纏足の美し 結局車中は無言の侭、車は真選組屯所へと到着した。 近藤には今この場で口を開く心算は無かった様だし、銀時も今この場で訊きたいとも特に思わなかったからだ。 何しろ、あの基本的には明るく楽観的な近藤(おとこ)の顔を、まるで世界の不幸を一身に集めましたと言いたげな質に歪ませているのだ。その『理由』を一人で推し量ろうと思う程に銀時は酔狂でも無ければ冷徹でも無かった。 駐車場に停められた車から、運転をしていた隊士が先に下りて後部席の戸を開く。鷹揚な動作で出て行く近藤の黒い制服の背中を見ながら銀時がこんな時に思うのは、普段はまるで駄目なオッさんゴリラいいところのこの男も、こうしていれば実に様になっている、と言う事だった。 とは言え自分は真選組にとっての局長で無ければ賓客でも無い。銀時が開かれた戸とは逆の扉を勝手に開けて外に出ると丁度、「局長」そんな呼び声と共に山崎が建物から姿を現した。 お帰りなさい、と頭を下げ、銀時にも会釈をして見せるその様子からして、ひょっとしたら待っていたのだろうか。常の地味顔には矢張り近藤のそれと質を良く似せた、固く沈痛な面持ちが乗っているのが見て取れて、銀時は居心地悪く目を逸らす。 この地味顔にまでそんな表情を作らせる対象など。最早他に居もしまいと、確信が胸中に落ちる。 些か早急過ぎるかも知れぬ結論に、銀時の鼓動が厭な音を立てて跳ねた。だが極力そんな動揺を悟られぬ様にゆっくりとした足取りで、歩き出す近藤の後に続く。 「済みませんが局長、先に……、」 目前まで来た所で不意に山崎がそう口にし、銀時の方をちらりと態とらしく伺って見せた。「ああ…、」と何か得心のいった様に頷く近藤に容易に通じた辺り、どうやら機密か何かの話らしい。 「済まんが銀時、話は山崎から聞いておいてくれ。先にやらねばならん事があってな…」 近藤はそう申し訳なさそうに言うが、『先にやらなければならない事』になど特に興味も無かったので銀時はどうぞとばかりに肩を竦めてやる。 再度「すまん」と言い置いて、近藤は廊下を別の方角へと歩いて行く。その背中には車中で見た沈痛で悄然とした気配は未だ伺い見えたが、背筋は凛とし、足取りも堂々たるものであった。 (……態度にゃ出せねェ、か) 将たる者としての務めや体裁と言うものもあるのだろう。先頃までとは異なり、局長の顔をして歩いているのだろう近藤の背中に僅かに同情しながら、銀時は促されて山崎の後を追う。 こちらは相変わらず知人の葬式でも執り行っているかの様な重さをその面相に描いていたが、概ね無表情には近いと評価出来るだろうか。いつも平淡な地味面なので、言う程に日頃と言うものを思い出せないと言うのが正解だったが。 ともあれそんな常より重みの増した地味顔もまた、今直ぐに銀時へと頼みたい『依頼』とやらを語る心算は無いらしい。部外者を伴っているにしては少々込み入った、普段銀時が余り通される事の無い様な通路を、追う銀時を振り返る事もなく進んで行く。真選組隊士らの居住区画なのか、男臭い生活感のある部屋の並びや休憩室と行った所の横を通るが、日中の今は出払っているのだろう、辺りに人気は無く静かだ。 要する所、すれ違う人間の居ない道だ。そんなルートを山崎が選んだと言う事は、ここに至るまでの道を、万事屋と言う部外者が通る事を隊の内部に知られるのを望まれていない、と言う事になる。 銀時がその予感を確信したのは、覚えのある場所がどうやら予想違えずに目的地らしいと知れた時だった。 実用的な職務を執り行う為の区画。その外れの一角に好んで身を置く人間など他には居まい。成程、確かにこの部屋の主ならば、近藤にあの様な苦しげな表情をさせる『何か』が起こり得る可能性だって十二分に持ち合わせている。 副長室兼副長私室。中庭の外れに面したその部屋の前で足を止めた山崎の背を、銀時は隠さぬ渋面で見遣った。 「土方さん、山崎です。入りますよ」 閉ざされた障子に向かってそう声を掛けると、山崎は一度だけ軽く、眉間に皺を寄せた銀時の事を振り返って来た。