カラの水槽 / 4



 取り敢えず話がし辛かったので、神楽に横にずれる様仕草で促しながら、銀時は迷惑な客人から歓迎しかねる依頼人に転じそうな雰囲気の真選組副長と監察の向かいに移動した。
 栗羊羹の一本程度に釣られた訳では断じてなく、乗りかかった船の様なものだ、と口中で幾度か咀嚼してから、それを飲み込めないのを半ば諦めに似た心地で感じつつ、背を丸めて頬杖をつく。
 「他言無用ってな、穏やかな話じゃなさそうだけど?」
 そう、銀時は余り乗り気では無い態度は隠さず問いを投げた。
 「……まぁ、穏やかじゃないのは間違いないですね」
 返るのは柔い苦笑いと少し潜めた声。単に銀時が声の届き易い位置に移動したからと言うだけかも知れないが。
 どの道その声音の調子から感じたのは、山崎がその『穏やかではない』らしい話を、ああは言ったものの口にして良いものか若干考えたらしい気配であった。
 それが、縋る藁を求めてはいたものの、果たして世間話の様に『他言無用』且つ『穏やかではない』話を口にして良いのかと言う躊躇いなのかは知れないが、ともあれ山崎は若干の間を置いてから膝の上で落ちつかなさげに手を組むと重たそうな口を開いた。
 「実は、そのナマズ男が地球には無い病気の保菌者(キャリアー)と言う可能性があるんです」
 「…そりゃまた」
 重たい言葉に対する返答は銀時の口からぽろりと軽くこぼれ落ちた。言葉だけなら単なる相槌だったが、それ以上の理解を含む事を示して視線を流せば、山崎は己の感情に正直に眉をハの字に寄せた。今更隠し立てしても無駄だろうと言う諦念が見え隠れするその表情や態度から、銀時は一連の流れに合点を得る。
 口止め料も含んだ手土産。大した情報が得られるとも知れない万事屋に話を訊きに来る程の窮状。そして縋る藁も必要なのだろう事態の渦中に居たのは。
 「本当は外に出るべきじゃねェんじゃねーの?」
 言って銀時は視線の先、マスクに覆われた下で恐らくは怠そうな表情を作っているのだろう土方を見遣って厄除けの仕草をした。すれば山崎がすかさずぶんぶんとかぶりを振る。
 「皮膚接触で伝染る類のものでは無いと既に明かですから平気です。空気感染も恐らく無いんですが、まあマスクは念の為と欺く為です。これならちょっと怠そうにしていても風邪程度にしか見えないでしょ?」
 そこで一旦言葉を切ると、山崎は無言で座っている土方の方をちらりと態とらしく伺う様な素振りをしてみせた。小声で、「こうでもしないと煙草も止めてくれませんし」と悪戯を仕掛ける子供の様に言うなり、土方に思いきり睨まれる。背中を向けているとは言え山崎がそれに気付いていないと言う事もないだろうが。これも地味なりの場を和ませる冗談なのかも知れない。銀時も曖昧に苦笑を返した。
 日頃何かと命を狙われがち、恨みを買いがちな真選組副長が得体の知れない病気に罹った、とは確かに知られては問題のある話だ。それで手土産まで携えた他言無用の話となる訳だ。
 「旦那曰くのトラブルですが──水槽に転倒した際に副長は水槽の水を口にしたと思われます。もしも件のナマズ男が、例えば金魚にでも擬態して水槽の中に居たのだとしたら、そこからその…、ウィルス的なものに感染したと考えるのが、今のところ一番自然なんじゃないかと言う結論です」
 「金魚を売ってたてめぇの所にも、感染してる可能性があると危ぶまれたんでな。証言を取るついでに、まあ様子を見に来た訳なんだが……、その様子なら問題なさそうだな」
 部下の言葉に続けて土方はそう言うと、はあ、と音に出して溜息をついて天井を仰いだ。仕草も声も重たく、相当に怠そうな様子だ。一応今までは体調不良を気取られない様気を張っていたらしい。銀時の観察眼では、よく見なくともバレバレだったが。
 「マヨラー、病気アルか。こんな所にいないでとっとと帰って寝るのが一番アルよ」
 母親を病で亡くしているらしい背景のある神楽が、真選組に対するには珍しい気遣いの様な言葉を投げる。単にそろそろ来客を追い払いたいと言う気持ちも含まれていたかも知れないが、一応は心配に類する言葉を投げられた事でか、土方は意外そうな顔をしながらも「そうだな」とこちらも珍しく素直にそう頷いた。
