枷の麗し 柔く絡めて触れた手だった。指先同士が戯れ合う様に動くのが擽ったくて、何だか当たり前の恋人同士の様だと思えて少し笑えば、何を笑っているのだと唇を尖らせて言われた。 腰をなぞって行く手はその侭に、空いた手を強く絡ませて覗き見た土方の表情は、羞じとも照れともつかぬ複雑な感情を形作っていた。 「……野郎の手なんざ握って楽しいのか?」 呆れた様に紡ぐ言葉は悪態としか言い様のないものであったが、銀時は我知らず目を細めて仕舞う。それがまた笑っている様に見えたのか、土方の膝が銀時の腰骨を蹴り飛ばした。 「剣胼胝は固ェし、華奢なもんでも無ェし、触り心地なんざ良かねェだろうが」 ぶつぶつとぼやく様に言うその言葉が、断定と言うよりは問いかけに聞こえたので、銀時は小さく頷いた。ただ、手は解かずに。逃れようとする指を益々に捕らえて。 「良いじゃん別に。俺、おめーの手ェ結構好きだし?」 言いながら、応えぬ指の掌の上をそっとなぞってやれば、土方は顔を横に逸らしてそっと溜息をついた。どうせまた、物好きだとか、馬鹿かとか、意味も為さない様ないつもの悪態をついているのだろう。 この男の手が好ましいと言う言葉に偽りは無い。剣を握り過ぎて固くなった掌は、何かを護って戦う手だからだ。 小さな世界であれ、大きな志であれ、何かをそうして護ろうとする人間を、銀時は純粋に好ましく思う。それが──何と言うか、好きな人間の事であれば猶更に。 やがて、躊躇う様に土方の指が少しだけ折られる。解り辛い答えに銀時は微笑して、未だ逸らされた侭でいた土方の顔を捉えて、その眉間に小さく唇を落とした。 「まあ…、なんつうか、好きなのは手だけじゃないですけどね?」 「!」 態とらしく言いながら、繋ぐ手と逆の手でするすると内股を辿り上げれば、土方は顔を紅らめながら息を呑んだ。次の瞬間舌打ちをして、一瞬の動揺を誤魔化す様に挑戦的にわらってみせる。 「じゃあ、とっとと──、」 その先は、どちらからともなく擦り寄せた口唇の間で濡れた音になって消えていく。 シーツの上へと落ちた、繋がれた掌が歓喜に戦慄く様に震えて、縋る様に力を込めて指が畳まれた。 その、感触は今も猶はっきりと憶えていると、言うのに。 * 「骨折、です。……………少なくとも副長はそう思っています。……いえ、副長(あの人)の中では『骨折』なんです」 続き間の中央付近まで歩いた山崎がそう、小さな声で切り出すのを、銀時は未だ茫然とした心地で聞いていた。 「……旦那のご想像の通り、『骨折』じゃありません。副長の──土方さんの右袖の中には、折れた腕なんて下がっていません」 まるで自らがその痛みを得ているかの様に、山崎は自身の右腕を強く掴んだ。黒い制服に歪に刻まれる皺の深さが、彼の裡の悲痛な懊悩を銀時へと無言で突きつけて来る。 それを問い質すには言葉は余りに無粋で無遠慮であると感じられて、銀時は歪めた口の喉奥に言葉を何とか呑み込んだ。 ──掌の、合わせた感触は今も、猶。はっきりと憶えているのに。 「一昨日、幕府の要人と癒着していたとある攘夷浪士たちの組織を壊滅させるべく、結構な大捕物がありました。……正直、戦争と言って良い規模の。尤も、それも旦那に言わせればままごとにも等しい事なんだとは思いますが…、」 歯切れ悪く紡ぐ山崎は、そこでばつが悪そうに一旦言葉を切った。流れる侭に銀時へと攻撃の矛先を向けかかった事に気付いたのか、噤んだ口を難しげに歪めてから、溜息にも似た調子で続ける。 「……………兎に角、乱戦だったんです。基本的に一対多を遵守する真選組(うち)の戦法も侭ならなくなる程に。ですから、誰に過失があると言う訳でもなく、仕方の……──ッ、仕方の、無い、」 表情が激情を示し固まった侭、喉がそれを堪えて留まる。封じられた男の絶叫を銀時はその耳に聞いて仕舞った気がした。 剣戟の中で。