舌の悶えし



 手を伸ばした事までは、憶えている。
 斬り合いの直中だから、刀を握りしめていた事も、憶えている。
 腕から離れても手の中に未だその感覚と感触とがあるのが、何だか可笑しくて、
 この手が、刀を握っている事が、
 この腕から、刀が離れている事が、
 
 ──ただ、信じられなくて。
 
 
 「そう、ご、」
 戦慄く唇が紡いだ名は、自分でもはっきりと解る程に掠れて、震えていた。これではまるで怯えている様ではないかと思ってから、一体何を怯える必要があるのだろうと言う疑問にぶち当たる。
 眼前の少年はいつだって得体の知れぬ無表情を保っている事が多く、土方には到底その内面を探る事は出来そうも無かった。近藤は内面も外面も何も気にする事も憚る事も無く、常に何も考えずにただただ自然体で相対しているだけで良かった様だが、嫌いだと言う旨を公言されている身としてはそうも言っていられない。
 故に土方は沖田との距離感を正しく理解したかったのだが、それが上手く機能した試しは今に至るまで一度たりとも無かった。
 舐めているのだとか、甘えているのだとか、ただただイヤガラセを受ける対象であるだけなのだ、とか──端的な理解が一応は適っていたのは、土方にも沖田から向けられるべき感情の複雑さ──ネガティブな意味が多くを占めるのだろう──についてある種の心当たりがあった為だ。要するに、後ろめたかったのだ。
 だからこそ土方は沖田の抱えた正体不明の感情や、その無表情に湛えられた感情を読み取る努力を常にして来た、つもり、だった。
 だが、今目の前に居る、否、在る、酷く苦しげに唇を歪め、苛立ちの波濤に曝され立ち尽くす、そんな子供の表情は土方の憶えにはまるで無い様なもので。
 曇天を写し取った様な淡い色の瞳が、そんな沖田の有り様に竦み座り込んだ侭動けなくなっている土方の姿を無惨な程にくっきりと映し出していた。知らしめる様に。突きつける様に。
 「──現実を見て下せェよ。アンタにゃもう腕なんて無ェだろィ」
 何だか酷い言葉を突きつけられている筈なのに、それを紡ぐ沖田の表情は今にも泣き出しそうに歪んで、引き攣った様に噛み締めた唇だけが笑顔を作る。
 何でそんな表情をしているのか解らない。
 何を言っているのかが解らない。
 何を言われているのかが、
 「──総悟、」
 わからなくて、土方はかぶりを振った。壁と沖田との間に挟まれている様な状態そのものより、至近でそんな表情を向けられ言葉と刃とを突きつけられている事が苦しくて身じろげば、刃の貫いている右袖が身体をその場に戒め固定している事に気付く。
 刃は折れた腕を突き通して、壁に着物を磔にしている。これでは、逃れたくても逃れられない。
 どこかが痛い。何処かの、何かが、酷く痛んで、
 「左腕で剣取った所で代わりになんざなりゃしねェって解ったでしょうが」
 痛みを堪える為に左腕で掴もうとした木刀は、手の届かぬ遠くに虚しく転がっている。刀架の刀は猶更遠い。届いた所で鞘さえ飛ばせない。
 「何をしたってアンタの右腕が戻る事なんかねェんでさァ」
 悲劇的で喜劇的な言葉を紡ぐ役者の様に、沖田は悲壮に満ちた表情で血を吐く様に叫ぶ。土方が何処かで感じる痛みをその侭自身で受け取っているかの如くに、苦しそうに。
 刀に届かない指が戦慄く。動かない腕が悶える。届かない、と悲鳴を上げられない喉の代わりに身体の何処かが軋んで痛む。
 右袖を貫いた刃のその先で、沖田が薄く自嘲めいた笑みを浮かべるのが見えた。
 「もうアンタは戦えやしねェんだ。戦わなくても良いんだ。だから、」
 がん、と強く頭を揺すぶられた気がした。千切れた記憶の断片が土方の裡を這い回り思考をぐしゃぐしゃに乱して行く。
 ただ、『それ』は聞きたくなくて、思わずかぶりを振った。総悟、そう咎める様に声を上げようとしたら喉から掠れた息だけが漏れる。
 
