カラの水槽 / 5 例えば、台風の日に緊急の出動要請がかかった時はどうだっただろうか。冷たい風雨に叩かれる中、身に纏った隊服の撥水効果など全く役に立たないと思いながら、濡れ鼠になって立ち働いていた憶えはある。濡れた衣服に動きが阻害されて苦労もしたが、何より濡れている事自体が不快だった。 雨の日にずぶ濡れで立っている想像も、矢張り衣服が濡れていたらそれだけで不快なものだと思えた。泳ぐ時なんて不快以前に衣服があるとその重さと動きづらさで溺れかねない。 それはそうだろう、人は基本的に水の外で生きているものだ。文明人なら猶更、水に入る時には相応の恰好をするなり服を脱ぐなりするのが普通だろう。 動きにくいから。冷たいから。重たいから。そんな理由で人は服を着用した侭水には普通入らない。 だが、今の土方には衣服を脱ごうと言う思考は浮かばなかった。正確には、脱ぐべきなのかと考えはしたのだが、必要は無いと自らの裡から自然と答えが出た。思いもつかなかった事をわざわざ考えてまで否定したのだから、恐らくそれは感覚的なものとして正しいのだろうと思う。 人の常識や認識として正しくなくとも、土方自身の感覚はそう感じていたと言う事だ。水の中だが衣服を脱ぐ必要など無いと。 不思議だとは思う。雨の日のあの、布が身体にまとわりついて重たい不快感は確かに変わらずあると言うのに、それを脱ぐのは不自然だとさえ思える。まるで始めから水の中で服を着て生活していたかの様に。 (それ以前に、水の中から出るって選択肢が無ェのが、な) 己の事ながら妙に客観的に、呆れとも納得ともつかぬ侭にそう判じて、土方は狭い浴槽の中で座っていた尻を滑らせて力を抜いた。じゃぶ、と後頭部が水に浸かる感触がまた心地よく感じられて目を閉じる。 風呂の残り湯と言っていたから、水自体綺麗とは到底言えないものの筈で、しかも蛇口をひねって出て来る冷えた水よりも幾分水温も高い。それでも、そんなものでも、乾いた空気の下に晒されているよりマシだと思った。水の中に浸されていると言う事そのものが、安堵としか言い様の無い感覚をもたらしている。 体温が熱いのだから、水浸しになって冷えて気持ちが良いと言うのは利に適っているし良いだろう、と何処か投げ遣りに考える。水から上がる事を考えるだけで思考が億劫になっているのだ。自らが全面的に賛成するのであれば最早ひとりきりの身のどこにも反対する余地があろう筈もない。 然し山崎は土方と意見が珍しくも違えていたらしく、土方が水から上がれぬ事を理解するなり、「今後の事を含めて局長に相談して来ます」と言って土方を残して出て行って仕舞った。まあそろそろ血液検査の結果なども出ている筈だから丁度良い頃と言うのもあったのだろう。 この水風呂のある家の主は、やや不満そうにしながらも何やら山崎と話をつけたらしい。土方が水から無理矢理に出されると言う事も無く、漬けられた侭で置かれているのだから、余程金払いの良い約束でも取り付けたに違いない。 土方は、何かにつけて沖田と一緒になって己をからかったり攻撃したりして来る銀時の事が苦手だった。 元々己が余り人好きのする性格では無いのも手伝って、沖田の様に昔からの付き合いだとか上司と部下だとかそう言った関係性も無いのに、図々しく人を小馬鹿にする男の事など気に食わない存在としか思えなかった。 そしてそれが銀時の側から見ても同じ様なものなのだろうとも解っていた。そう思えば、銀時のこの、僅かな時間とは言え土方を自らの家の水風呂に置いた侭にすると言う決断は、相当に苦くつまらないものとなった筈だ。人は存外に己のテリトリーに他人を易々入れる事を許さない。況してそれが折り合いの悪い相手ならば猶更だ。 迷惑を掛けているのは事実だ。故にそれに対しては申し訳なく感じている。それは間違いない。 (………でも、) ささやかな呟きが泡になって弾ける。窮屈な水の中に融けた億劫な思考は、紡ぐ筈だった言葉を次の瞬間には頭から取り去って仕舞う。見えざる奈辺に向けて伸ばした筈の手は重たく水中に沈んだ侭動いていない。 融けていく様だ、と土方の覚束なくなった思考は平淡に思う。高熱を出して眠った記憶などここ最近の己の記憶にはとんと無いが、例えば幼い頃とかには矢張りこんな風に思いながら夢現を揺蕩っていただろうか。 動かない身体と拡がっては霧散するだけの頼りない意識。さみしい、と言う原始的な感覚が脳の奥にぽつりと涌くのを嘲って、土方はそれ程冷たくはない水の中で力を抜いた。