腑の澱みし



 人間の身体は結構に玄妙なバランスで出来ていると銀時は思う。
 例えば足。指の一本、爪の一枚を痛めただけで途端にバランスを取ったり歩行をする事に困難が生じる。或いは、怪我をせずとも僅か数糎の段差に予期せぬ遭遇をしただけで容易く転ばされる。
 手だってそうだ。指の一本を失っただけで力が入らず上手く物が掴めなくなる。
 況してや腕の一本を失う様な事になれば、健常者の様に四肢の均衡を易々保つ訳には行かなくなるだろう。在る筈の、在った筈の重量が、存在感が無い事に、人はそう簡単に慣れはしない。
 元より剣技と言う点で見れば、土方は直感に頼って動くきらいがある。目と感覚とが鋭敏過ぎる余りに、脳が冷静に思考するより脳が身体を動かす方が早いのだ。
 それを致命的な欠陥だとは思わない。寧ろ持って生まれた感覚の『才能』が実戦で培われた危機察知の『能力』と噛み合った、銀時や沖田とはまた異なった形の天性の剣士と言えよう。
 数々の修羅場に晒されてきたからこそ鍛え上げられたその能力は、良くも悪くも己に合った戦い方を土方に身に付けさせたのだろう。
 頭で考え、然し身体は直感的に動いている。そして厄介な事に、土方の直感は己の損害よりも敵に与える被害の方を重視する傾向にあるらしい。結果的にその『選択』は大概の場合土方自身の身を危険に晒す。それでも勝てはするが、戦に於ける戦いと言う意味では致命的である。
 その一刀で敵の命を奪えても、他の敵にとっては相手の傷が一つ増えただけに過ぎない。多数の戦力の衝突する戦場では、ひと一人の命の損耗は然程に重要な損失とは数えられないのだから。
 結果的に、傷を負えば負うだけ不利になる。否、そもそも傷など負わぬに越した事は無い。戦場では敵など縦横無尽に存在する。傷の一つも負わぬぐらいの気負いで挑むのが普通だ。が、土方の戦い方からはその辺りの思考が致命的な事に、欠けている。
 避けるより、捌くより、向かって払う。受けて除ける。そんな、銀時から見れば無謀良い所の戦い方で、然し土方は今に至るまで五体満足で在り続けた。在り続けて、いた。
 土方は確かにそう言う意味では『強い』。……良くも悪くも紙一重に、だが。
 ……それが、土方の戦う姿を何度か目にした事のある銀時の感想である。
 「クソ、」
 銀時の振るった枝を寸での所で避けた土方の右袖は虚しく揺れるだけで、想定していた様な枝を振り払う動きにはならない。左腕の得物の存在を思い出した所で、意識が咄嗟に腕を動かすには数秒遅かった。
 とん、と肩に落とされる枝先を忌々しげに見遣って、土方は至近の位置にある銀時の顔を睨み付けて来る。然しその面相に不本意そうな鬱屈は宿っていない。苛々と言うよりは不敵に笑って、
 「もう一度だ」
 悔しそうにそう紡ぐのに、銀時は思わずやれやれと苦笑した。
 「……なー、楽しそうな所悪ィがちょい休憩しねぇ?そろそろ銀さん疲れ気味、」
 「あ?挑んで来たのはてめぇだろうが。責任取って最後まで面倒みろや。こちとらストレス溜まり放題なんだよ」
 「それ出来ればベッドの中で聞きたい系の台詞dあいたたたた!!」
 腰が退けてみれば一歩迫って凄んで言われ、挙げ句の果てには木刀で爪先をごりごりと刺されて銀時は悲鳴を上げる。
 「ちょおま、待った、ちょい待て!何時間も机仕事させられた挙げ句に運動とか超過労働だっつぅの!それにホラおめーも一応病み上がりな訳だし!な?大事を取ってここは休むべきだと思うつーか休もう休みましょう休ませて下さいお願いします」
 「チッ、使えねぇ」
 「……何でこんな辛辣なのこの子。全く、誰の教育だよ」
 爪先に未だめり込んでいる木刀を奪い取る勢いで押さえて一息に、兎に角必死で銀時が言うのに、土方は暫し考える素振りは見せたが、大人しく縁側に戻ると腰を下ろした。大きく息をついて、それ以上言い募らない所を見ると、休憩が必要だったのは土方の方にも強ち間違いでもなかったらしい。呼吸もまだ弾んでいるし、この侭今日はお開きの方が良いだろうかと考えながら、その横に銀時も腰を落ち着けた。
 「……………存外難しいもんなんだな。その分張り合いがあるが」