 「その辺にしとけや、沖田くん」
 
 得体の知れぬ何かに押し出されて、今にも裡から裂けそうだと土方が思った時、張り詰めた糸の様な空気を引き千切って、銀時の溜息混じりの声が割り込んだ。
 恐る恐る見遣れば、沖田の背後にやって来た男が自らの銀髪を掻きながら佇んでいるのが見えた。気まずい場面に遭遇したなと言いたげに片眉を持ち上げて複雑そうな表情を浮かべてはいるが、その佇まいには気楽そうなものは無く、逆に気負いの類も見て取れそうもない。
 背後数米。その空隙を保った背にぴりぴりとした緊張感を這わせながら、沖田が静かに吐き捨てる。
 「邪魔しねーでくれませんかねィ、旦那。これは真選組(うち)の問題でもあるんで」
 「まァたまた。こんな殺気立った家族会議なんざ見た事ァねーよ」
 触れたら斬れそうな──否、斬られそうな冴え冴えと冷えた声音を、然し銀時は軽く肩を竦めて躱した。そうして、気怠ささえ感じる視線で沖田とその向こうに居る土方とを流し見ながら、態とらしい溜息を吐いて続ける。
 「……おめーの気持ちは俺にも何となく解るがよ、手段だけは見誤るんじゃねェ」
 瞬間、ぎり、と沖田が音が鳴る程強く奥歯を噛み締めるのを土方は見た。
 「アンタに何が解るんでィ。近藤さんはアンタに依頼をしたが、そんなのは俺の知ったこっちゃねェ。アンタだって同じ筈だ。手前ェと無関係の他人共が何してようが、どうなろうが、どうせ関係無ェんだ。どうしたってアンタは部外者だ。金受け取って万事屋に戻っちまえばそれでお仕舞い、そうだろィ」
 軋る歯の隙間から押し殺した声音が漏れ出る。それは紛れもなく瞋恚に因るものに土方には見えるのだが、果たして沖田が何に対して怒っているのかが知れない。言葉は確かに銀時へと向けられているのだが、それは怒りそのものと言うよりはもっと単純な、苛立ち程度の所に留まっている様に思えた。
 「土方さんに左腕での戦い方を教えて?──は、それでどうなるってんでィ。旦那は一時だけでも救ってやれたと満足して充分かも知れませんがねィ、所詮そこまででしょうが。
 もうその後土方さんがどうなろうが、俺らがどうなろうが、アンタにゃ無関係だ。何も出来やしねェ、何もしてくれやしねェ。そんなお人が無責任な真似は止めてくだせェよ」
 言って、沖田は何かを問う様な目を土方へと向けた。同意でも求める様に。或いは返す言葉を探すも出来ぬ男を憐れむかの様に。
 刺々しい敵愾心を隠さず向けられる沖田の言葉を受けても、銀時は怯んだり払ったりする様子は見せなかった。そっと息を吐くと、足下に転がっていた自らの木刀を拾い上げる。
 「依頼主の言う事はそりゃ出来る限り尊重してやりてェが、ゴリラやおめェ以上に、土方(そいつ)も俺の依頼主なんだよ。依頼主が願う限りは止めねェのが万事屋の信条なんでね。悪ィが手は引けねーよ」
 自らの愛刀を手の中で弄びながら言う、銀時の言葉から慥かな重みと意味とを聞き取って仕舞った気がして、土方は眼前で俯いた侭の沖田の顔を振り仰いだ。語る言葉の意味を問うより先に──何故沖田が『そんなこと』を言うのかが解らない事の方が気にかかったのだ。
 だが土方のその意が届くより先に、沖田は弾かれた様に背後の銀時を振り返った。だが、その手が離れて猶、壁に突き立った刃は土方の右の腕を貫いてその場に留める事を已めない。
 「だから!アンタに何が出来るってんだ。離れちまえば無関係のアンタが、この先どうやって土方さんを、真選組を護れるって言うんでィ!
 万事屋の信条でも矜持でも何でも構わねェが、アンタのしてる事は単なる自己満足だろィ?!土方さんが左腕で刀を手にしたとしてもそれで元通りになる訳じゃねェ、瑕と失望とを徒に拡げるだけだって言ってんだ!」
 ぜいぜいと肩を揺らして、珍しく声を荒らげた沖田は銀時の事を激情を形作った侭に睨み見ていた。それは怒りや憎しみを孕んだ感情ではない。どうして解らないのだと、どうして伝わらないのだと叫ぶ、子供の必死な泣き声の様であった。
 「俺の、責任だから──俺が、土方さんの右腕の代わりになんなきゃなんねェんだ。俺が、あん人から奪っちまったから、俺が、ッ、」
 普段は刀を握る拳を怒りに固めて、その掌に悲鳴を飲み込ませながら。
 沖田は土方の方を振り返った。
 (──なんで、)
 土方は茫然と、頬を濡らしてこちらを見つめる沖田の、悲しくて、憎くて、苦しくて、辛くて、どれをも持て余し途方に暮れた迷子の様な表情を見上げる。
 痛くて、痛くて、何処が痛いのか解らない。
 そう泣き叫ぶ子供の様な貌を。
 (なんで、そんな顔を、)
 する必要が。
 向けられる必要が。
