影を踏みし



 夜明けまで降り続いていた雨は朝方にはからりと上がって、ひんやりとした湿気が朝の空気を心地よい清涼感で満たしていた。
 心地はよいが些かに寒い。珍しく早く起きて来た神楽は少し肩を震わせていた。そろそろ毛布を出す季節だなと、そんな様子を見て銀時は思った。
 斯く言う銀時も、昨晩の寒さには辟易したものであった。然し、急な冷え込みが冬の到来を告げるものとは言い切れないのが秋の気紛れな天気である。季節感に合わないなどとはよく銀時の服装を示して言われる言葉ではあったが、だからと言って防寒対策や暖房器具の類が必要無い訳ではない。
 炬燵は電気代の都合もあって年の瀬まで出す予定は無い。予定と言うより心算だ。家の中なら厚着をして過ごせとは、毎年従業員と居候と飼い犬とに繰り返し言う言葉である。
 因って当面の寒さ対策は、精々夜間の冷え込みに備えて上掛けや毛布を出す事ぐらいのものだ。
 銀時が押し入れから引っ張り出した毛布を日干しする傍ら、神楽は自らの夏用の衣服を衣装ケースに仕舞い、代わりに冬用の衣服を出し易い場所へと移して行く。定春がそんな神楽の横へと樟脳の匂いを嗅ぎにいってくしゅんと控えめなくしゃみをした。
 珍しい朝からの大仕事に、万事屋にやって来た新八は驚きつつもそれを手伝ってくれる。
 それは、冬の準備をし始めた、と言うだけで、それ自体は取り立てて何か特別な事のある日と言う訳でもない。日常は誰の身にも降って勝手に積もって行く日常であり、いつもの──或る一日の始まり。ただそれだけの話でしかない。
 だが、それが万人にとっての平凡な『或る一日』と言う訳ではないのだと、銀時は知っている。
 ……知っている、が、起こり得る、とまでは認識していなかった。だからこその『或る』──そんな無責任な表現で足りていたのだと、そんな事を思う。