 やがて土方がぽつりとそう呟くのが聞こえて、銀時はそちらを振り向きはしないで空をただ仰いだ。肯定してやるにも、適当な慰めを掛けるにも相応しい言葉など出ては来なかったのだ。
 難しい、と土方は口にした。確かにその通りだろう。利き腕ではない、生まれてこの方利き腕として扱った事の無い腕での、命の遣り取りなどを誉めて促す様な無責任な決意は銀時には出来ない。
 土方の身に付いたある種の性癖と言って良いだろう、過酷で苛烈な、死と隣り合わせに程近い戦場(ばしょ)でこそ彼の精神は活き活きとする。いっそ不遜な程に、己の死を疑わず立ち向かう。
 己の背後でわらう死神の姿なぞ見た事が無いのだろう。己自身が死神で在り続けられたが故に。
 そんな土方だ、左腕一本でも『使える』となればまた今までの様な戦い方を繰り返す事は想像に易い。その点は銀時にとって懸念して然るべき事実──になるだろう想像──であった。
 枝相手であろうと全く変わらぬ土方の戦い方からもそれは裏打ちされている。刀ではない、枝だからと馬鹿にしている訳ではない。基本的には避けるなり捌くなりをしようとするのだが、好機があると見れば喉の直ぐ横に敵刃が迫ろうが厭わず自らの刃をねじ込んで来る。飽く迄致命の箇所への負傷は避けているが、それにしたって結構に無茶な真似を平然として来る。時には態と隙を晒してそこを衝こうとする。どれだけ好戦的なのだと思わず苦笑も浮かぼうものだ。
 だが、今の土方は、得物を手にしているのが左腕であり、右の袖はただ揺れるだけの布である、と言う大いなるハンデを抱えている。
 癖で右腕が動こうとしては、思い出して左腕を振るう。右腕の無いバランスに姿勢を崩す。それだけならまだいい。困った事に土方は、そこに生じる己の隙さえも利用して戦おうとして来るのだ。
 正直、手に取ったのがただの枝で良かったと思う銀時である。木刀であったら加減が効かなくなっていそうな場面も何度かあった。
 ……ついでに、土方が手にしているのも真剣ではなくて良かったと、これは心底に思う。
 何せ。当初は腕も木刀も上手く扱えずにいたのだが、何度か繰り返す事で慣れを憶えて来たのか、少しづつ、本当に少しづつではあるが、刀捌きも体捌きも始めた当初よりはマシになって来ているのだ。この侭上達したら互いに下手に『慣れ』があるのと無いのとで、それこそ怪我でもしかねない。
 とは言ったものの。『左腕』の上達自体は喜ばしい事だろう。土方自身もこの鍛錬を楽しめている様だし、今までの様な実戦の中で使うには未だ到底無理だろうが、上手く行けば少なくとも己の身を護る事ぐらいは出来る様になるのではないかと思われた。
 それが、喪くした腕の代わりになれば良い、などと無責任に思った訳ではない。ただ、心配だっただけだ。
 『今』の土方が現実を見る事が出来ずに居たとして、それは決して永遠に続くものでは無い。いつかは土方自身がそれに気付く時が来る。
 今は一時の逃避でも良いかもしれない。だが何れは治らぬ右腕に疑問を抱き、そして失ったものの痛みに気付く筈だ。そしてそれは遠からず必ず訪れ、土方を打ちのめす現実となる。真選組を苛む危機ともなるかも知れない。そうなった時に何よりも悔いて苦しむ事になるのは土方自身だ。
 土方の右腕の代わりには、銀時にも、近藤にも、沖田にも──誰にだってなれない。土方が自分自身でその欠損を埋めるほかに、失った空白を埋める事の出来るものなど存在しない。
 だから、ふと思いついて剣を持たせてみたのだ。
 喪くしたものの代わりになぞならないが。喪くした重さと戦う為の刃になれば、と。そんな事を思って。
 それが己のエゴである自覚はあったが、それでも遠くない未来に土方が知るだろう絶望を思えば、銀時の心境としては少しでも何とかしてやりたいとは思わずにいられない所なのだ。
 (そもそも…、やっぱ何度考えても、らしくはねェんだけどな)
 土方は沖田を庇って腕を失ったと言う。それが沖田の過失から生じた様な事であれば、沖田の被る罪悪感を軽減してやりたいと思った土方の心の運びは、銀時には解らないものだが、かと言って理解を示せぬものでは決して無い。
