貫く階



 慣れぬ手で慣れぬ事をすると言うのは存外に難しい。
 そんな事を土方が実感したのは、負傷に倒れた初日からの事だった。
 何かをしようと思った時、人が反射的に伸ばすのは利き腕。その度に今は動かないのだと思い出しては舌を打って逆の手を伸ばす。が、伸ばしたからと言って利き腕では無い左手が思う様に言う事を聞いてくれない事に今度は気付かされるのだ。
 まるで子供が初めて物を持った時の様に、思う様に動いてはくれない左腕。頭で理解している事と、実際やってみないと始まらない事とでは話がまるで違う。
 煙草の箱を取る、湯飲みを取る、書類を捲る。そのぐらいならば右腕が健常だった頃からこなしている作業なので問題なく左手でもこなせる。だが、筆を執る、箸を掴む──それらの精密な所作を求められる場面では、自らの左腕は腹立たしい程に不器用になって仕舞うのだ。
 「あんまカリカリすんなって。今まで二十ン年間右腕に面倒臭い事任せてサボってたんだよ?左腕くんは生まれたばっかみてェなもんなんだよ、しゃーねェだろ」
 左手の中の筆と、その書き綴った前衛的な芸術めいた文字(らしきもの)の羅列を見つめて渋面を浮かべていた土方に、対面で書類に向き合っている銀時がそんな事を言って寄越す。慰めの様だが、今の土方には別段嬉しいものでも求めるものでもありはしない。
 は、と溜息とも自嘲とも取れる息を吐き出すと土方は、一面呪いの文字列の様になった紙をぐしゃりと丸めて屑籠に放った。書き損じの山で一杯になった屑籠の中へと放物線を描いた紙屑が落ちる──筈だったのだが、慣れぬ手の動作はそんな容易いいつもの行動さえも阻害する。
 屑籠の縁に当たるどころか、まるで目測を誤って落下した紙屑に土方がまたしても舌を打つのに、銀時がやれやれと言った動作でそれを拾い上げると、再び放って寄越す。
 「何でリリース?!拾ったんなら棄てろや!」
 目の前に転がった紙屑と銀時の顔とを見比べながら土方が思わず声を荒らげれば、
 「自分の面倒は最後まで自分で見るのが我が家のルールです」
 などとさらりと言って、銀時は屑籠を掴んで引き寄せた。卓の対面に座している土方が狙い易い様に膝上に乗せた屑籠を軽く傾ける。
 もう一回。そう言いたげな銀時の様子に土方は苛々と紙屑を拾い上げた。
 言いたい事は何となくだが、解る。解るが、それこそ先程の下手な慰めと同じで、こんな事は土方にとって何の意味にもならない事だ。
 「誰がてめぇん家だ、此処を何処だか、てめぇが何の為に呼ばれてるのかを言ってみろ」
 「真選組の屯所のお前の部屋。で、俺はお前の手伝い的なものをさせられてる最中」
 「………解ってんならちったぁ弁えやがれ」
 苛々と噛み付く調子で言うのに、何でも無い事の様に返されて、土方は一瞬鼻白んだ。ぶつぶつと何だか釈然としない文句を内心でぼやき、左手に握り直した紙屑に暫し視線を落として、それから銀時の手に抱えられた屑籠を見遣る。
 距離は一米あるかないか。手を極力伸ばして放れば簡単に入りそうだ。先程まではもう少し距離は遠く卓の向こうだったから上手向きに投げた。そして目測は外れた。不器用な左手が誤って、届かなかった。
 「……」
 少しだけ考えてから、土方は先頃と同じ上手向きに紙屑を掴み上げ、手首のスナップだけで屑籠目掛けて放り投げた。いつも右手でしていたのと同じ様に。
 今度は紙屑は銀時の肩にぶつかって畳の上へと落ちた。銀時はそれを拾い上げると、抱えた屑籠に入れはせずに再び土方へと投げて寄越す。
 「………オイ。なんか意味あんのかコレ」
 「お前の手伝い役だからね?お仕事の内だよ」
 何だか馬鹿にされている様な心地になり、ち、と露骨に舌を打った土方は、三度目、紙屑を拾い上げて前二回と同じ様に放り投げる。今度は屑籠の縁に軽く当たって中に入った。
 「お見事」
 戯けた様な言い種で、然しどこか神妙な笑みを浮かべて言う銀時に、土方はふんと息を吐く。
 「必要無ェだろ。右腕が治る迄の辛抱だ」
 言い切って軽い袖を撫でる。今やっている左手での筆記練習も、右腕が治るまでの代替にでもなればと言う気休めの一環だ。幾ら銀時が代筆代書をしてくれているとは言え、重要な公文書のサインまでを偽造で任せるには流石に危険が伴う。何かがあってからでは遅いと言うのは、真選組に直接降りかかる被害を思えば当然の警戒だ。
 せめてそう言った文書に書くサインぐらいは自ら書ける様にならねば、と、そんな事情の経緯があって左手で慣れぬ筆を取るに至ったのだが、文字を習っている子供でさえもう少しまともに出来るだろうと思える、左手で書く文字の出来映えには少々どころではなく嫌気が差すと言うのが正直な所だった。
