骨の歪みし ペンを挟む指の骨が軋み、慣れない動きに酷使されている手首が痛みを訴えて来る。 助けを求めて対面を伺うが、座して銀時の手元をじっと伺って──もとい、監視している土方はそれに気付く素振りすら見せず(気付いていても知らぬ振りをしているのかも知れない)、早く続きを、と促す様に指でとんとんと紙面を叩いてみせるのみだ。 「……なー、そろそろ休憩しね?」 「駄目だ。まだ今日の分の半分も終わっちゃいねェんだ」 「…………」 期待を込めた訴えは取り付く島もなく斬り捨てられ、銀時は最早ペンを掴んでいると言うより、ペンを持つ形に強張った指の動きをのろのろと再開する。が、一度動きを止めようとしたものは宥めてみた所でそう易々とは苦痛の作業へと戻ってくれようとはしない。 腱鞘炎には確実になっているだろう己の右手と、その手元に堆く詰まれた書類山の嵩とを見比べて仕舞えば、これ以上その痛苦を味わいたくなどないと、腕も指もリアルな痛みを以て正直にそう訴えて来る。 「せめて茶ぁ一杯ぐらい…」 言う銀時の頭が両肩の位置よりだらりと下がり始めたのを見て、土方はこれ見よがしな溜息を吐き出すと左手に掴んでいた書面を卓の上へと置いた。顎でしゃくる様に傍らの茶器を指して言う。 「飲みたきゃテメェで勝手に入れろ。一杯だけだからな」 「へいへい」 強張った指を開くと、そこからペンがぽろりと剥がれた。置くと言うより転がり落ちたペンの行く先を土方は目を眇めて見送る。その唇から溜息が吐き出されるのは見て見ぬフリをして、銀時は手を伸ばして茶器の乗った盆を引き寄せると山崎の置いていった保温用の電気ポットから急須にお湯を注ぐ。中身は何時間か前の茶葉だから出涸らしも出涸らしなのだが、今更特に気にもしない。 「お前は?」 「いい」 急須を揺らしながら問うが、土方は些か不機嫌そうな声音でそれを遮って、卓上に乗せられている目前の書類を難しげな面で検分し始める。時折、癖なのだろう、右袖を揺らしては苛立たしげに顔を顰めてそっと息を吐く。 「不便なもんだ」 そんな土方の様子を具に見つめていた銀時の視線に気付いたのか、土方は苦味を孕んだ表情で口元を僅かにだけ歪めてみせた。それは自嘲に似ていたが、もう少しばかり軽い。 「……だろうな」 『不便』。恰も、些事でしかなく一過性で終わると思っているそんな言い種は、土方が己の身に起きた事を正しく把握出来ていない事の何よりの現れだと思って、銀時はそこからそっと目を逸らす。 だが、流れた視線の先には卓に山と積まれた書類が聳えていて、それは銀時の気分を益々に憂鬱にさせた。 * 「二日から…精々一週間以内。それだけの間で構わない。トシの手伝いと護衛を頼めないか」 座した近藤が軽く頭を下げる様にして告げた『依頼』とはそんな言葉で形作られた『願い』だった。 「件の──トシの、その…負傷の原因になった捕り物はいつにない乱戦でな。残党がまだ多く残っていて、真選組はそれを全力で狩り立てている最中なんだ。これが終わったら俺も直ぐに報告と対策の相談で庁舎に赴かねばならん。その間は屯所も、トシの身の回りも手薄になっちまう」 一瞬言い淀んだ近藤は、然し次の瞬間には持ち直した。まだ卓の前に座って遠巻きにこちらを見るともなしに見ている土方が、そんな一瞬の淀みに気付く事は無かった。 確かに、改めて伺う迄もなく真選組の屯所はらしくもない森閑とした気配を保っている。この部屋に来る前に隊士らの居住区画を通ったが、人員は皆留守にしていて閑散としていた事を思い出す。幾ら業務時間と言ってもほぼ全ての人間が出払って仕舞うとは少々考え辛いので、それは近藤の説明通り、真選組の人員が今残党処理の為に駆り出されていると言う事なのだろう。 だがそれにしても『護衛』と言うのは少々過保護過ぎる様に感じられる所だが、 (まあそれは建前か) それで手伝いと言う事か。銀時はそう納得を示して顎を引いた。 後方支援と思われる山崎が『現場』を目の当たりにしているのだ。つまり、土方の『負傷』を見る、或いは知った者は多いと見て良い筈だ。敵も、味方も。 そして、銀時がここに招かれ『依頼』を──否、『願い』を受けている現状を見れば、若しくは土方の置かれた状況を思えば、近藤はその事実を極力隠そうとしているのだろうと知れる。 それは即ち。 「……それで、『護って』やれって事か」 小さな呟きにも似た銀時の言葉に、近藤は深くはっきりと頷いてみせた。