 だが。現実に蓋をして右腕の喪失を忘れる、それが本当に土方の望みだったのだろうか。
 山崎の見立て通り、土方にとって全てにも等しかった右の腕での『仕事』が、それの今まで生み出した価値観が、全く己にそぐわぬものと成り果てたから、土方は全てに──都合の悪い現実を──蓋をして呑み込んで仕舞ったと言う方が未だ解り易い気がする。こちらはこちらで納得が出来ないと言うのが銀時なりの感想ではあったが。
 何せ、銀時の知る限りの土方十四郎と言う男ならば──、
 「オイ。もう休憩は充分じゃねェのか」
 ふと、空を見上げて黙然と思考に沈んでいた銀時の横顔へと土方の視線が向けられた。呼吸もすっかり整って、また戦うぐらい何て事も無いと言いたげである。すっかり一休みどころか永久休みを決め込みたかった銀時にとっては「マジでか」そう言いたくなる所だ。
 かと言って手合わせ(のようなもの)に付き合わなければ机仕事の続きを迫られるのは間違い無い。部屋に逃げても庭に逃げてもどちらも大差ない、思わず目を游がせて隣から向いている土方の視線から逃れるが、この侭ぐだぐだとしていたい銀時に逃げ場などは無かった。
 「土方さん、届け物ですぜィ」
 そこに神の様なタイミングで助け船が差し向けられた。余り歓迎したくはない闖入者だが、今は諸手を挙げて受け入れたい。
 銀時と土方とが振り向けば、部屋の襖を開いた沖田が、何やら手に持ったファイルの様なものをひらひらと揺らしてそこに佇んでいた。
 「何でも、今日中に目を通して貰いてェ書類だそうです」
 「…そうか」
 木刀を置くと立ち上がって部屋へと渋々戻る土方の溜息が「残念だ」とあからさまにこぼすのに若干の居心地の悪さを憶えて仕舞う銀時だ。
 沖田からファイルを受け取ると、土方はそれを卓の上に置いて腕で押さえながら一枚一枚の頁をしっかりと順繰りに繰って行く。非常にやり辛そうではあったが、銀時も沖田も手も申し出も出さないし、土方も助けを求めたりはしない。
 土方は暫しその侭難しげな表情を保ちながらファイルの中身を読んでいたが、やがてしみじみとした様子で呻いた。嬉々としていないのは、息抜きもここまでになると思ったからなのか。
 「万事屋。喜べ、仕事が増えたぞ」
 「イヤ増えるつーかもう増えてるからね既に。増えようが無い程増えてるから」
 土方の置いて行った木刀を拾いながら未だ積み重ねられている書類山を見れば、今更ファイルの一冊二冊分の内容の追加ぐらい何と言う事も無い。だからと言ってそれは『増えて良い』訳では決して無いのだが。思って銀時は件のファイルを持って来た張本人の姿をちらりと盗み見た。寸時ではあったが、あからさまな抗議の視線を受けて沖田は肩を竦めてみせる。
 「別に俺の所為じゃねーでしょ」
 まあそうですけどね。そう声には出さず溜息をついてから銀時は立ち上がった。先程までは息抜きの運動こそ真っ平だと思っていたが、机仕事に(しかも更に増えて)戻されるのは更に真っ平だと思うのだから、全く勝手なものである。
 「その前にちと厠」
 「…………茶ばっか飲んでるからだ。とっとと行って来い」
 言って部屋を出て行く銀時の背を追ったのは土方の溜息と、
 「じゃあ俺はこれで」
 そう言い残し廊下へと出て来た沖田の足音だった。
 土方の部屋を少し離れた所で不意に銀時が立ち止まると、背後に続く足音もまた同じ様にその場で停止する。
 「……連れション?」
 思わず振り返って銀時が問うのに、沖田は飄々とした風情で返して来る。
 「やめて下せェよ。そんな暑苦しいのは御免でさ」
 「じゃあ何」
 特に揺らぐ気配の無い表情を見据えて、溜息に乗せて問う。偶然や気紛れではあるまいとは知れている。沖田の無表情は子供の泣き真似以上に信用出来ないと銀時は思っている。同じドS同士と言う意味以上に、本能的な所で。
 今回の土方の一件で沖田が何かを内心に抱えているのは間違い無い。主に銀時に対して思う所があるかの様な素振りは今までに幾度か目にしている。何を考えているのか。何かを考えているのか。
