなりしそうな所なのだが。矢張り具合でも悪いのだろうかと眉を寄せる銀時へと、手帳を捲った山崎が続ける。
 「で、金魚すくいの屋台の番を旦那に──と言うか万事屋に依頼したのは大江戸縁日振興会。これも確かですか?」
 「調査済みじゃねーか」
 問いと言うより本当に確認の為の遣り取りの様だ。
 大江戸縁日振興会、などと言うと非常に真っ当な集団の様な印象だが、その実体はまあ所謂ところのテキ屋である。かぶき町含めヤクザにはそう言った生業を副業としている者らも珍しくないのだ。
 ともあれ夜店の元締めを辿ればそう言った稼業の連中である事など、半ば暗黙の了解の様なものだ。かぶき町と言う場所柄ならば猶更のことだろう。銀時は鼻を鳴らして肩を竦める事で応じた。町の自治会も同心も目を瞑っている事なのだから、万事屋だけが文句を言われなければならない筋合いは無い。
 「後は、金魚の売り上げはどうです?お金じゃなくて、何人のお客さんに金魚を渡したかって意味ですけど」
 「生憎と、全く売れてねェよ。ただでさえ閑古鳥だったってのに、どっかの副長さんがトラブル起こしてくれたんでね」
 転ばせたのは己に非があるが、とは口にしない。どの道この銀時の言い種に土方が反論すればそれで済む。
 だが銀時の予想に反して土方が反論や訂正の言葉を寄越す事は無かった。マスクで見えない部分でどんな表情をしているのかは全く知れないが、取り敢えず口は挟まない。
 「じゃあ、金魚の入手先とか解りますか?どう言う風に運搬されて来たのかとか、そう言った話で結構ですんで」
 山崎も特にその部分に頓着するでもなく問いを続けて来たので、銀時は考える素振りで眉を寄せた。反論や嫌味の類ぐらい、土方か山崎かのどちらかが口にしてもおかしくなさそうだと思っていたのだが、今のところそう言った反応は全く返って来ていない。
 矢張り山崎はともかく土方が不調の状態にある事は間違いがなさそうだが、取り敢えずそれは今は気にしない方が良いだろうし、気にする必要も恐らくは無いだろう。
 「んー…?普通にトラックで、ビニール袋詰めの金魚を運んで来てただけだったんじゃねェかな?まさか車のナンバーまで流石に訊きやしねェよな?」
 「憶えてるのなら訊きたい所ですけどね」
 どうせ憶えてなどいない、と暗に言うと、銀時は反抗的な気持ちも手伝ってほじった鼻くそを投げつける様な仕草を向けた。だが山崎はそれには反応せず、手帳に鉛筆を走らせてから嘆息した。どうやら余り実になる成果とは言えないのか、その表情は冴えない侭だ。
 「万事屋」
 そこに口を挟んで来たのは、ずっと無言でいた土方だった。てっきり置物か何かかと思った、と混ぜっ返そうとした口を噤んで、銀時は「何」と短く応じた。マスク越しの少しくぐもった土方の声には、何と言うか常ある様な張りや溌剌としたものを感じられない。特に気にしたくなくとも、矢張り具合が悪いのだろうと強く確信せざるを得ない様な、そんな声だった。
 「ナマズみてェな面した、天人か何か、居たろ。アレについて、てめぇは何か知らねェか」
 問いの内容は平常営業の様だが、つっかえる様に妙にゆっくりと、もしくは億劫そうにそう紡がれて、銀時は「あー、」と呻いた。別に考える程の答えなど持たないのだが、どうにも土方のそんな様子に調子を狂わされる。
 「俺には心当たりは悪ィが無ェよ。多分おめーと同じ程度の事しか解らねェし記憶にも無ェ」
 「……そうか」
 「そうですか……」
 銀時の解答に、明かに落胆したと言った風に土方と山崎とはほぼ同時に言って肩を落とした。これもまた実になる成果にならないのだろうと察しはしたが、かと言って銀時が幾ら記憶を手繰ってみた所で何か別の答えや可能性が出て来る筈も無い。何か知らないけど力になれなくて悪ィね、とは口にせず首だけを竦めておく。
 ……つもりだったのだが。
 「何、そのナマズが犯罪者か何かだったとか?」
 つい、そう口にして仕舞ってから銀時は己を罵倒した。これだとまるで首を突っ込みたいと言わんばかりの態度ではないか。
 羊羹だけ貰って追い返す気満々だった先頃までの心地を思えば、何故そんな無駄な問いを投げて仕舞ったのか己の事ながら理解に苦しむ。ちら、と躊躇いがちに銀時の方に視線を投げて来る山崎の目に解り易い葛藤や縋る色を見つけた事で、余計に後悔の様なものが胸の底から沸き起こってくるのだが。
 「……一応、他言無用でお願いしたいんですが…、」
 案の定か縋る藁に躊躇いがちながらも手が伸びて来た。他言無用、と言う言葉に余り良い予感はしないと言うのが正直な所だが、手土産の栗羊羹にはそこまで含まれていたのかも知れないと、不意にそう気付いた銀時は腹をくくる事にした。
 それに、ここまで来たらもう世間話と言うより依頼の様なものだ。







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