意味深以上の意を込めた表情には固く重苦しい、然し切実さを伴った感情が宿っている。 「……」 この瞬間に、何か、を恐らくは求められたのだろう。だが、頷く事も否を唱える事も出来ず、銀時はただ無言で先に進む事を促した。用向きは恐らく山崎の口にした通りの『副長』にではなく『土方さん』にあるのだろう、とだけ確信しながら。 応えの無い部屋に焦れるでもなく、山崎の手が酷く重たそうに障子を開く。寸時、いつも漂うヤニの匂いを警戒した銀時の嗅覚に然し反して、室内は静かでそして清涼な空気を保ってさえいた。 それは銀時の思う種の『最悪の』想像からはほど遠い様だったと言えよう。故に少々面食らったのは事実だ。有り様だけを見れば別段──そう、普段通りである風にさえ見えた。大凡、近藤や山崎にあの様な沈痛な面持ちをさせるものには見えなかった。 果たして部屋の住人は、机に向かって憮然とした表情を形作っていた。無言の間の中で、あからさまに不機嫌そうな面持ちがゆっくりと、開かれた障子の方へと向けられる。 返事の無い様子に加えてこの表情。銀時の知る限り、それは土方の不機嫌以外の何を表すものでもない。眉根をきつく眉間に寄せて、形の良い唇を子供の様にむすりと歪めた顔が山崎と銀時とを一瞥し、それからふいと逸らされる。 今にも舌打ちでもしそうな風情──否、本当に舌打ちをして、着流し姿の土方は露骨に溜息をつくと机に左肘をついた。 「……よりによって其奴か」 苦さに更なる苦さを上書きした様な声がぼそりと、然し銀時の耳にはっきり届く音量でそう呟く。と言うよりは吐き捨てた。 「あ?」 「お前か」ではなく「其奴か」と、露骨に銀時の存在を無視した物言いに、思わず額に青筋が浮かぶ。今更他人行儀な間柄でも無いと言うのに。否、だからこそ土方は他者の前では知らぬ振りをするのだったか。それにしたって言い種と言うものがあるだろう。 「一番の適任だろうと局長が見込んでの事です」 反射的に突っかかり掛かる銀時の前に、ごく自然な挙動で割り込む様に膝をついた山崎が割り込んだ。取りなす様な言い方、と言うよりは寧ろ鋭い牽制球、或いは釘を刺す調子に似ていたが、それに対していつもの様に反論の類が飛び出す事はない。是と言う事だろうか。だがそれにしては棘のあり過ぎる態度で、土方は再び舌打ちをすると纏った黒い着流しの右袖を揺らした。 (………ん?) ふわりと揺れる布に、何かに気付いた様に動きを止めた土方は、二度目の溜息を吐きながら左腕を机の上へと伸ばした。億劫そうな手つきが苛々と、そこに置いてあった煙草の箱を掴み取る。 「…………」 銀時は誰何にも似た視線を山崎へと向けるが、僅かに固い無表情を作ったその横顔が何かを答える事は──答えになりそうな事を紡ぐ事は──無かった。 銀時と山崎との向ける視線の先で、土方は左手に掴んだ煙草の箱から一本をくわえ出すと、箱を置いた手でライターを手に取った。かちりと火が点けられると、酷く苦そうな煙が立ち上る。 「お前、…その、腕」 煙草の箱を掴み、ライターを掴んだ、左手が。今度はライターを置いて、その指の狭間で煙草を摘む。あからさまに不自然なその挙動を指摘された事で、土方は眉間の皺に更なる深さを刻んだ。それは重たい失望と言うには浅すぎて、居た堪れの無さと言うには深すぎた。 銀時の慎重な指摘を受けた土方は、不機嫌と言うよりはばつの悪さを憶えた時の様に、肩を竦めてから再び視線を戻して来た。羞じでも感じているかの様に眇められた目元には懊悩の皺がくっきりと刻まれている。 厭がっている時の表情だ、と銀時は思う。町中でついうっかり明るく声を掛けて仕舞った時などに、土方はよくこんな顔で銀時の事を見る。厭だと言う感情は全く隠しもせず、然しあからさまに糾弾はしない。そして、「察しろ」そう言いたげに目をそっと逸らすのだ。 「……折ったんだよ。文句あんのか」 やがて、そう忌々しげにそう小さな呟きを落とすと、土方は銀時の注視する右の袖を揺らして溜息をついた。