 「病気って、程度はどんなよ?」
 証言も記憶も役に立たないのにただ追い返すのも気が退けて、銀時は一応お愛想程度にそう訊いてみる。すると山崎は手をひょいと伸ばして土方の前髪をめくってみせた。重たげに長めの前髪が避けられたその下、晒された額にはマスクと同じく白いものが貼ってあるのが見えた。多分よく薬局で売っている冷却シートだろう。
 「ただ熱が異常に高くなると言う症状が出ています。明かに地球の症例では知られていないものなので、そちらは現在調査中です。副長のこの隊服も真夏用に開発中の、冷感を保つ素材のものを裏地に使っているし、冷却剤も臨時で縫いつけてあるんですが、それでもドン引きするぐらいの放熱なんですよ」
 心配しているのか呆れているのか、よく解らない言い種で銀時に説明を返す山崎の手を思い出した様にぱしりとはたき落とすと、土方は乱れた前髪を軽く手で整えて、冷却シートを隠しながら言う。
 「まだ動けねェ程じゃねぇから、今の内にてめぇが何か見てないか、知らねェか訊いておきたかったんだが、仕方無ェ」
 「…で、ついでに心配もして下さったと」
 「……まぁそれが義務だしな」
 少しからかう様に言ってみると、ふ、と息を吐いて、漸く常の様な調子でシニカルにそう返すと土方はふらりと立ち上がり、山崎が慌てた様にその支えに回る。
 土方が今まで余計な事を口にしなかったのも、嫌味の一つさえ投げなかったのも、感染源と疑わしき金魚の屋台に触れているだろう銀時にも、件の病気とやらの感染被害を受けている可能性があったからだろうかと、銀時はそう思った。つまりは負い目か義務感かが、体調不良に加算されて土方の口を余計に重くしていたのでは無いか。
 「一応、てめぇらも注意した方が良い。町でもしもナマズ男を発見しても迂闊に近付くな。真選組(うち)に通報してくれ。あと同じ様な病気の疑いの話を訊いた時にも」
 警察らしい口調を辛うじて保ってそう言うと、土方は用は済んだとばかりにふらふらと居間から出て行こうとする。玄関ぐらいまでは様子を見送った方が良いかと思って銀時が立ち上がってそれに続けば、神楽もその後について来る。
 「ねぇねぇ銀ちゃん、ナマズってどんなのアルか」
 「何、おめー知らねぇの?地震起こすアレだよアレ。後で絵でも描いてやっから」
 言いながら、先日のナマズ男の姿を思い出してみようと銀時は記憶を巡らせてみた。人相と言えば人相だが、やはりどちらかと言えばナマズだった。果たしてナマズ顔の人間(天人)なのか、人間ぽい顔のナマズなのか。
 ともあれ、病気だか何だかを持っているのであれば迂闊に近付くべきではないのは確かだろう。土方の様子を見る限り、症状は余り良さそうとは言えない。
 地球に無い感染症だとしたら、保菌者であると予想されるナマズ男を捕まえてワクチンを作る以外に治る見込みは低いだろう。命に関わりがある程に酷いものだとしたら、時間にも余裕が無いし、何より感染源を町に野放しにする事で更なる被害者が出ても困る。つまりは一刻も早くナマズ男の確保が望まれると言う事だ。
 そんな厄介な病気に罹ったらしい土方は、ふらふらと廊下に出た所で遂にがくりと膝を崩した。横で土方のふらつく身体を支えていた山崎が慌てて手を伸ばし、近くに居た銀時もそれに倣って何とか揃って支えてやる事で床に倒れ込むのを防ぐ。
 (って、)
 支えるのに伸ばした手の触れた背が、腕が、衣服越しだと言うのに異常な程の熱を持っている事に気付き、銀時は思わずぎょっと目を剥いた。熱が異常に高いとは確かに言われたが、布越しでこれでは、実際皮膚はどうなのだろうか。だが疑問が過ぎれど不用意に触れるのは躊躇われた。熱すぎる事ぐらいは想像に易い。そうなれば否応無しにその身を案じて仕舞う。
 銀時と山崎とに支えられて辛うじて床に転がる事は避けた土方だったが、立てないのか僅かに膝を震わせて苦しげな表情を作っている。山崎の方を見ればアイコンタクトで促され、銀時は土方をその場に取り敢えず座らせた。