悲鳴と苦悶と昂揚の叫びの響く戦場(いくさば)の中で。 『それ』を悔いて吼えた記憶は、銀時にもある。 護れなかった何かを、思って吠いた記憶は、今も猶ここに。 「…………副長は、土方さんは──、刀を握った侭の、右腕を、…失い、ました」 ──掌を、合わせた感触はそこに、ずっと。遺されていると言うのに。 無機質に揺れた黒い着物の袖を思い出す。手を机の上の煙草へと伸ばそうとして、然し叶わず虚しく揺れた、布の動き。 風に容易く吹かれて捻れたそれは、腕ではない。ただの、布だった。 「………………」 言葉を失って立ち尽くす銀時の前で、益々に深く俯いた山崎が、血を吐く様に言葉を紡いで行く。 「それでも……、あの人にとってそれは『骨折』だったんです。あの人は、自らの腕がそこにもう無い、その事実を、現実を受け入れる事が出来なかったんです」 山崎の絞り出す様な言葉から、どの程度の理解が出来ているのかは解らない。ただ、銀時は甘い記憶が辛酸に満ちるのを舌先で感じて、憶え深い痛みに顔を顰めた。 苦々しい渋面を浮かべ、かぶりを振った山崎の顔が僅か持ち上がり、そんな銀時の姿を見る。そうして、まるで同意──かそれに近いもの──を得られた事に安堵した様に、乾いた自嘲を吐き出した。 「あの人にとって右の腕は、身体の一部であって、利き腕であって。真選組を、近藤局長を、護る手段の全てだったんです。刀や筆を手に、戦って護る為に、失ってはならないものだったんです」 それはそうだ。銀時も良く知る通りの話だ。土方の手の裡には常に誇りや志と共に、いつだって綺麗な刃が収まっていた。 言われるまでもなく。知っている。 (だって、未だ手の中に、) 「レントゲンを見せても、腕の傷を見せても、あの人にその現実は見えていないんです。おかしな話に聞こえるかも知れませんが、今の土方さんには己の願う現実に都合の悪いものや事は、聞こえないし見えていないんですよ。……自らの心を護る為の防衛反応だろうとは、医者の弁ですけど」 俺もそう思います、と小さく続いた山崎の言葉は、銀時の裡の記憶を乱暴に握り潰すに等しい力を持って耳朶を打った。思わず見下ろす自らの左の掌に、記憶を辿ってその感触を必死で思い描く。 固い掌。固い指。何かを護ろうと戦って、不器用に応えようとするてのひら。 いとおしんで辿った指先を、躊躇いながら受け入れてくれた、土方の。 (手の中に、こんなにも、残って、) ぐしゃ、と強く握りしめた左の掌は空気を虚しく掻いた。銀時は戦慄く心を抑えて、閉ざされた襖を振り返る。今すぐにでも開けて、見て、問い質して、叫びたいと思って──それらに何の意味も無いと理解する心に蓋をする。固く鎖して、堪える。 「……それで、骨折、か」 骨折だから、動かない。だが何れは治る。そう思い込んで──それを現実の寄る辺にして、今の土方は自己を保ってるのだ。 「実際に失われたのは、骨どころじゃないものですけど」 皮肉気な言い種を隠しもせずそう言ってから、山崎は気まずそうに目を伏せた。 戦闘に余り向いているとは言えない職務の男が、現場に居て土方を護れたとは考え難い。或いはだからこそ、なのか、山崎の裡で土方の喪失は、責めても限りの無い程に重いものになっているらしい。 皮肉も自嘲も、全ては埒の無い可能性の想像と後悔から出るものだ。察しもしたし理解もあったが、生憎と今の銀時にはそんな山崎に掛けられる気休めも浮かばなかった。 ただ、頭の中で一つの事柄がぐるぐると廻り続けている。無意味な程に残酷な記憶の訴える痛みばかりが。残響の様にずっと。 余裕の無さを訴える思考が今にも溺れそうに漂うのを感じて、銀時は苦しさから逃れようと息継ぎをする。溜息にも似た息遣いを寄越す銀時に、山崎がそれ以上無用に縋ったり同意を求めて嘆く事も無かった。 (失ったのは、全て、か──?) 掴んだ手の先を思うと辛くなり、銀時は背中で隣室の気配を必死で手繰った。