 果たして銀時のその考えは外れてはいなかった。沖田は腕を組むと手近な壁に寄り掛かって細く、長い呼気を吐き出してからゆっくりと口を開いた。
 「旦那の気持ちも解るんですがねィ、あまり余計な事をしねーで貰いてェんでさァ」
 それは静かで抑えた声だったが、抜刀しかかった刃にも似た慥かな牽制の意を篭めて響いた。触れたら斬られそうな声音に銀時はそっと眉を寄せる。
 沖田は『余計』と指すものの仔細を敢えて示してはみせなかった。だからこそ銀時は、この少年が『何』に怒っているのかを正しく掴むに至った。
 ──そう。沖田は『怒って』いたのだ。
 銀時に。或いは土方に。それとも──己にだったのかも知れない。
 「土方さんは頭で真選組を、近藤さんを支える。俺はそんな人らの剣になる。それで良いでしょ。今まで通り。何一つ変わりゃしねェ」
 淡々とそんな事を言い切る沖田の表情に宿っていたのは紛れもない瞋恚の色。
 『喪った』土方に対し優越感を憶えるでもなく、近藤に対して申し訳無さを憶えるでもなく、一人で『その形』を──彼曰くの『今まで通り』を保ち続けるのだと言う自負と自責。その原動力こそが激しい怒りだ。
 己の喪わせた土方ごと真選組を、土方の想いを受けて護ると言う決意の顕れ。怒りと苛立ちの果てに生まれた、フラットな感情。
 面の皮一枚の下に潜めて隠した激情は、大凡無表情を保った沖田の外見からは伺い知れそうもない。だが、己に──己の裡へと──向けられる瞋恚の感情には、生憎と銀時には憶えも心当たりもあり過ぎた。
 誰かを護る為に投げ出される命に、尊さなんてものは無いのだと、よく知っている。
 だから彼の怒りが解る、とは言わない。恐らくは解らないからだ。
 ただ、痛みを知ってやる事は出来る。知られたいなどと望まれてはいないとも解っているのだが。
 「……ま。お宅らは依頼主だし?俺には何か言う権利も義務も無ェかも知れねェが。
 ……………これが答えなんじゃねェの?」
 銀時は腰に納めた自らの木刀を見下ろして言う。それは先頃まで土方が掴んで振るっていた『刀』だ。そして、刀を手にしようと、求めようと言う想いなど、ただひとつしか理由が無い。
 「…………知ってて嗾けたんなら旦那、アンタ結構悪趣味ですねィ」
 目を神経質そうに眇めた沖田は、通り過ぎ様にそう言いながら銀時の横を擦り抜けて行った。正直斬られるか刀でも向けられるかと思っていたのだが、流石にそこまで浅慮では無かったらしい。
 沖田の足音が遠ざかって行くのを待ってから、銀時は顔を顰めて黙考した。
 己の精神で許容出来ない程の強大な痛みを抱えた時、人間の取れる行動はそう多くは無い。逃避を選び苦しむ者、真っ向から立ち向かい苦しむ者、何かに当たり散らして痛みを紛らせようと苦しむ者。そして、痛みの原因そのものを隔絶させ苦しむ者。何れにも共通している事は、痛みから逃れる為には苦しみを伴うと言う事だ。苦しみたくなくとも、痛みを受け続けて平然と笑って生きる事は、脆弱な人間には出来やしないのだ。
 痛みとは、そもそも正常な反応なのだから。それを幾ら遮断しようとした所で、消し去る事など出来ない。痛みを感じる事が無いのは、それに因って苦しみを憶える事が無いのは、化け物だけだ。
 そして、土方は化け物ではない。化け物にはなれない。精神性や意志や剣の腕などとは無関係に、脆弱な人間と言う生き物だからだ。
 そこまで考えて銀時は不意に気付かされる。
 土方らしくないと、納得がどうにも行かなかったのも頷ける話だ。沖田は今のこの事態を、己の責であるとただ一人自負して受け入れようとしている。
 土方が沖田の為に、そして己の苦痛の為に、痛みを忘れて逃げたのだとしたら──沖田は図らず土方の痛みを許容した事になる。そして、許容と受容とは苦しみから逃れようとする人の本能に、肯定と言う何よりも幸福な終わりを与えてくれるものだ。
 故に、土方は現実を直視して受け入れられるタイミングを失って仕舞った。見つめる前に、思い知らされる前に、目がやさしい手に因って閉ざされて仕舞ったのだ。







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