喘ぐ様に息をこぼす。 熱くて、狭くて、苦しい。 だが、ここから出たらもっと苦しい。 恐らくそう感じる事は普通とは言えないのだろうと、殊更に己を客観視して思うが、同時にそれに対して抗い様が無い事に途方に暮れた。 * 暫くして買い物から帰って来た新八はまず水浸しの廊下の惨状に悲鳴を上げて、事情を訊くなり銀時へと無言で雑巾を手渡して寄越した。水をぶち撒けた下手人は神楽なのだが、その当人は先程の騒ぎなど素知らぬ風でドラマの再放送に熱中している。邪魔をしようものなら漏れなく現実でもサスペンスが始まってしまう。 仕方なしに、受け取った雑巾を指先でくるくると回しながら銀時は廊下へ出た。暑い日では無いから水気は乾いておらず、廊下にはまだそこかしこに小さな水溜まりが出来ている。そこに乾いて固まった雑巾をぽいと放ると水分を吸い取るのを黙って待つ。 水分を吸ってしんなりとした雑巾から水がこぼれない様に拾い上げると、廊下に置きっぱなしになっていた空のバケツの上で絞る。そうしたら再び濡れた廊下に雑巾を放る。幾度かそれを繰り返し、粗方の水が無くなった所で雑巾をバケツに投げ入れ、銀時はそれを持って風呂場へ向かった。廊下の板には盛大な滲みが出来ていたが、これ以上は雑巾一枚で対処出来る事ではない。 風呂場の扉は何かあった時の為を思い開け放しにしてある。雑巾を絞ってバケツの中に溜まった水をこぼして、一仕事終えた銀時は出来る限り視界に入れない様に努めていた浴槽の方へとちらりと視線を投げた。どんなに目を逸らそうが視界に入る狭さの風呂場では元より回避など出来る筈もないのだが。 浴槽は昨晩の風呂の残り湯で満たされている。恐らくは万事屋であっても余所の家であっても、昼間だからすっかりと冷めて殆ど水になっているそんな中に浸かる人間など本来ならばいない筈だ。 …筈、なのだが、何度見直した所で、真っ黒い隊服ごとその中にどっぷりと沈み込んでいる人間の姿が消えて仕舞う様な事は無い。 「………」 水死体一歩手前の様な姿で、余り広いとは言えない浴槽の中に座って天を仰ぐ土方の目は閉ざされてぴくりとも開く気配は無く、銀時の遠慮がちな注視にいつもの様に睨み返して来る事も無かった。 つい先程の事だ。山崎が呼びつけた車輌──見て解る警察車輌ではなく覆面だった──が万事屋の前に到着したと言う事で、銀時は彼と二人がかりで水風呂から引き揚げた土方を引き摺って玄関まで運ぼうとした。 ……の、だが、土方の様子はまるきり自分の足で歩けそうもない状態にまで悪化しており、触れてみたら熱も尋常ではない程に上がっていた。そんな熱の所為でか土方は身体どころか頭の回転数まで衰えて仕舞ったらしく、『真選組の屯所に戻らなければならない』──具合が悪いから家に帰るべきだ、と言うごく当たり前の目的意識さえ稀薄になっており、自発的に前にさえ進めないと言う有り様だった。 そうなると最早、引き摺って車に乗せればなんとかなると言った状況では既に無くなっていた。 少なくとも車輌にさえ乗せて仕舞えば銀時としては解決と言えたのだが、真選組側としてはそうも行かないと判断したらしく、山崎は「申し訳ないんですが…」と言い辛そうにしながらも、万事屋の水風呂に一旦土方を預けさせて欲しい、と願い出て来たのだった。 確かに、今の土方の熱では氷でも抱えていないと、とても普通の車輌に乗って移動など出来ないだろう。それは解るが。 取り敢えず屯所に戻って対策を相談する間だけでもと重ねて頼まれ、銀時は水浸しになった床に修理の必要が生じた時の金払いを約束させる事で、水風呂を貸す頼みを承諾する事にした。 そんな取引の間も、張本人である筈の土方は水風呂に半分浸かってぐったりと浴槽に凭れていた。最早意識を喪失していると言っても良い状態だ。ほんの僅か、風呂場から玄関までにさえ至らない距離を引き摺っただけでこの様子ではお手上げである。 水に浸かっていないと暑くて堪らない程の熱と言うのはどんなものなのか、銀時には想像など幾ら考えた所でつきそうもないのだが、あの、銀時としょっちゅう言い合いや喧嘩の絶えなかった土方がこうまで苦しげにしていると少々やり辛い、と言うか気まずい。 まあ少しの間だし我慢するか、と銀時が嘆息したのが少し前の話になる。 それから一時間程度が経過したが、土方は水風呂に浸かった侭文句一つ口にせず喧嘩の口火を切りそうな言動一つ放とうとはしない。と、言うよりそんな気力さえも涌かない程にぐったりとし続けていた。