それが、憶えて居る侭の形で其処に未だ在ると言う事自体が、最早過去の話なのだとは、到底思えずに当惑する。抜け落ちたひとつの空白に埋め込む何かを探して困惑する。 失ったものの大きさを直視出来なかった土方は、自らそこから目を逸らす事でその現実を──生じた空白を拒否したのだろうか。そんな行為が無意味に程近いと知って、それでも……? (…………いや、) 「…て事は、あいつ自身の過失じゃないんだよな?」 「え?」 「『骨折』がだよ。あいつがもし手前ェの、手前ェだけの失態で『骨折』したんだとしたら……、土方なら、そこから目を逸らす様な真似は、しねェ」 問いておいて断定へと結論を運んだ銀時の言葉に、山崎は驚き瞠った目を、然し次の瞬間には錆びて軋んだ音を表情筋に乗せて、苦く俯いてはかぶりを振った。 それは否定ではなく、逡巡。躊躇いを振り捨てるのに途方もない勇気を絞り出す様に──或いは探す様に視線を游がせる山崎に決断を促すかの如く、銀時は強く断言する。 「俺の知ってる土方十四郎って侍(おとこ)は、手前ェの辛さからただ逃げちまう様な奴じゃねェ」 「…………」 それが躊躇う山崎の口を緩める決め手になったのか。彼は閉ざされた襖と、その向こうから漏れ聞こえる二人の──主に土方のだが──ぎゃあぎゃあと言い交わす遣り取りへと耳を傾ける素振りをしてから、 「沖田隊長を、庇ったんです」 そう、苦味とも痛みとも取れぬ様な平淡な声音で、独り言の様に呟いた。怒りと言うには到底足りぬ、虚しさや諦めにも似た声音の語る所を何となく察して、銀時は密かに目を眇めた。 「それも、隊長に言わせれば、必要無かった、らしいですけど…、でも流石にもう不用意にそんな事は言いません。あれでも沖田隊長は酷くナーバスになってますし、責任を感じているみたいですから、出来れば余り触れないであげて下さい」 後半は更に声を潜める様な調子でそう言って、苦笑する。 「ドSって打たれ弱いんでしょう?」 「……さあ?俺とあのサド王子とが一緒かどうかなんざ知らねェよ」 でも、あれであの少年は酷く繊細な質なのだとは知っている。そう言外にせずに続けた銀時は、廊下を近付いて来る足音に気付いて襖をそっと開いた。 開かれた部屋の中。昼下がりの日差しを斜めに差し込ませている窓の近くで、フォークに何やら七味で真っ赤になった正体不明の具材を突き刺して土方へと突きつけている沖田と、それから必死で逃げようとしている土方の姿がそこに在る。 開かれた襖には気付かないのか、構う余地もないのか、土方は依然変わらず何やら喚いているし、沖田はそれを淡々と躱しては新たな攻撃を行おうとする。 何でもないいつも通りの日常の一幕を、舞台の袖からぼんやりと見つめている心地になって、銀時が居心地悪げに身じろぎすれば、それとほぼ同時に、廊下を歩いて来た足音の主──近藤が障子を開いて顔を覗かせた。 「、近藤さん」 気付いた土方と沖田とが振り返る。それに応える様に少し笑ってみせる、近藤のその表情には無理や苦渋がありありと滲み出て仕舞っていて、何だか見ていられずに銀時は態とらしい咳払いをした。その異質な音に室内の人間二人の顔が戻って来る。戯れる様な暢気な時間はどこかへ置き去りにして。 近藤の目がちらりと銀時の方を伺う様に向けられるのに、小さく頷きだけを返しておく。事情は概ね解った、と言う意味を込めて。 「で、」 だが、まだ解らない事はある。それを問う為に銀時は、己の所業の無粋さを感じながらも口を開いた。 「依頼ってのは何」 「………」 その問いは、恐らくは議題の主か対象となるのだろう、土方の表情へと翳りを落として憂いさせたが、銀時はそれには罪悪感を憶える事は無かった。 ただ、土方の身を襲った痛苦を思って、だからこそそれを表に出す事の一切を堪える事にした。 …と言う訳なので以降欠損ネタ注意です。 ← : → |