呼気を鎖し 刀をはじめて手にしたのが何歳の頃だったのか、沖田はよく憶えていない。 寺子屋にも馴染めず一人で居た所を近藤に声を掛けられ、剣術道場だと言う古い家に連れて来られたのは未だ十に満たぬ頃だった。 一緒に剣術をやるか? 自分より一回りは大きなおとなににこりと笑ってそう言われ、おずおずと頷いた日の事を沖田は忘れた事は無い。 それでも子供にいきなり真剣を持たせようとする筈は無いし──そもそも道場にも真剣など置いていなかった──、その頃はずっと竹刀を振り回していたのは慥かである。真剣を手に人を斬った経験など、江戸に出て来て『真選組』として成ってからの事の筈だ。 だ、と言うのに沖田の身に刀と言うものは非道く馴染んでいた。ひょっとしたら近藤に出会うより以前のもっとずっと幼い頃に刀を手にしていたのではないかと己を疑いたくなる程に。 人を初めて斬った時にも特に感慨も恐怖も何も無かった。足下に転がる死体の一つが自分であった可能性を思えば、これは強者の道理なのだろうと思ったきり。人為しかない自然の摂理に対して、ただ生き延びて、黒い制服の血汚れに不快な表情を浮かべていられる──それが結果なのだと理解して、それでお仕舞い。 逆に、近藤や土方の方がそんな沖田の様子に気を揉んでいるぐらいだった。矢鱈話したがったり、遠回しに気を遣ってみたり。今思えば彼らのそんな反応の方が正常だったのだろうと思う。 人斬りの所業は、沖田にとって真選組の職務の一つとして在るものと同時に、それ以前から身に馴染んでいると思い違える程に『何でもない』ものだったのだ。 刀をはじめて手にしたのが十歳の頃だったとして、人を初めて斬ったのが何歳の頃だったのかは判然としない── ……とは言った所で、事実、そんな大昔の記憶がある訳ではない。単純に剣術に習熟し過ぎた挙げ句の、一種の超越感の様なものなのではないかと沖田はそう思う事にしている。 刀を手にして来た年月は近藤より短いが土方よりは長い。だが、三者の剣術の腕前はそんな年月に全く拘わりは無い。故に、己だけがそんな風に感じる様になって仕舞ったのは、己が二人とは違うからだろうとそう思ったのだ。 『違う』と感じられた事実として取り分け悔しかったのは、年齢の差と言う隔たりだ。おとなには、おとなにしか解らない道理や空気がある。そこだけ『通じ合う』様な疎外感がある。強くなっても、背伸びしても、埋められない隔たりがある。己が彼らと同じ年齢になっても、その空隙は決して埋まる事はないのだと、そう知った時にももう失望はしなかった。 近藤は沖田にとって何よりも大事な人で、土方はそんな沖田の前に立ちはだかる壁だった。壁と言っても、それはその頃の沖田が一方的にそう認識していただけの事だったが、あの頃は後からふらりと現れては近藤の関心も姉の愛も奪って行った土方は、本当に沖田にとっては心底に払い除けたい対象であった。 それが実際の殺意へと昇華しなかったのは──近藤や姉が、彼と居る時には自分と居る時の様に微笑んで居たからだ。アレが居なければ彼らは微笑めない。彼らが微笑んでいてくれないと、自分も生きる事なんて出来ない。だからだ、と。 諦め許容はしたが、それだからと言って沖田の裡から土方に対する複雑な種の感情が消えた訳では決して無い。 近藤にとって三人で居る事が段々と当たり前になって行っても、沖田にとっては何かが違って、何処かが違った。詰まる所沖田は、近藤や姉と言う言い訳を前に、土方に対して己の抱く感情をずっと定めかねていたと言う事だ。 嫌いだと憚らず口にしては、斬りかかったり悪態をついたり迷惑を掛けたり──何にも遠慮せず思う侭に好きにして来た。それが原因で土方が怒鳴り声を上げたり胃を痛めたり仕事の嵩を増やそうが、罪悪感なぞ一つも憶えたりはしなかった。 土方もその都度、罰則と言う名の反撃や埒もない反論はするのだが、それは沖田にとって然程の意味を為す様なものではない。だから、沖田の自由気侭な行動に歯止めは一切掛からない。 年上の悪癖と言うべきなのか、土方は沖田のする事に対していちいち眉尻を吊り上げて本気で怒るのも馬鹿馬鹿しいと感じていた様なのだから、自業自得と言えたが。 要するに。さして意識していないだろうが、近藤も土方も沖田に甘かったと言う事だ。厄介なのは、それこそが沖田の尤も厭う、彼らにされる『子供扱い』なのだと、近藤も土方も今ひとつ理解していない事であった。 やがて沖田は、近藤の許容と土方の受容に余りに慣れ過ぎた。三人で居る事に、慣れ過ぎた。 喪いたくない。置いていかれたくない。