 箸を持って見ても同じ。上手く持てない、持ったとして上手く掴めない。とは言え、いちいち銀時や沖田に「あーん」などと巫山戯た台詞付きで食事を口に運んで貰うのなど真っ平御免だった為に、そちらは匙やフォークも駆使してなんとか不器用ながらに、嫌気が差そうが羞じを憶えようが仕方なくこなしている。
 右腕が治るまでの辛抱なのだ、と。そう言い聞かせて渋々と。
 「屑籠にゴミ放り込むだけの事に時間費やしてる暇は無ェだろが」
 何しろ書類山は昨日も今日もそして明日も堆い山を作り続けているのだ。銀時の代筆作業の能率はお世辞にも良いとは言えないし、土方の左手でのサイン書きも時間が掛かる。
 「諦めたらそこで試合終了だよって安西先生も言ってただろ」
 「治ったらそこで試合終了、依頼終了だ」
 屑籠を置いて、代わりに手にしたペンをくるりと手の中で回して言う銀時にトゲトゲとした調子で返してから、土方は再び真っ白な紙へと向き直った。
 治るまで。治ったら無意味。解ってはいたが、結局の所根が真面目な性分である。土方の左手は不器用に文字の練習を紡いで行く。真面目と言うよりは、一度やると決めた事は最後まで貫き通さなければ気が済まない主義と言う所かも知れないが。
 下手くそな文字の様なものを見下ろすと心の奥が掻き毟られそうにもどかしく、苛々する。自分の手がここまで不器用で駄目なものだとは思わなかった。
 慣れぬ手の、慣れぬ所作だから。言い訳を連ねるのは簡単だし尤もだと思う。だが。
 (諦めたらそこで、……か)
 それはそれで癪に障る気がして、土方は自らの左手から生み出されて行く奇妙な文字列を見下ろして、それから黙々と書類作成の作業に取り組んでいる銀時の方を見た。
 やり直しをさせると言う事は、『やり直せ』と言う事だ。失敗を怖れずもう一度挑め、と言う事だ。その行動には確かに銀時の好意が乗っている。心配やお節介も多分に含んで。
 (……解り易い奴)
 そう看破して仕舞えば、自然と気持ちも上向きになる。我ながら現金なものだと思いはしたが、土方は左手を動かして新たな文字を刻んだ。
 相変わらず下手くそな、辛うじて文字だと判読出来るかも知れない図形が、少しだけ愛しく思えた。
 
 *
 
 座りっぱなしで三時間。土方にとっては日常の仕事の事なので然程気にはならない事なのだが、銀時にとっては違ったらしい。毎回毎回三時間程度が彼にとっての限界値なのか何なのか、大体そのぐらいの時間で根を上げ卓にぐたりとへたり込む。
 把握したのか、山崎も大凡その位の時間で茶を持ってくるものだから、最早三時間程度に一度の休憩と言うのが流れになって仕舞った。
 書類の山は土方から見ればいっそ不安を覚える程の嵩で、出来る事ならば休んでなどいないでこの侭仕事に励み続けたいとは思う。が、現状土方がどう思えど実際に動くのは銀時の腕である。こればかりは仕方がない。歯痒く思おうが、土方に出来る事が当面何も無いと言うのは事実なのだ。
 かと言って自分の常のペースで仕事に励め、と言うのが無茶振りである事ぐらいは解る。そもそも負傷をして不本意ながらも銀時に頼らざるを得ない状況を招いたのは己の責任だ。そこで開き直れる程に土方は銀時に対して傲慢にはなれそうもない。
 (まだ左手で『文字』をまともに書けてる、たァ……言い難いしな)
 疲れた風情で壁に寄り掛かって湯飲みを傾ける銀時の事をちらりと見て、それから机の上の書類山を、最後に己の左手を見下ろして土方は溜息をついた。
 「退屈か?」
 不意にそんな事を言われて、土方は胡乱な眼差しを声の主の方へと向けた。口元に寄せた湯飲みの湯気の向こうから、笑みに似たものを湛えた銀時の目が覗いている。
 「どこを見てそうなるんだ」
 片付かない仕事の算段をやりもしないで草臥れました、とも言いたくはなくて、かと言って溜息を吐かせた鬱屈の理由なぞもっと言いたくはない。
 この先に続くかも知れない問いを厭い、土方は目を逸らす事で銀時との会話から逃れる事にした。
 と、別にその侭問いを重ねる心算は無かったのか、立ち上がった銀時が中庭に面した障子をそっと開くのを視界の端に認め、土方は視線を動かし密かにそれを追った。
 屯所を訪れた時に銀時が玄関で脱いだブーツは「移動に不便だから」と言う理由で、部屋のすぐ外の縁の下に持って来てある。土方は滅多に庭に下りる事など無いが、一応草履を同じ様に入れてあるし、いざと言う時の為に部屋には制服の予備一揃えと一緒に靴も仕舞ってある。
 銀時は自らのブーツを穿くと庭に下りて、何やらきょろきょろと辺りを見回す様な仕草をしていたが、やがて何か結論でも得たのか、一つ頷くと縁側に膝をついて土方を手招いた。