茫然と見つめる銀時から視線を逸らして、だから厭だったのだ、と言わんばかりの表情で摘み取った煙草を唇から離して、煙を吐き出す。 「折った、て」 「そうです。骨折です」 鸚鵡返しに呟く銀時の、それ以上の言葉を遮る様に山崎のきっぱりとした声音が差し挟まれる。有無を言わさぬその響きに目を瞠った銀時は、その意味を上手く捉えられずに、無言でただそちらを振り向く。 銀時へと僅かに視線を投げて寄越す、山崎の表情は酷く苦しげであった。彼の為人なぞ地味であると言う事以上には殆ど知り得てはいないが、それを何かを希うものであると判断する事ぐらいは適う。 後生ですから。 そう、声にはならぬ声が、部屋の入り口に未だ立ち尽くした侭でいる銀時の目から入って耳を打った。何を、一体『何』を願われているかと言う情報すら与えられぬ侭。ただ、願う、とばかり。切実、に。 「……………」 軽口も無駄口も生じない、乾いた口が僅かに上下して、同じ様に乾きそうな眼球が、憮然と煙草を噴かし続けている土方の姿を捉える。 職務中だろう時間帯に、土方が私服の着流し姿で居る事はまず無い。 休みと言う可能性はゼロではない。銀時が知り得ていなかっただけで、急に入った休みとも、言えなくは、無い。 我ながら余りに遠回しな思考に笑えてさえ来る。銀時は浮かぶ楽観も悲嘆と同じ様に動揺さえ呑み込んで、山崎に合わせて口を噤む事を選んだ。 土方が休みであったとして。だから着流し姿で居るとして。その片袖が酷く軽そうに揺れる理由にだけは、説明が全くつけられそうもない。重さが合わないのだ。土方の、ただ決まりの悪そうにしているだけの、いつもの『不機嫌』程度の様子と、風に揺すられる袖の重みとが、合わない。 骨折。その言葉の空々しさに、問いを放つ事は── 「土方さん」 「っ」 不意に背後から聞こえたフラットな声音に、銀時は思わず背を跳ねさせた。思考に没入していた己に不覚を感じる隙も与えず、声を放った闖入者は銀時の横を無言でするりと通り抜けて行く。 「沖田隊長、」 相変わらずむすりとした表情で居る土方に代わって声を上げたのは山崎だった。銀時は、こちらは職務中なのかきちんと制服を着込んだ栗色の少年の後頭部を目で追う。 沖田の手には食事の載った盆。湯気が立ち上る様を見ればたった今出来たものなのだろうとは知れたが、山崎に連れて来られてここで得た、銀時の動揺をまるで制止するかの様なタイミングだと、そんな風にも思える。 「昼飯、頼んで作って貰って来やしたんでどうぞ。特製ですぜィ」 言って、盆を机の上へと置く沖田に、鼻白んだ様子で土方は煙草を灰皿へと押しつけた。 「…悪ィな。つか特製ってのは具体的に何を指して言ってんだ」 「ンな警戒しねェでも。俺特製のトッピングですんでご安心を」 「いや一番安心出来ねェよそれ!手前ェの飯なんざ何が入ってるか解らねェわ!」 言いながら、土方は山崎の方を見るが、その期待には添えず珍しくも山崎が助け船やら仲裁やらを入れる事は無かった。銀時は僅か眉を持ち上げてそんな三者を見下ろす。 「まあまあ、マヨかワサビかの二択ってぐれェですんでそんなビビらねーで下せェよみっともねェ。なんなら「あーん」て奴でもやりやしょうか」 「口にねじ込む気満々じゃねェかこのドSが!」 ぎゃあぎゃあと声を上げる土方に淡々と応じる沖田。そんな有り様を横目に、山崎は無言で腰を起こすと銀時をちらりと見上げて寄越した。軽く指で示す、続き間への襖。 (……話はアイツのいない所で、って事か) 胸中でずっと蟠った侭でいる苦いものを抱えた重い心地で、銀時は示される侭に、まだ賑やかにやり合っている二者から背を向けた。 振り向く一瞬の狭間に、ふらりと揺れる黒い袖の、空っぽの軽さが心へと飛び込んで来て、酷い焦燥と痛みとが胸を無遠慮に掻き毟る。 問うには、言うには、余りにも無知なのだと。無力なのだと。察するには余り合って、そう願われるにも理由があるのだと。その空白の知られざる中身へと、知る。 それは、僅かの数日前に感じていたてのひらの温度との間へと生じた、時間と距離の余りの長さでもあった。 。 ← : → |