あの二人の見ている目線を同じ位置で追いたい。だから、『今』この時が永遠に続けば良いのにと思った。仮に真選組が世界から追われる事になっても、近藤に従って土方を日々からかって怒られて、そんな日々が続いて、生きていければそれでいいのに、と。 それが敢え無く崩れ去った時、沖田はただ茫然としていた。 死体の振りをしている奴が死体の山の中に潜んでいるのには気付いていた。恐怖と興奮とで荒い呼吸が血溜まりを作る数々の屍の山から響いて来るのを、さてどうしてやろうかと考えて近付いて行く。 情報が必要だから生存者も何人か残せと言われていたかも知れない。でもそれは土方の命令であって、沖田の望みでも何でもない。 飛びかかって来たら斬ろう。死んだふりをして逃れようとしているのであれば、立ち去る素振りを見せて安心した所で斬ろう。沖田がそんな事を考えたのは、その日は少々機嫌が悪かったからだ。 命日だったのだ。それなのに、墓の前へ花を手向けに行く暇さえ無く、朝から大捕物に追われてそれどころでは無くなった。だから、少しぐらい八つ当たりの向ける先を求めたくなったのだ。 男が死体の山から起き上がって走り出した時は、舌打ちしてそれを追った。そして、その目前に土方が現れて──、 気付いた時には、倒れた男の亡骸の傍に土方の右腕が転がっていた。 土方は沖田を責めなかった。それでも、落ちた腕が未だ刀を握り締めている事が何よりも沖田を打ちのめした。 世界が壊れたのだ──と思った。いつか、土方が初めて現れた時と同じ様に。あの時は土方の存在が割り込んだ事で沖田のささやかな生活が壊れた。そして今回は、土方の存在が消える事で、沖田の、この気に喰わない奴がいる、然し少しだけ居心地が良くなって来ていた、世界が。 土方は、沖田を庇おうとしたのだと言った。 ……それはある意味では間違っていなかっただろう。 彼は、沖田の事を護ろうとしたのだ。そして、その結果──全てを護れない存在に成り果てた。 右腕の亡い事を理解した土方は、近藤を護れないと嘆いた。真選組を護る事が出来ないと哭いた。己の過失を、沖田の後悔を、呑み込んで只。 ──だから。 護られた分を、許された分を、その侭返そうと思ったのだ。 喪った右腕となればいい。喪わせた右腕になればいい。今までと変わらず三人で並び立てる様に。 それが、人を斬る事しか出来ない沖田総悟の下した結論──護り方だった。 * (それで、本当にあん人は全て忘れちまいやがったんだから仕様がねェだろ) 護ってあげますなどと、決して口になどは出来ないし、仮に告げた所で拒否される事も同様に間違いないのだろうが。 沖田の護るべき世界には、近藤と土方の存在が既に欠かせないものとなっている。だから、この侭で良いと沖田は思うのだ。日頃振り翳す土方への悪意でも無く、況してや善意でもなく。ただ望む侭在る侭の形を維持していられるのであれば、それで。 (問題は、旦那が何考えてんのか良く解んねェって事だ) そう、不快な表情を隠さずごちた瞬間、沖田は自らの全身が腐敗し崩れ落ちて行く様な倦怠感を憶えた。 土方を護ろうとする沖田と、土方を歩かせようとする銀時と。正しいのは果たしてどちらなのか。 近藤が銀時へと依頼し、土方もそれに応じた。だから銀時の行う事に沖田が意を差し挟んで良い謂われは無い。だが、飽く迄銀時は部外者なのだ。土方に苦痛を味わわせてまで現実を直視させても、銀時にはその後の土方の痛みを背負う事など出来ない。 見ていれば彼らが見た印象程に仲が悪い訳ではないと言う事ぐらい直ぐに知れるが、それでも両者の生活域がまるで異なると言う事実に変わりは無いのだ。銀時には真選組副長としての土方の責務も痛みも知る事は出来ないし、真選組副長に成り代わる事も出来ない。この『依頼』が終われば離されるだろう手に土方の半生を委ねる事など、沖田に赦せる筈も無い。 (……旦那がどう思おうが、何をしようが、俺のする役割に変わりなぞねェ) 万事屋としてのお節介や多少なりの同情があったとして、それは土方にも、土方の抱える真選組にも、何の慰めにもなりはしない。無責任な慰めは時に他者を傷つける。 その覚悟も責任も、全部背負ってやれるぐらいの覚悟と立場を持つのは、少なくとも土方に対しては近藤と己の二人しか居ないと沖田は思う。 (誰も割って入れやしねェって、……そう、思ってたんだけどねィ…) 無意識に漏れた溜息を庭の方角へと逃がして、沖田は縁側を歩く事に集中する。思考に気もそぞろになって随分とのんびり歩いていた気がする。 片手には見廻りの途中で土産に買った煎餅の袋。