肢に悼みし



 目前の闇はただただ暗かった。
 光が無いのに暗いと感じるのは妙だと思ったが、ここが視界の全く効かぬ暗闇の世界であると認識すれば、それは矢張り暗いとしか言い様が無いだろう。何も見えない、聞こえない、ただただ暗闇と静寂とが支配する世界。
 夢を見ているのだろう、と土方は自然とそう思った。夢とは荒唐無稽で意味の解らぬ理不尽だけが闊歩する様な世界である事が殆どだ。
 だから意味は無い。何も無い。……何も、無い。
 振り切ろうとしても、そうした達観と相反する感情が胸の下に存在している。正体も不明のそれは、意識すれば肉体を突き破って全身を忽ちに覆って、土方の事を壊しにかかって来るだろうと思えた。
 何故かは……解らない。
 ただ、理屈ではないだけで。
 ずっと、そう言った焦りにも似た恐怖が自分にぴたりとくっついて離れない。それだけが確かに解る。闇と静かの、何も寄る辺の無い世界で、油断すれば恐慌へと変じて仕舞いそうな危機感だけがそこに在る。
 土方は左の手で自らの腰(と思える所)を探った。刀を自然と求める心の赴く侭に手を伸ばして指を動かしてそれを求める。
 いつも通りに柄に指が触れて、違えず安堵した。求めたものは此処にある、だから、
 (……そうだ。これさえあれば、俺は、)
 その時、そんな土方の行動にまるで応じる様に眼前に不定形の『敵』が涌き出た。反射的に身構えた土方の横を、抜刀姿勢を作った沖田が駆け抜け、負けじと次々に真選組隊士たちが次々に続く。
 戦場だと思った。なれば闇は恐怖の具現では無い。戦い切り拓く途だ。恐怖を、焦燥を、断ち切る己の心の置き処は常にここに在るのだから。
 土方も仲間達に続こうとして──     不意に、右腕が非道く痛んだ。
 右の腕が、ぶら下がって動かない。がくりと体勢が崩れる。重たく、錘でも括り付けられた様に全く腕が、動かない。
 (どうして、──)
 まただ。刀を求めようと身体を動かせば、不自由に藻掻く芋虫か何かの様に脚が無様に縺れて、思わずその場に膝をついた。やっぱり、まただ。また、右の肩から下が動かない。刀を握り戦いに出なければならない、腕が。指が。僅かたりとも。
 「!」
 そんな土方の横を、近藤が駆け抜けて行くのが見えた。大将の尊く大きな背が戦場に立ち号を上げるのに、真選組の仲間たちがそれに応えんと鬨の声を上げる。
 「──、」
 見慣れた風景を、傍観者の様に遠く追い遣られた所から見ている。身を斬り抉る様なその恐怖に堪らなくなって土方は彼らに向けて手を伸ばそうとするが、求む右の腕は動かない。腕が、動かない。
 がしゃん、と無粋な音を立てて刀が腰から落ちた。鞘から抜かれぬ侭の、役に立たぬ物体が足下に転がるのに必死で手を伸ばすのに、届かない。動かない。
 これが振るえないと、あんたを護れないのに。
 (何でだ、どうして動かない?!どうして、動けない?)
 土方が歯噛みし藻掻くその間にも、近藤の背はどんどん遠ざかる。仲間たちの姿が遠ざかる。眼前の敵も、未来も、切り開いて進んで行く彼らに置いていかれない様に、土方は必死で腕を伸ばす。手を広げる。指を掻き寄せる。
 だが、届かない。のばせない。動かない手が、宙を掻く。何も掴めない、そんな虚無の感覚だけが生々しい。
 ぶら下がって動かない、右腕の重みだけが──その無意味さが生々しい。
 苦しさに喘いだその時、自然と左の腕が動いた。今まで動ける事さえ忘れていた様な腕は、吸い込まれる様に足下に転がった刀を見据え、確りとそれを掴み取る。
 「…………」
 まるで、始めからそこにずっとあった様に、左の手の中に刀が在る。
 息を呑んだ土方が顔を起こせば、そこには一人だけ、立ち止まった沖田がこちらを振り返っていた。
 ……大丈夫。もう動いた。だからきっと、もう届く事が出来る──そう紡いだ言葉が通じたのか、それとも端から置いて行く心算だったのか。沖田は直ぐに背を向け駆け出し、立ち上がった土方もその背を追って地を蹴った。
 気付けば、寄る辺の無い様な不快な感覚も遠い。
 大丈夫だ。
 繰り返し、自らに言い聞かせる様に土方は呟いた。
 まだ自分は戦える。まだこの剣は生きている。まだ、真選組を潰えさせなどしない。
 左腕は滑らかに動いて不器用に『敵』を斬るが、右腕が──動かない右腕がその存在を主張する様に痛んだ。
 大丈夫だ。堪えられる。
 奥歯の間に焼ける様な痛苦を噛み潰して、土方は動かない右腕を引き摺って左腕で刀を振り翳した。誰かに手を取り導かれる様に、左腕は土方の痛苦を無視して翻り踊り続ける。
 熄む事のない激痛の中で、動かない掌の中にほんのりと温かな感触を見つけられた様な気がした。
 
 (これを、見つける事が出来れば──俺は、)
 
 *
 
 掴もうとした温度は、指から擦り抜けた。
 「──」
 ぜ、と息を吐き出せば、暫くの間呼吸を忘れていた様に喉が笛の様な音を立てて鳴った。ぜいぜいと喘鳴に似た音を繰り返す喉と、激しく上下する胸の動きに狼狽しながら土方は身を起こす。
 「──………、」
 何か、とても苦しい夢を見ていた気がするが、何を見たのかは思い出せない。
 夢なんてそんなものだ。荒唐無稽で意味の解らぬ理不尽だけが闊歩する様な世界である事が殆どの記憶、そんなものを思い出そうとした所で意味など無い。
 苦しいが、夢見と言うには余りにリアルで、目を醒ました今も近くに寄り添っている様な感覚さえする、そんな──夢、だ。
 鼓動の度に何処かが痛む様な錯覚を憶え、土方は右袖を揺らして部屋の中を見回した。何かの救いか理由かを求めたそんな視線は、ふと刀架に置かれた自らの刀の所で止まった。
 「………」
 左の腕をぼんやりと見下ろす。昨日の銀時との『休憩』──もとい手合わせでは木刀を握っていた掌だ。
 この腕が、戦えるのだろうか。
 そんな事を考え、その無意味さに首を傾げる。左腕での剣術なぞ、一時の緊急の行動以外では普通行わない。つまりこれは、右腕が治れば用を為さない技能だ。
 空虚に揺れる袖は刀架へとは伸びず、代わりに左の手がそちらに向かう。
 布団の中から床の間へなぞ、届きはしないが──それでも、何かを望む様に。求む様に。
 
 右腕が、堪えかねる様に痛んだ。







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