 「オイ、これもう救急車とか呼んだ方が」
 「駄目だ、目立つ、訳には」
 怠そうにかぶりを振る土方。日頃から命を狙われたりする身にとっては、救急車で運ばれる程に調子が悪いと言う事実が広まって良いはずは確かに無いのだが。その理屈は解るのだが。
 「水お借りします」
 短く言って立ち上がった山崎が台所に飛び込んで行くと、程なくしてコップに水を入れて帰って来る。勝手知ったる何とやらだが、咎めている状況でも無い。
 渡されたコップの水を受け取るなりマスクを毟り取って一気飲みして、それでも辛そうに土方はぐったりと壁に寄り掛かった。その様子から、動くのは容易ではないと判断したのか、山崎は再び立ち上がると携帯電話を取り出した。
 「旦那、すみません。すぐに車回して貰いますんで」
 携帯電話を耳に当てて居間の方へ歩いて行く山崎の背を見送ってから、銀時は壁にぐたりと寄り掛かっている土方の、冷却シートに覆われた額に軽く触れてみた。と、矢張り熱い。想像以上に。
 「…大丈夫か?」
 大丈夫には見えなかったが一応訊いてみれば、土方は薄く目を開いて酷く熱い溜息を吐き出した。酷い熱だと言うのにどう言った訳か汗一つかいていないのが余計に辛そうだ。
 普通は上がり過ぎた体温を下げる為の身体の反応で汗をかくのだが、その機能さえも働いていないとはどう言う事なのか。
 「水でも被りてェ気分だ」
 「…成程?」
 一応まだ冗談を飛ばす元気はあるらしい。冗談と言うか本気も少々混じっている気はしたが。がくりと項垂れると熱い呼吸を繰り返す土方の様子を暫くまじまじと見ていた神楽だったが、「水持って来るアルよ」と言うなり水場へと小走りに駆けて行った。やはり目の前で倒れそうになっている人間が居れば誰だって気を遣うか、とぼんやりとそんな事を考えながら、銀時はなかなか終わらない電話の声を背中に聞いている土方の様子を見る。手も視線もどうにも行き場が無かったのだ。
 こんな体調であっても黒い隊服には感心な事にも殆ど乱れが無い。暑い──熱いのなら上着を脱いだ方が良いんじゃないか、と思うが、普通の上着と異なった保冷効果のあるものを着ているとか言っていた様な、と思い出せば矢張りまたする事も見るものも無くなる。
 (神楽はどうしたんだよ、水ぐらいでやけに時間が、)
 間が保たない、と痛感しながら銀時が水場の方へと視線を向けると、丁度神楽がそこから廊下に出て来た。遅ェぞ、と言いかけた銀時はそこでまたしても目を剥く羽目になった。水場から出て来たのは確かに見覚えのある神楽の姿なのだが、その両手が頭上に掲げ持っているのは、恐らくは水をたっぷりと張った大きなバケツ。
 「ちょ、神楽ちゃんん?それどうするつもりかな?」
 「水かぶりたいなら遠慮はいらないアル」
 その時夜兎の少女の顔にあったのは紛れもない善意の感情だけだったと思う。寧ろ思いたい。細い腕が平然と持ち上げているのは掃除に使っている大きめのプラスチックのバケツ。水がたっぷりと満たされていたら10リットルは入っている筈だ。
 「待って、そんな水沢山いらねーから!一杯で良いの!コップに一杯!ちょっと、土方くんも何とか言ってやって!」
 「一杯って事に代わりは無いネ」
 泡を食って銀時はバケツを傾けようとする神楽を制止するが、逃げるより、或いは説得するよりも、土方とその直ぐ横に居た銀時の頭上へとバケツの中身が盛大にぶち撒けられる方が早かった。
 室内で大凡耳にするものとは思えない盛大な水音と共に、二人の人間と廊下とは当然の様にずぶ濡れになる。銀時は拳を固めながら「かーぐらちゃぁぁん」と恨みがましい声を上げるが、当の神楽は頓着した風でもなくバケツをぽいとその辺に適当に置いてからのドヤ顔だ。
 「…あ。少し楽になった気がする」
 そんな神楽のやってのけた表情を後押しでもする様に、土方がずぶ濡れの侭でぽつりとそう呟く。確かに全身熱くて堪らない所に水など被せられれば一瞬は心地よいかも知れないが!
