醒める兆し



 この腕は動かない。
 でも、その場所が酷く痛んだ。酷く疼いた。
 もう──亡い筈の、そこが。

 恰も其処に未だ、在る様に。

 痛みを負った事よりも、痛みを負わせた事の方が度し難かった。己が正しいのかそれとも誤ったのかなど、その答えが身から切り離されて仕舞った事実の前では、問う事すら最早無意味でしかない。
 だから、笑った。
 もう護れないのかと嘆きながら、大丈夫だと笑った。
 『こう』なったのは俺の責だから。お前が痛みを憶える必要など無いのだと。
 それに返って来たのは、痛みを堪えて壊れた微笑みだった。泣いて、笑った、余りにも無力な笑み。
 ──俺が、アンタの代わりに、アンタを護る。アンタの護りたかったものも全部。
 そして、そんな言葉とやさしい手が視界を覆うのと同時に、世界がみえない闇に包まれた。
 ただただ暗い、目前の闇を見つめて、右の肩から繋がっていた空白を抱いて仕舞えば、痛みは一時遠ざかって消えていた。同じ様に遠ざかる仲間達を追い掛ければ追い掛けるだけ、思い出した様に痛んだ。
 仮託したのは痛すぎる痛みか、それとも悼むべき傷みだったのか。
 
 もう、喪った其処では何も感じる事が出来なくなったと言うのに。
 
 *
 
 "アンタの右腕なんてもう、無いだろィ"
 沖田の吐き捨てた言葉が蘇る。
 "左手でも使える様になってみるとかどうよ?”
 銀時の言葉がそこに重なる。
 「俺、は、」
 壁に留められた右袖が不格好に藻掻く。もう亡い、喪くしたものを、それでも認めきれぬ悪足掻きの様に。
 「戦えるだろ。手前ェの剣はそんな事で折れやしねェだろ。戦って、教えてやれ。鬼の副長は真選組の剣だって。手前ェ自身で不器用に振り翳す刃だって」
 