 目の当たりにした、或る男の有り様に。
 
 *
 
 まだ地面の上で乾ききらぬ水溜まりを避けて歩く銀時の足の向く先に、何か明確な目的があった訳では無い。朝の内に冬物出しと言う大仕事を終えた身は、この侭だらだらと横になりたいと訴えてはいたのだが、折角だから掃除をすると言う新八に背中を蹴られる形でそれは叶わぬ事となった。
 手伝うか、出て行くか、どっちかにして下さい。
 そうどことなく冷たい目で言われて、何だこの眼鏡が、と言う言葉に始まる反論は幾つか頭に浮かんだのだが、掃除機を構え袖を襷掛けにした新八の迫力は歴戦の侍と言う名の奥様の様な風情ですらあり、銀時は思わず戦わずして白旗を上げる道を選んでいた。
 全く、変な所までゴリラ姉に良く似やがる。そう小さく胸中で悪態をつきながら、家を渋々出た銀時に当て処などある筈も無かったのだ。
 (パチンコでも行くかな…)
 暇つぶしの算段として浮かんだ思考は、続けて懐の財布の重みへと向けられる。玉を転がし続けるには余り充分とは言えない残金であった記憶は、改めて中身を確認しなくとも容易に知れる。
 町を歩いて何気なく依頼──ないし、それに準じた出来事──にぶつかる事も稀に起こり得るのだが、のんびりと逍遥する町の風景には何か取り分け目立った事柄も見て取れない。例えば蜜柑を道端にぶち撒けて仕舞っておろおろとしているお年寄りの姿とか。そんな物は。
 まあ平和で何事も無い世に越したことなど無いのだが。頭の後ろで組んだ腕に少し重みを掛けて空を仰ぎながら、銀時は欠伸を噛み殺した。
 風に拡げられた雲が長く細く伸びて青空を斑に隠しているが、太陽を遮る程では無い。この季節には珍しく湿気を多く残した大気は、吸い込んだ肺の底を心地よく冷やしていく。
 何でも無い『或る』一日。そんな事を胸中で銀時が何の気もなく呟いたそんな時、車道にぴたりと車が停車した。目を向けずとも解る、銀時の真横だ。銀時が歩くのとは逆の方向へと走っていた車の急停止に──その車輌の示す業種に、周囲の視線が軽く集められる。
 白と黒のラインの塗り分け。車体に取り付けられた赤い提灯型の回転灯。
 「…………」
 "特別警察真選組"。その文字列を横目で追いながら、銀時は寸時足を止めるべきか進めるべきかを悩んだが、ウィィ、と音を立てて開かれたパワーウィンドウの音に、観念して踵を下ろした。
 見た目、犯罪者に対して警察車輌が停車した様で、どうにも体裁が宜しくない。そう思って、銀時は態とらしく開いた後部席の窓を覗き込む様な仕草をした。心当たりは無いんですが何か?そんな心算で。
 「……何だ、ゴリラの搬送か」
 窓の中の人影が想像とは少々違えた事に落胆は憶えたものの態度には出さず、銀時はそう悪態を投げて口を尖らせた。だが、不躾極まり無いそんな銀時の態度にも、近藤が窓の隙間から僅か覗かせた表情を緩める事は──少なくとも見てそうと知れる限りでは──無かった。
 「……」
 有り体に言って、険しい表情であった。近藤は元より男らしい硬さを持った面相であったし、職務に務める最中は将と呼ぶに相応しい巌の様な様相を見せる男なのだが、今銀時が目の当たりにしている彼の表情はそんな、銀時の知る印象たちとは一線を画していた。
 「万事屋。丁度お前の所を訊ねようとしていた所だったんだ」
 重たげな横顔同様に重たい声音が向けられる対象が己であった事までは、銀時の想像通りと言えた。だがその紡ぐ内容は──『訊ねようとしていた』理由は──知己を見かけたから車を停めた、そんなものでは到底足り得ないのだと雄弁に語っている。
 厄介事だ、と。銀時の経験則は容易くその解答を示した。自然と眉が寄る。
 億劫そうで面倒そうだ──そんな感情を隠しもしない渋面で、銀時は車から身体を少し離して辺りを見回した。通行人たちがちらちらと好機の目を向けて寄越す、警察車輌と一般人との対話。その場をとっとと辞すのが正解だと、肌を刺す厭な予感と気配とが訴えかける中で、それでも銀時が踵を返せないのは、近藤の表情の沈痛さばかりが原因ではない。
 歩道と車道とが分けられていない路地は、偶々なのか他に入り込んで来る車の気配もしない。互いに背を押され逃げるも諦めるも出来ない。そんな空隙がそこに生じている。
 「…万事屋に用事、つーか依頼って事か?なら、神楽と新八も連れて行かねェと」
 やがて、溜息混じりにそう銀時が切り出せば、近藤は「いや」とかぶりを振った。その口元が固く歪み、酷く重々しい声音を紡ぐ。
 「万事屋──、いや。銀時。お前に折り入って頼みたい事があるんだ」
 どうやら『訊ねようと思っていた』──そこから言葉を紡がなかったのは、その理由と目的とが銀時そのものにあったからだったらしい。
 「名指しの指名は高くつくぜ?」
 そんなお安い男じゃないんでな。そう胸中でだけ戯けて付け加えておく。口にした所で今の近藤の様子では、さらりと流されて仕舞いそうな気がしたのだ。
 「構わん。乗ってくれ」
 言って、近藤が車の戸を自ら開く。地獄への扉と思った訳ではないが、張り詰めた近藤の気配を益々に開いた戸から感じ取って仕舞った様な錯覚を憶え、銀時は尻込みしかかる心を堪えた。その理由は概ね、怖じ気づいたからではなく、面倒そうだから。その程度であった。
 そしてそんな態度を今の近藤の前で顕わにすると言うのは、流石に無遠慮で無神経だと、そんな事を察せるぐらいには、銀時は鈍くはなれなかったのだ。
 同時に。面倒くさそうであろうが、酷い厄介事であろうが。放ってはおけなくなるのだろうと、何処か諦めに似た感情でそう思う。
 何しろ、この真選組局長にこんな表情をさせる様な人間など、銀時の心当たりには僅か二人しか居ないのだ。そして、その二者の何れかに纏わる者として己が選ばれたのだろう言う事も、同時に理解出来て仕舞ったからである。
 或る日、を単なる『或る日』では失くす。そんな事がこれから起きるのだろうと言う気配を、固い表情の近藤からひしひしと感じながら、銀時は無言で腰を下ろした後部座席で目を閉じる。
 こうなった以上避けられはしないのだろう。予感はどうせ違えない。それは確信だ。窓の閉まる音と共に遮断される外界の音を冗談ではなく実感として得ながら、銀時は滑る様に走り出す車体に身を任せる事にした。





嘗て無い酷いタイトルでお送りします。

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