互いの間には言外にはしない言葉も事情も──そして感情も──潜んでいたが、どちらともなしに正しくそれを解していると言う確信はある。 護衛とは言われた通りの意味だけではない。幾ら土方が重症で、屯所の警備が手薄であろうとも、真選組の屯所にまで乗り込んでその首を獲ろうなどと思う者が出て来る目算は限りなく低い筈だ。 それでも『護衛』をなどと言うのは──土方の身を、ある意味で本当に案じての事だ。指揮官の取り返しのつかぬ様な負傷と言う事実が隊内に拡がるだけでもその士気には大きく影響が出る。そこに来て更に、その当事者が己の身に起きた事を正しく解していないなどと言う話は宜しく無い。普通ならば、土方が精神を病んだと判断するだろう。そして、そんな指揮官に命を預けたいと思う兵など居る筈も無い。 銀時へと託された依頼或いは願いは、内外から土方の身を護る。と同時に、土方が下手な真似をしない様に護れ、と言う事だ。 「頼む。残党が片付き落ち着けば、…症状もまた少し変わるやも知れないし、そうなれば俺達の身の振り方や立ち回り方も変わる。それまでの数日間で構わない。頼めないか、銀時」 真選組を支える精神的支柱の近藤とは異なり、副長である土方の執り行うのは実用的な職務である事が多い。そんな副長が乱心を疑われると言う事は、真選組の危機そのものでもあるのだ。 「近藤さん、幾らなんでも少し過保護過ぎやしねェか」 空っぽの右袖を──そうとは知らず──揺らした土方が、返事のなかなか無い銀時に焦れた様にそう割って入る。申し訳なさや居た堪れの無さでか、その表情は沈みがちだった。 「トシ。事はお前だけの話に留まらん。…解ってくれ」 「………」 言う調子は穏やかであったが、土方の言う『過保護』に有無を言わせる心算はないと言う強い表れが見えており、土方もそれを察したのか食い下がる事はせずに黙り込む。ただ、不満を抱えた内心を隠す気は無いらしく、近藤の傍に座す山崎へと八つ当たりめいた視線をやった後、態とらしく壁の方を向いて見せはしたが。 銀時としては、この『依頼』を特別断る謂われも理由も無いと言うのが正直な所である。が、どうにも腑に落ちない点があってならない。 近藤がこんな外部の人間の手を借りるなどと言う手段に出たのは、彼もまたこの一件を悔いているからに他ならない。何しろ近藤の存在は土方が失ったその腕で何よりも護りたいと思っていたものの九割以上を占めているからだ。そんな土方を知るからこそ、逃避にも似た心の運びにも近藤が納得を示す他無いと言うのも頷ける話だ。 だが、肝心の土方はどうなのだろうか。現実を受け入れる事が出来ず虚構に生きる事を選ぶなど土方らしくないと、銀時は苛立ちを憶えずにいられない。少なくとも銀時の知る限りの土方なら、どんなに非道い現実だろうが馬鹿みたいに真っ向からそれを受け入れ、乗り越えられずとも抗い戦い続ける様な男である筈だ。 ……強いて言えばその──逃避の原因は。 (手前ェの所為じゃねェから、か。どう言う状況かは知らねェが、沖田(やろう)を庇ったって言うなら、) 考えられる事はただ一つ。沖田がこの事で自らを責める事が無い様にと、土方の無意識がその『事実』に蓋をしたのだ。 庇われ、腕を失わせた。その原因たる少年が、その事を気に病まぬ様。その事を瑕にせぬ様。 (…………それもらしくねェっちゃあ、ねェんだが) 思って銀時はそっと土方の傍らに座して退屈そうにしている沖田の方へと視線を向けた。彼はずっと黙りこくった侭で近藤と銀時との遣り取りに耳を傾けている様だった。山崎との話でも出た通り、このドSを自称する少年が存外に年相応以上に繊細な質であると言う事は知っている。 そして土方がそんな沖田になんでかんでと甘いのだと言う事も。 (……まあ、考えてても仕方ねェわな…) 眼前では真選組局長がその厳つい面を、降りかかった悲劇が我が事である様に辛そうに歪めて座っている。銀時の応えを待って、藁にでも縋ろうと言う眼差しを向けて来ている山崎も居る。別に彼らのそんな哀願の態度に心を動かされた訳ではないのだが、銀時はそちらの方を見ながら頭をばりばりと掻いた。幾ら考えを巡らせてみた所で、土方が何を思って『こう』なったのかなど知れる由など無い。 銀時の目の前にあって知る事の許されたただ一つの確かな事は、この件を知った以上、それを放っておく事など出来やしないと言う己の本心だけだ。 「わぁったよ。ここまで来といてやっぱさよならとは流石に言やしねェ。