 何も見えぬ闇の中でも只管追った、
 この身が真選組の、
 剣として生きて行く事こそが、
 それだけが、
 
 「──ッ!」
 
 喉をついて出たのは罵声だっただろうか。噛み殺し損ねた嗚咽だったかも知れない。
 土方は左手を伸ばして木刀を掴んだ。ここ数日ですっかり慣れた気のする、役に立たない腕での、役に立たない剣技を身に刻もうとした、その得物を。
 「鞘に収まってんなァ、手前ェらしくねェだろ」
 銀時の笑う声。
 沖田がぐしゃりと表情を歪める。
 土方は右腕の痛みを振り切って、木刀を──左の手で掴んだ刃を振り上げた。
 眼前に迫る刃の気配に、沖田が咄嗟に選んだのは壁に突き立った侭の刀を抜いて一歩、距離を取る事だった。
 得物は天性の人斬りの手の中。研ぎ澄まされた沖田の目は不器用に迫る土方の刃の軌跡なぞ容易く捉えているだろう。切れ味も持たぬ鈍の刃など、弾くも飛ばすも躱すも──代わりに命を一瞬で断つ銀の閃きを向ける事も、幾らでも適う。この分秒に満たぬ空隙さえ、沖田総悟の間合いに於いては屍を幾つも積み上げるも容易なものでしかない。
 それでも、土方には何の畏れも無く。ただ、本能の侭に腕が動いている。右でもなく左でもなく、ただ抗おうとする力が体を動かす。
 意志を持たず虚しく揺れるばかりの右袖──最早その役割を左腕に任せた空白を前に、沖田は手にした刃を土方のその腕に向けかけ、そして止まった。
 腕を断つも、刃を弾くも、出来ずに。
 そしてその静止は土方の不器用な左腕にでも容易く入り込める隙だった。カン、と鈍い音を立てて沖田の手にした刃が弾かれ落ちる。彼は、動かない。ただ茫然と、利かぬ腕の武骨な軌跡を目で追って、喉元に突きつけられる木刀の切っ先を黙って受け入れた。
 その足下に転がる真剣。刃とは何をも断つ為に存在するものであり、手から離れ持ち主の意志をも途絶されたそれは、最早ただの生々しい銀色をした器物でしかない。
 「………狡ィや。旦那と土方さんの鬼のタッグじゃ、叶いやしねェ」
 やがて、ぽつりと悪態をつく様な調子で沖田がそうこぼした。土方はそれを待ってから、ゆっくりと木刀を納め、それを沖田の背後に佇んでいる銀時へと放り返す。
 「おめーが痛そうだったから見かねただけなんだよな、沖田くんはさ。……良い弟分じゃねェの」
 受け取った木刀を腰に戻しながら言う銀時の笑みが、刃の気配を前にしてもずっと凪いだ海の様に居た事に不意に気付いて、土方はふんと小さく鼻を鳴らした。まるで見透かされていた様で面白くないことこの上ない。
 「んな事言われなくても解ってらァ。それに、弟分じゃねェ。──兄弟子だよ」
 その言葉に、俯いていた沖田の肩が居た堪れない様にぴくりと揺れる。緊張感を呑み込んだ土方はそっと息を吐いてから、畳の上に転がっていた彼の愛刀を拾い上げた。
 人を斬る剣。だが、それで護られるものが慥かにある、そんな剣だ。真選組の先陣を常に切って、後に続く者らを護り続けて来た、幼く必死な精神の辿り着いたひとつの形。
 「……俺は、逃げたかった訳じゃねェんだ。況して手前ェを責める気なんざ無ェし、押しつける積もりでもなかった。だが、少しだけ目を背けたかったのは事実だ。…それで、結果的にお前らに迷惑を掛けたのも。
 ……すまねェ、総悟」
 痛みをもう知らなくなった腕が、それでも痛い様な気がして──苦しくて嘆いて喚き散らしたかったのだろう、その瑕をやんわりと塞がれた。だから、そんな時ばかり治りの良い傷口は、『護れない』、そんな現実に曝されても最早痛みを感じなくなって仕舞っていた。現実をひととき見ない事へと逃げ出していた。
 後悔は端から無い。だが痛みに寄り添った感傷は本来土方が自ら負って抱えて行かなければならないものだった。それを僅かの間とは言え遠ざけようとした沖田の決意は、気持ちは、如何ばかりのものだったのだろうか。それは土方には斟酌する事は出来ない。
 ただ、痛みを忘れていられた、それだけは事実だ。
 忘れたかったかどうか、ではない。一時選ばせてくれた、与えられて仕舞った、苦しい微睡み。
 そこに浸り続ける事は楽だっただろう。だが、それが叶う程に土方は器用ではなく、利口でも無かった。
 「…………謝んねェで下せェ。それこそ、アンタらしくも無ェや」
 悄然と言う沖田の手に刀を押しつける様に持たせて、土方はすっかり軽くなって仕舞った自らの右袖をちらりと見下ろした。
 そこに在ったものが持っていられたものを。そこに在ったものを支えていたものを思えば、何もかもが遠いが、そこに『在った』過去形の事実は酷く近しい。これから、受け入れていくべき現実だ。そうしなければならぬ義務を土方は既に理解していたし、避けようなどとも思わない。
 だが、それでも。己の溢した苦痛の顕れも、それを赦した沖田の心も、間違ったものではないのだろう。少し誤って見えたかも知れない。それは酷く無様であったのかも知れない。──……それでも、だ。
 沖田が土方の痛みを代わろうとしていたのは事実。土方がひととき上手く受け入れ損ねたこの現実を許容し、それで贖罪をしようとした、その心そのものを間違っていると断じる事の出来る者など誰もいないのだから。
 「手伝ってくれるってんなら、ちったァ真面目に仕事してくれりゃそれで良い」
 「………」
 少しだけ意地悪げな声音を作って言う土方に、沖田は心底に厭そうな気配を、落ち込んで表情の無くなった顔に漂わせて、溜息未満の小さな息を吐いた。
 「それで充分だ。お前らに、お前に護られてる事なんざ端から知ってる」
 脱力した様な手に無理矢理持たせた刀に視線を落として言えば、沖田は今度こそ表情を変えた。厭そうに。億劫そうに。淋しそうに。そうやって力なく浮かべた笑みを土方に寸時向けると、刀を鞘へと収めてくるりと背を向ける。
 「…………考えときまさァ」
 そこは本気で履行して貰いたい所だ、とは思ったが口には出さず、土方は僅かの微笑で己より年下の兄弟子の背を目で追った。
 その、思いの外に大きくなっていた気のする背を見て、果たして同じ瞬間に己ならどうしただろうか、と考えかけてから、それが無意味だと気付いた土方はそっとかぶりを振る。想像も斟酌も無責任に過ぎる。況して当事者が繰り言を望むなど馬鹿馬鹿しい話だ。
 事は成って、結果が此れだ。それ以外の選択肢も可能性も、此処では既に存在しない。
 沖田がその侭足を止める事なく部屋を出て行こうとするのを、銀時も止めない。言葉も特に掛けない。ただ、横を通り過ぎようとする姿を見下ろす眼差しは近藤のよく見せるそれに何となく似ている気がした。それは近藤の性質の多くを表す包容力や安心感と言った類ではなく、もっと解り易い、信頼、の様なものなのだろうと土方は思う。
 己は同じ様な目をしているだろうか。出来ているだろうか。そんな事を考えて目元を弛ませて仕舞ったから、土方は去り際の沖田の言葉に完全に油断を衝かれた。
 「後は旦那に任せて差し上げまさァ。後はお二人きりでどうぞごゆっくり」
 「──、」
 探る様な、或いは確信を衝く様な言葉のニュアンスに、土方はぐっと息を詰まらせた侭渋面を作った。土方が銀時と恋仲──と言うには抵抗が抜けきれないのだが──にあると言う事実を知る者は当事者二人以外にはいない。筈だ。そして土方には当然、沖田にその子細を話す積もりなぞ毛頭無いが後一人の方は解らない。思わず銀時を睨み見れば、「俺は知らないからね?!言ってないからね?!」と言いたげな動作と口の動きとが返る。
 銀時も土方も特に何を口にした訳でもないのだが、その微妙な沈黙や空気感から何かを察したのか、背を向けた侭の沖田の口調に何処か嬲る響きが乗せられた。
 「……なんでィ。旦那が珍しくやけにお節介だと思ったらそう言う事で」
 「っそ、」
 呟く様な口調に思わず、何がそう言う事なのかと反論しかかり、慌てて土方は口を噤んだが既に遅い。銀時は「あーあ」とでも言う様に肩を竦めて、沖田はやれやれと溜息を吐いた。
 「解りやした。それじゃ俺はこれで」
 ひらりと手を振って、「ごゆっくり」再度言い重ねられる言葉には今度こそ人の悪い、沖田のいつも通りの調子が乗っている。ぱたん、と閉ざされた襖を歯噛みしながら見送って、土方はがくりと項垂れた。
 何が『解った』のかは、叶うならばこの先永劫にでも訊かない方が良い気がした。







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