 びしょ濡れの廊下や自分たちを思って、銀時は声にならぬ声で苛々と叫んで濡れた頭髪をぐしゃりと引っ掻いた。一体誰がこの水浸しの惨状を片付けると言うのか。三日前にも金魚の水槽を前に似た様な事をやらかしたばかりで、妙な既視感がある。
 取り敢えず濡れ鼠の侭でいる訳にも行かない。「立てるか?」と言い置いてから腕を引けば、土方は膝を寸時震わせたもののすんなりとその場に立ち上がった。水を被った事で少し楽になったと言うのは間違い無いらしいが、やりようと言うものがあるだろう。廊下は木の板張りだ。染みが残るなり傷むなりする様だったら真選組に請求してやろうと考えながら、銀時は土方を風呂場へと連れて行った。ずぶ濡れの侭で廊下に立たせておいても被害が酷くなる一方だ。
 浴槽の蓋が開いていたので、風呂場に土方を立たせる。恐らく神楽がバケツを突っ込んで水を汲んでいったからだろう。浴槽の淵に座らせたりして、落ちて溺れたなんて言われたら流石に笑えない。
 銀時は脱衣所に一人出ると、びしょ濡れの着流しを脱いで脱衣籠へと放り込んだ。まずはタオルと、必要ならば着替えも用意しなければならない。
 土方は取り敢えず風呂場に置いておけばこれ以上床に被害は出ないが、銀時はそうもいかない。タオルやら着替えやらを探しに行くのには風呂場に突っ立った侭で出来る訳もないのだ。
 銀時が、濡れた身体で出来るだけ部屋に被害無く戻って着替えやらを持って来る方法を、と算段を立てていると、されるが侭に連れられその場に水を滴らせながら突っ立っていた土方が不意に口を開いた。
 「おい、これ水か」
 「?ああ、昨日入れて今日沸かし湯だから水風呂に決まってんだろーが」
 ついトゲトゲとした口調になって仕舞う事に気付いて銀時はかぶりを振る。家ごと水浸しにしてくれたのは神楽だが、その原因は土方にある。とは言え、今の万全な状態ではない彼に八つ当たりをした所で仕様がない。
 確かこの辺りに贈答用のタオルが何枚か仕舞ってあった筈だと思い、銀時は脱衣所の戸棚を覗き込んだ。すればそこには狙い通り、熨斗紙が巻かれた侭の予備の湯上げタオルが入っていた。町内会で貰ったものだったかお登勢から分けて貰ったものだったかは憶えていないが、余り覚えのない店名の印刷されたタオルの封をばりばりと開けて拡げる。
 と。
 ざぶり、と言う嫌な音を聞きつけて、銀時は風呂場を慌てて振り返った。例えば、風呂場に立たせておいた病人がふらついて浴槽に落ちたとかそう言う音に聞こえたのだ。
 「………」
 果たして、振り返り見た先にあったのはそんな想像とは余り違えていない光景であった。より正確に描写するのであれば、湯船に肩まで浸かって暖まっている人の姿、にしか一見見えない、水風呂に浸かった人の姿。『水』風呂である点と衣服を着た侭と言う点さえ除けば別段おかしなものでは無い。
 ……つまりは、おかしいと言う事だ。
 「オイィィ!?何やってんのお前!」
 「やっと楽になった…」
 隊服を着込んだ侭、顎先まで水に浸かった土方は、両手で水を掬うとそれで顔をばしゃりと濡らして大きく息を吐いた。繰り返すが、服を着ていなければ、水風呂でなければ、全く以てごく普通の光景にも見えただろう。
 泡を食うのを最早通り越して喚く銀時をちらりと見上げて、土方は水の中で申し訳なさそうな様子で肩を竦めた。銀時なりに翻訳するのであれば、「まあ許せ」と言った所だろうか。ごめんなさい、と言う殊勝な言葉は大凡普段の土方からは想像もつかない。
 「旦那?廊下水浸しですが一体何して…、って、ふくちょ、何やってんですかアンタ!」
 電話を終えたのか、風呂場の騒ぎを覗き込んだ山崎が悲鳴めいた素っ頓狂な呆れ声を上げる。土方は唇を尖らせながらそんな部下に対して、「仕方ねェだろ、熱いんだから」と言った言葉を並べると水に再び顔を半分沈めて目を閉じた。
 今にも眠りそうに安らいでいるのは結構な事だ。衣服の侭で水風呂、しかも他人の家、と言う全てを取り除く事が出来るのならば、それは何処までも普通の光景でしかなかったのだが。
 片付ける気も文句を言う来も失せて、銀時は脱衣所で肩をがくりと落とした。
 「ほら、水かけて正解だったアルよ」
 その横で神楽がぽつりとそう悪びれた風でもなく呟いたので、銀時は無言でその頭にこつりと拳を落としておいた。







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