 「──…俺じゃ副長には代われねェんです。俺が副長になっても、真選組(俺達)は、近藤さんは、この侭続いてはいけねェんだ。解ってた、そんな事はとっくの昔っから解ってたんでィ。
 だから、俺は──、俺が、副長の剣になる。俺には近藤さんと、土方さんを護らなきゃなんねェ責任があるんです。
 それは旦那、アンタにゃ負えねェ。アンタにゃ任せらんねェ。アンタにゃ関係無ェ」
 項垂れ伸ばした沖田の手が土方の右袖にひたりと触れ、それから泣きそうに歪んだ顔を保った侭で微笑んだ。
 (同じ、貌を、どこかで、)
 そんな沖田を茫然と見返すしか出来ない土方の『右腕』が、酷く痛んだ。
 痛くて、痛くて、何処が痛いのか、もう解らない──
 それは己も同じだったのだろうか。
 ただ正体の知れぬ痛みに喘いで、土方はぼんやりとした視線を無力な左手へと落とした。剣を掴む事も出来ず決せられた役立たずの腕は、まるで何かを堪える様にか求める様にか、固く拳を握りしめて震えていた。
 「手前ェが手前ェの護りてェもん見つけて生きて行く、それも結構な事だがよ。おめーのその言い分には一つ大事なもんが欠けてんだろ」
 「──何が足りねェって言うんですかィ」
 そっと手を土方の右袖から離すと、沖田は銀時へと半身を向けた。剣呑な様相に、刀は直ぐ傍の壁。今にも殺気立ちそうな佇まいだが、沖田にも銀時にもその積もりは無いらしい。両者は静かに、間合いを計り合う剣士の様にただ静かに其処で『戦って』いる。
 「なァ土方くん?可愛い弟分はああ言ってるけど、おめーはどうしてェ?」
 不意に沖田の頭越しに、銀時の言葉が土方の意識に突き立てられた。それを己に向けられた問いかけなのだと認識するのに暫しかかってから、土方はかぶりを振った。
 「──俺?いや、待ってくれ、俺には何の事だか──てめぇらが何言ってんのか、」
 何がなんだか理解出来ない疎外感がそこに在るのに、それを理解し達観している様な己の客観的な視点がそこに存在している。そんな奇妙な感覚に怯えに似たものを抱きながら、土方は二度、三度と頭を左右に振る。拒絶と言うよりは、否定の言葉を求める為に。
 そんな土方の姿を見下ろして、沖田は小さく肩を竦める。
 「──それこそこれが答えでしょ、旦那。喪失を、忘れちまいてェぐれェこん人は苦しんでんだ。だからもうどっちの腕にも剣なんざ持たなくて良い。取り戻せやしねェ喪ったもんを求める事も無ェ。護れねェと嘆く必要も無ェ」
 「コイツにそれを選ばせちまったのは、てめーが原因だよ沖田くん。護ってやるなんて言う言葉で、行動で、過失も罪悪も手前ェ自身の矜持も全部奪ってっちまったのは誰の『優しさ』だと思う?」
 ばさりと斬り捨てる様な銀時の声音は軽かったが、言葉は重くその癖鋭かった。まるでそれに打たれた様に沖田は表情を亡くし愕然と立ち尽くす。
 「それでもコイツならきっと手前ェの腕で剣を取って手前ェの足で歩く。俺の知ってる土方十四郎って男は、誰かに手前ェの責任を押しつけてのうのうと生きてける程器用な卑怯者じゃ無ェんだよ」
 そうだろう?と緩やかな笑みを浮かべた銀時が、手の中で、その紡ぐ言葉にも良く似た、鈍く切れ味の悪い筈の木刀をくるりと回転させた。
 「見くびってやるな。コイツは真選組の──てめェらの信じる、鬼の副長さんだろ?」
 ただ真っ直ぐに、笑みを宿した顔を向けられ、土方は狼狽した。沖田と、銀時との間に、土方には知れぬ何かが潜んでいる。そしてそれを己は知る事が出来ず、触れる事も出来ない事が、土方には理解し難くそして恐ろしい。
 「待て、だから──てめェらが一体何を言ってんのか、」
 困惑を湛えた感情を剥き出しにして、土方は背筋を凍り付かせる様な厭な言葉と予感とを振り払おうと必死になった。躊躇いかぶりを振るその眼前に、銀時は手にした木刀を投げて寄越す。
 「土方」
 咎めるのではない、促す声だと思った。呼ばれる侭に顔を起こし、手の先僅か数糎の所に落ちた木刀と銀時の顔とを彷徨い見て、土方は揺れる眼差しを木刀の柄へと落とした。
 刀が常に在るのは右腕。だから右腕が反射的に動く。だが、壁に繋がれた空っぽの袖がそれを引き留める。
 「──ッ、」
 右の袖を振り返って、土方はその空白の軽さをただただ茫然と見た。
 諦めたかったのか、それとも足掻きたかったのか。
 腕から離れた刀が、この腕が刀を手にしていない事がただ信じられなくて、、
 
 痛くて。痛いのが解って仕舞ったから、痛くて。堪らなかったのだろうと思った。







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