丁度帰りが土方らの仕事の合間の休憩時間に近いと見ての事だ。甘いお茶請けを選ばなかったのは沖田なりの嫌味の様なものだ。銀時がそんな事をいちいち意に介すとも思えなかったが。 「総悟、」 すす、と襖を開くなり名を呼ばれて、沖田はきょとんと声のした方へ視線を遣った。果たして部屋の主である所の土方は書類の山の散る机に向かうでも無く、部屋の隅の行李を開いて何やら捜し物をしている様子だった。 「仕事サボって何してんですかィ」 卓の上に土産の袋を置きながらそちらに近付けば、土方は筺の底から漸く目当てのものを探し出した様だ。左手一本で取り出したそれを畳の上へと拡げてみせる。鞣した皮を筒の様にくるりと巻いたそれは、応急手当の道具などをまとめた携帯用の治療キットだ。 「サボってねェよ、休憩中だ」 さも心外だと言う様に唇を尖らせて言いながら拡げたキットの中から包帯を探し出すと、土方は沖田にそれを差し出した。 「これ、悪ィが頼めねェか」 差し出した手の中には包帯が一巻き。その掌には見覚えの無い胼胝やマメと言ったものが細かな傷と共に出来ている。 「……旦那はどこでィ」 思わずその掌から、部屋を見回す素振りで目を逸らして沖田は問う。声は少し不自然に固かったが、土方がそれに気付いた風はない。 「休憩ってんで茶ァ淹れようとしたら湯が無ェってんで、食堂に取りに行った。タダだと思って何杯飲む心算なんだかな、あの野郎は」 く、と喉を鳴らして笑う土方の横顔が、その柔らかさが、沖田の心をぎしりと軋ませる。 何が可笑しいのか。 解っているのか。 「で、山崎も出てていねェしな。これ頼めねェか。軽く巻くだけで構わねェんだ。流石にマメが潰れると筆も持ち辛くて叶わねェ」 言って指し示すのは、その手の傍らに転がっている木刀。巫山戯た銘の入ったその棒きれを 解っているのか、 余程上機嫌なのか、土方の舌はいつもよりも軽かった。返事の無い沖田に焦れるでも疑問を抱くでもなく、ただ気分の向く侭に、いつに無く素直に、楽しそうに、言葉を紡いでいく。 「野郎に朝から左腕の鍛錬に付き合わせたんだが、ちっとばかり張り切り過ぎたな。今になって痛んで来やがって」 解っているのか。 そいつはそうやって、肝心な時だったとしてもアンタから容易く手を離せる奴なんだと。 (──左腕で刀を手に取ったからと言って、何になるってんだ) 思った瞬間には片手が鞘を飛ばして、抜き身の刃が沖田の手の中で翻っていた。 銀の閃きを見るのが早いか感じたのが早いか、目を見開いた土方の右腕が反射的に跳ね上がる。傍らにあった木刀を掴んでいた『筈』の右袖が虚しく振られるのを、沖田は憐れみとも諦めともつかぬ目で見た。 (ほら、何も意味なんてありゃしねェ──) その侭沖田の向けた刃の切っ先は、狙い違わず土方の右腕を──否、右袖を貫いて壁に真っ直ぐに突き立てられている。喉奥で引きつった様な音を漏らした土方は左の腕を木刀へと伸ばすが、指が柄に届くよりも沖田が蹴り飛ばす方が早い。 「っ──!」 手の先から奪われた得物と、壁に縫い止められて動かない右『腕』とに寸時息を呑んだ土方は、然し直ぐ様に動揺を憤慨へと切り替えた。刀を両手で掴んだ侭自らを見下ろしている沖田の至近の顔を睨み上げて来る。 「……テメェな、悪巫山戯にしちゃタチが悪ィぞ」 袖を貫く、沖田の剣には何の感覚も無い。布と壁を突き通すだけの事には技倆も無い。感慨も無い。何も無い。何も、要らない。 何も、無いから。 「総悟、」 ぎ、と奥歯を軋らせて言う土方の声に苛立ちが混じるのに、沖田は意識せず嗤っていた。 苛立っているのは、腹が立っているのは、どっちだと思っているのか。 (アンタが、あんな事さえしなければ、) 庇ったりなんて、しなければ。 こんな事には、 「…ほら、戦うなんて出来やしねェ。戦える訳がねェんだ」 声には失望の響きが濃かった。 ひやりと耳に触れた沖田のその言葉に土方の背がびくりと跳ねて、刀の貫いている空っぽの袖がまるで何かに怯える様に揺らされた。 総悟、と戦慄く唇が紡ぐのが見えた。 それが制止故にだったのか、怖れ故になのか。そんな事は沖田には知る由も無い。 何も無い。何も無くなった。 逃げ回ろうが目を閉ざす事を赦そうが、その事実にだけは変わりは無いのだから。 それだと言うのに、役立たずの右袖を翻して前へ、前へとばかり進もうとなんてしてやがるから。 「アンタの右腕なんてもう、無いだろィ。アンタはもう、昔みてェになんて戻れやしねェんだ」 途方も無く腹が立って、気付いた時には言葉は口から放たれていた。 。 ← : → |