数日間くれェなら右腕にでも刀にでもなってやらァな」 まあ報酬次第だけど、と照れ隠しの様に付け加えれば、近藤は破顔して喜んだ。依頼の当事者である筈の土方は、銀時の方を不満とも不安とも取れぬ顔で見はしたが、流石に異を唱える心算は無さそうだった。 そして、そんな彼らの様子を見つめていた沖田が一人そっと立ち上がって部屋から出て行く事に、銀時は気付いてはいたが止めはしなかった。 * 剣にも腕にもなる、とは言ったが、筆になるとは聞いてなかった。 銀時がそう思ったのは、右腕が効かず字を書く事も侭ならない土方の執務の代筆を務める事を告げられた時にだった。そしてその時にはもう既に選択肢は無く手遅れでもあった。 依頼の話が纏まるなり副長室に運び込まれた書類山は最早高いのを通り越して雄大でさえあった様に思う。 「これで…そうですね、精々二日分てとこです」 茶器と申し訳程度の茶菓子を運んで来た山崎にそんな事を平然と口にされた時には、もう帰ろうかと一瞬本気でそんな事を思った銀時である。 自慢ではないが万事屋に書類仕事なんてものはほぼ無い。ほぼ無い、と言うかほぼ確実に無い。精々依頼内容や依頼人についてのメモを取るぐらいのもので、金の計算なぞする気の無い銀時の性格もあって、家計簿も出納帳にも縁が無い。 身分詐称などを行う時の書類の偽造にしたって知り合いの代書屋に頼んで手に入れるか適当にやっつけるかの何れか。 詰まる所、机に向かってコツコツと公文書を仕立てるなど、万事屋の業務にも無ければ銀時の性質との合わない仕事でしかないと言う事である。 土方に言われる侭に彼の代書を、出来るだけ今までの土方の筆跡を真似て書いて行く。それ自体性に合わぬ単純作業である為、慣れぬ動きを強いられる銀時の腕も忍耐も結構に疲労していた。 ふと見上げた時計は午後の五時を回っている事を示している。そんな、三時間ばかりの間ずっと貼り付いて机仕事ばかりをしていたと言う事を教えている時間経過に、そりゃ疲れる筈だ、と小さくこぼして、銀時は出涸らしのお茶を啜った。 空いた左手で未だ高く残る書類をぺらりと捲ってみれば、更に溜息が追加される。どう考えても普通の量と見て良い分量では無い。 「二日分、ったっけ?お前いっつもこんなんやってんの?そりゃ忙しい訳だよ、仕事人間つーよりもう気持ち悪い人間だよコレ、この量」 「誰が気持ち悪いだコラ。真選組(うち)はテメェん所とは違って役所なんだよ。役所って所は古今東西面倒臭ェもんなだけであって、俺が好きこのんでやってる訳じゃねェわ」 銀時の軽口にふんと鼻を鳴らして、土方は厭そうにそう言いながら右袖を揺らした。そこではっと気付いて、今度は溜息ではなく舌打ちをする。その目と左手とが煙草の一本を探し出し、 「……全く、不便でならねェ」 そう、忌々しげに吐き捨てる。 書類仕事の便が、ではなく。右腕が『今』は使えないのだ、と言う事に対して。 「……」 銀時は無言で、土方の動きに先んじて机の上にあったライターを手に取ると、火を点けてその口元に差し出してやる。 「………」 土方は一瞬愕いた様に銀時と、目の前で揺れる火とを見たが、ふ、と柔い苦笑を形作ると煙草の先を火へと近づけた。吐く息遣いと吸う息遣いとが、立ち上る紫煙と共に室内に散らされて行く。 「治るまでは、不便だよな」 銀時の、真意を隠した言葉も同じ様に。無意味に、吐かれて消えていく。 「………あァ」 応じる土方の、屈託の無い表情も。 用の無くなったライターを落として、銀時は己の手の眼前にある土方の片頬へと掌を触れさせた。煙草を掴む左腕はその侭で、右袖がまた揺れる。払い除けようとしたのかも知れない。 「……仕事中だぞ、馬鹿」 「別に何もしねぇって」 左掌に在って、思い出せる体温と。右掌が今触れているこの温度と。その距離の何と遠い事だろうか。 何とか作った笑みを絶やさない様に意識して、銀時は出来るだけ軽く聞こえる様に言う。 「ゴリラの過保護に感謝しねェとな」 「何でだ」 「仕事で忙しい筈のおめェの所に来れたし関われた。って言わせんなバカヤロー」 すれば土方は、砂糖だと思って舐めたら塩だった時の様な微妙な顔をした。 「それこそ、馬鹿野郎だな」 く、と喉が鳴って笑いを浮かべる。そんな土方の様子からは矢張り悲壮さや苦しさの欠片も見えては来なくて──銀時は得も知れぬもどかしさで胸が一杯になった。 空の右袖に払える手は無く、銀時は暫くその侭動けなかった。 。 ← : → |