一旦屯所に単身戻った山崎からの連絡待ちで、何もする事が無いからと言うのもあるのだろうが、こうして土方のお陰で水浸しになった廊下の後始末などさせられている銀時から見ると、実に良いご身分様である。 常ならば重たげに額にかかっている前髪は除けられており、顕わになっている額に貼られていた冷却シートは水に濡れて剥がれたのか剥がしたのか見当たらない。 そうして水に首から上だけ出して沈んでいると、どんなに整った面相であろうと──否、なまじ青白く整った面だからこそか、少々不気味だ。「オイ、」と銀時の口から思わず漏れた声に、土方は薄く目蓋を持ち上げる事で応じる。どうやら眠っている訳でも死んでいる訳でも無かったらしい。 眼球がゆっくりと動いて、脱衣所と風呂との間で立ち尽くす銀時の姿をぼんやりと見上げて来る。 「…山崎が戻ったのか?」 「……いや、」 声をかけたもののそこから特に続く話を持たなかった事に気付いて、銀時は困惑の侭に眉を寄せた。じゃあ何か他に用でもあるのか、と訊かれるかと身構えるが、期待通りか期待外れか、土方の言葉がそこから特に続く事はなかった。 ばしゃ、と濡れて重そうな隊服の袖を持ち上げると掌で目元を覆う彼の様子は、何も無いのなら放っておいて欲しいと言う拒絶の顕れの様に見えて、結局銀時は言葉と理由とを探す事を放棄してその侭何も言わず風呂場を後にした。 熱心にドラマを見つめる神楽の向かいの席に戻ると、背もたれにどっと寄り掛かって天を仰ぐ。何だか解らないが酷く疲れている気がする。 「銀さん、廊下の片付け終わったんですね。ご苦労様です。土方さんは大丈夫そうですか?」 「元はアイツらの所為であの惨状なんだからアイツらに片付けさしときゃ良かったんだよ。元凶の副長サンは相変わらずだし、大丈夫かどうかなんて知らねーよ」 神楽の横に座っていた新八に、恐らくはこの疲労感の原因になったのだろう名を出されて、銀時は露骨に形作った顰め面で投げ遣りにそう言う。どの道上を向いているので表情からその感情は伝わりはしないだろうが。 「もう、またそんな事言って。知り合いなんですし、少しは心配にならないんですか?」 「ンな事言われたって、なりようがねーだろが。取り敢えず水風呂に入れときゃ良いってジミーにも言われてんだし、向こうが何か言って来ねェ限り放っときゃ良いんだよ」 「便りが無いのは元気な便りって良く言うアルよ」 「いや便りって言うか目の前に居るよね本人が」 知り合いが目と鼻の先としか言い様の無い場所で臥している、と言う事実が人の善い新八には気に懸かる所なのだろう。彼は落ち着かなさげに銀時の姿と風呂場の方とを数回見て、それから何か諦めた様に大きく溜息をつくと立ち上がった。 「僕、お茶淹れて来ますね」 「おー」 銀時の相槌は「勝手にしろ」と同一の響きであった。自分たちの為に淹れるにしても、新八は土方にも茶はいるかと聞きに行くと言う事なのだろうと察したからだ。 今の水風呂漬けの土方が熱い茶などを欲するとは到底思えなかったが、まあこう言うのは気持ちの問題なのだろう。銀時は草臥れた頭を軽く振ると、俄然重くなって来た気のする目蓋を閉じた。 (放っときゃ良いだろ。向こうも放っといて欲しいって思ってんだし) 今し方新八に向けて口にした答えと同じ事をもう一度胸中で諳んじて、全く面倒な事になったと思い知る。高級な栗羊羹一本で果たしてこれが相殺出来るのかどうか。 そう思った矢先、万事屋の呼び鈴が本日二度目の音を鳴らした。今度は銀時は特に考える間も無く立ち上がって玄関へと向かい、丁度水場から顔を出した新八に遭遇する。そこで始めて銀時は、自分が自主的に来客に応じようとするのは珍しい事だと気付いた。 (…いや、来客っつーかアイツらなのは解りきってるし?) 大家と言う可能性も荷物と言う可能性も新聞の拡販員と言う可能性も無い。依頼人、或いは戻ってくる事を約束した者と言う可能性ならば、ある。だから急いで出た。それだけだ。 「……?」 誰にとも知れぬ言い訳に首を軽く傾げてから、銀時は新八の横を通り過ぎて玄関戸を開いた。そこには予想通りの本日二度目の地味顔と、本日始めてのゴリラ顔が居た。 「ま、入れば?」 珍しいゴリラの険しい顔も、本日二度目になる地味顔の殆ど変化の解り辛い表情も、銀時にとっては余り良い予感のするものでは無かった。だが、取り敢えずこの連中を入れなければ、風呂場を占拠している厄介な客人は消えてくれないのだから仕方がない。 。 ← : → |