 気付かぬ振りをしようか、と寸時考えたものの、土方は卓に頬杖をついた侭銀時の方を殊更に億劫そうに振り向く。
 「ちょっと来な」
 「………」
 野良猫でも呼ぶ様に手招いて言われ、土方は不承不承さを示す大きな溜息をひとつ吐いてから応じた。
 「何だ」
 言いながら壁の時計を振り仰ぐ。休憩の時間は早く終わりにしたいのだ、と言う土方のそんな意思表示に、銀時は気付かなかったのか流しただけなのか、くるりと背を向け庭の中程まで進むとそこで振り返って土方に向けて棒きれを投げて寄越した。
 否、棒きれではなく、銀時がいつも腰に佩いている木刀だと、咄嗟に受け取ってから気付く。
 洞爺湖、と柄に刻まれた文字、細かな傷、握られ少し傷んで変色した痕などを具に観察してから、土方は疑問符を浮かべて銀時を見た。
 「これを機に左手でも使える様になってみるとかどうよ?」
 にやにや笑いを浮かべた表情でそう言うと、銀時は左手で適当な庭木の枝をぽきりと折った。腕の半分ぐらいの長さのそれを指揮棒の様にくるりと回してから、土方に向けて突きつける。
 「…………、」
 何でだ、と声が出掛かって止まった。左手に握られた木刀を見下ろす。頑丈な木で出来てはいるが、刀と同じ様な形をしたもの。刀と重さも比べものにはならないが、そこに乗った意味は恐らく同じ。銀時と土方とでは大差などないだろう。
 銀時の手にした、葉も全て落ちた杏の細い枝はぐにゃりと曲がっており、刀と見立てるには些かに貧弱に過ぎた。長さも。強度も。切れ味も。
 だが、手にああして携えた以上──それは紛れもなく『刃』で。意味は、木刀とも真剣とも同じものだ。
 持つ人間の意志。その一つだけで、頼りない枝切れも鋭い力を持つ刃となる。
 「……上等だ」
 思わず土方の口元に笑みが宿った。怒りや苛立ちよりも控えめなそれは、期待に因って浮かんだものだと気付いたからこそ、隠さずに笑う。
 銀時は枝を左手で持って、こちらへと向けて来ている。腕も、長さも、取り回し辛い形も、慣れぬ左腕を強いられる土方へのハンデと言う事なのだろう。
 土方の手には銀時の木刀。持ち慣れぬ一刀。動き慣れぬ左の腕。状況は状況だが、手加減をされている、と言う事自体に対して憤慨が自然と沸き起こって──土方の裡には『負けたくなどない』と言う心が宿り、戦いへの意志が点火する。それが性だ。今更隠すでも無い。
 草履を足先で突っ掛けた土方は、左手に掴んだ木刀を携えて銀時の前へと向かい立つ。握った柄を持ち上げてみるが、片方に添える手が無いと言う事実に違和感を憶えて仕方がない。
 む、と顔を顰めながらも何とか刀を取り回し易い様に体勢を整えれば、後は切っ先をただ見つめるだけ。土方は小さく深呼吸をした。
 「来いよ」
 土方は構えたが、銀時はだらりと枝を掴んでいるだけだ。その状態で更に挑発めいて枝を振られるのに、流石に少しむっとしたが、怒りよりも期待や興奮が上回っているから、そんな事で感情を無駄に揺り動かされたりはしない。
 思えば、銀時との手合わせは初めての事だ。
 真剣でぶつかったのは一度きり。後は些細な事で言い合ったり喧嘩をしたり刀を抜きかかった事はあれど、真っ向から互いに『刀』を手にして打ち合おうなどと言うのは、初めてだった。
 口には到底出せやしないが──どうせ解られているのだろうが──土方にとって『これ』は思わぬ事態である筈だと言うのに、仕事よりも、休憩よりも、何よりも優先しても良いと思える程に、わくわく、していた。
 (ガキみてェだ)
 気付いて、小さく鼻を鳴らして笑う。利かぬ腕で焦がれた相手と刃を交えると言う行為に滾りを憶えるなど、どんな鬼畜生よりも劣る野生の侍に相違ない。子供の様で、馬鹿の様で。だがそれが、何よりも嬉しくて、嬉しかった事にこそ安堵する。
 (これさえ、在れば、)
 強くそう思った事に、心が自然と凪いで落ち着く。何処かで同じ様な事を考えた気がする。よくは思い出せないが。
 思い出せないと言う事は、それは土方の裡にごく自然と在って、根付いて、生きている何かなのだろう。譬えるなら、魂だとか陳腐な言葉にしかなりそうも無いものだろうけれど。
 だが、確信がある。『これ』さえ失わなければ、失われなければ、自分は土方十四郎で──真選組副長の土方十四郎と言う人間で居られるのだと。そんな確信が。
 ふ、と息を吐くと同時に、土方は木刀を突き出した。その切っ先は手にした枝を越え、間近に佇む銀時の喉笛へと吸い込まれて──







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