を伸ばし



 僅かに身じろぐと、右の袖がひらりと揺れた。実際には揺れた、と知覚出来る程には動いていない筈だと言うのに、身体のどの部分が動作するより余程強く感じられるのが何だか不思議だった。
 空いた──最早其処に何も無いと知れる袖を恐る恐る見下ろす。己の視線が真実を直視する事をまるで怯えるかの様に、右肩がふるりと震えて袖がまたはらはらと揺れる。
 もうこれは『折れた腕』ではない。無い腕を持ち上げようとすれば、目の高さ程の所で袖はぐしゃりと撓んで折れる。この先には何も無いのだと、土方の目の中に、頭の中に、痛烈に突きつけて来る。
 感じたのは惨めさか、それとも単なる怯えか。折れ曲がった袖の、その空白をそれ以上見ていたくなくて、土方は戦慄く左手で空っぽの右袖にそっと触れてみた。布一枚の、その先に横たわる真実は見えていなくとも既に明かだと言うのに、それを自らの知覚で感じ取るの事が恐ろしかった。
 右袖にほんの僅か、指の腹が触れている。そしてそれ以上は進まない。ごくりと喉を鳴らして震える腕と袖とを見下ろしている土方を見かねた様に、銀時がそっと手を伸ばした。
 「おめーと沖田くんの間に何があってそうなったのかは俺ァ知らねェ。だが、『こうなっ』たんだろ?」
 その手は土方の右袖に近付きはしたがまだ触れない程度の距離を保って止まり、応えを待って佇む。『こうなっ』た事を受け入れるまでの猶予の様に。
 「………解ってて言ってんならてめぇ、相当人が悪ィな」
 「似た様な事沖田くんにも言われた」
 飽く迄自ら歩き出すまでを待つ──否、見『護る』積もりなのか。元より土方にも縋ったりする気なぞ無かったが、余りに手放しで待たれると言うのもどうにも居た堪まれない。どこか釈然としない心地を持て余しながら溜息をつく土方に、銀時は悪びれた様子も無く眉を軽く持ち上げて見せた。
 「……まあその通りだがな。後悔はしてねェし、『こうなっ』た事そのものをどうって言う訳じゃねェが…、」
 視界には入っていた。想像も予測も出来なくとも、行動を起こしたのは己自身だ。土方は、逃げる浪士を追って刀を抜いて迫る沖田の姿を慥かに捉えていたし、その状況下でどうするかを問われたならば、土方の選ぶ途は一つしかない。
 有り得たかもしれない可能性の模索なぞ、途の決まった後に繰り返しても思考しても無慈悲で無意味だ。沖田の立場になって想像する事以上に、意味が無い。己のした事は──しただろう事は、何年と言う時を経て考えてみた所で、変わらないのだから。
 右袖の近くに伸ばされた銀時の手と、僅か指先だけ触れている自らの手先とを見下ろしながら、土方は震えの止まないその左手をぐっと握りしめた。引き攣った様に握り込まれた指の間が、掌が、空っぽになった右袖を握って潰す。
 腕の下から先、本来ならば右腕の在った其処にはもう何も無い事を、その空虚な手触りが伝えて来る。
 その瞬間に土方が感じたのは、虚脱にも似た酷い倦怠感だった。自らの今まで信じていたもの全てが音もなく崩れ去って行く様な不安定な不安感と共に、酷い無力感と泣き喚きたくなる様な恐怖感とが足下から這い上がり忽ちに脳の奥までを支配して行く。
 刀を持って、筆を執って、箸を掴んで、湯呑みを持って、扉を開いて──数え切れない事をこなし続けていた自らの一部の消失の実感。それは土方にとっての無力な現実と叶わなくなったであろう幾つかの未来の可能性が失われた事を示している。
 戦えるだろうか。立てるだろうか。決せるだろうか。あらゆる種の不可避な現実の問答が脳の処理限界を超えて溢れ出すのに咽せ返りそうになりながら、土方は俯いた侭かぶりを振った。拒絶する為でも振り払う為でもないから、何の意味も無く、ただ本能的に否定したかった反射行動の様に。
 「無くなっちまったかも知れねェけど、未だ手前ェには一番大事なもんが残ってんだろ」
 ここに。
 そんな、苦しみを遠ざける一太刀の慈悲にも似た、感情を抑えた銀時の言葉と同時に、右袖の近くにあったその手が土方の胸をとんと指した。それからゆっくりと、刀架に置いてある土方の愛刀を示す。
 それを手に、元の様に生きて戦う事が出来るかどうかなど、左腕一本で未だ歩き始めたばかりの土方には知れない。だがそれでも、刀も、心も、仲間も、変わらずここに在る。土方が真選組副長の土方十四郎で在る限りは、ずっと変わらず在り続ける。
 左の腕でも。少しづつではあるが戦える様になる。文字が書ける様になる。時はかかるかも知れないが、刀の本分が折れない限りは、きっと。
 諦め投げ出さなければ良いだけの事だ。頭では理解していても、口では宣えても、実際その戦いに赴くには、『元通り』そのものにはならない、現実を認める為の相応の覚悟と決意とが必要になる。
 だが土方の裡には現実に打ちのめされる悲壮さは無い。左の腕でも木刀を片手に戦った、己の認める剣士二人に怖じける事もなく戦いたいと思った、その心をはっきりと得て認識する事が出来ていたからだ。それだけの事だが、それこそが土方を奮い立たせてくれる大事な経験だった。
 『こうなっ』ても、逆の手に刀を持たせようとしてくれた銀時の心をそこから知れた気がして、土方は無理矢理に口の端を持ち上げてみせた。
 「喧嘩は心が折れねェ限り負けねェしな」
 左手を開けば指からはらりと袖が離れた。空になった布が、肩の近くの付け根だけを揺らす事で虚しく揺さぶられる。
 「…………、」
 その軽さと空虚さに、今度は自然と口元が自嘲めいた笑みを刻んで歪んだ。袖を──否、腕を、腕の在った、在る、その場所を空気ごと掴む。握り潰しそうな程に強く。
 「………………でも、やっぱり痛ェな」
 土方は右腕を掴んだ指を上へと辿らせて、途切れたそこを着物の上からそっと掴む。肩から下少し下がって、そこから先に何も無い、その感触を指の間に刻み込む様に。
 上を見上げて半歩の距離を無言で詰めた銀時の手が、土方の背を柔く叩いた。引き寄せるのではなく覆うだけのやさしい手つきに促される侭、土方は目前にある銀時の左肩に額を乗せた。白い着流しが湿って重くなって行くのに目を瞑り、縋らずに、ただ赦される侭に嗚咽を上げる。
 痛ェ、とこぼれれば、もう一度背を優しく叩かれた。
 天井かどこか、上を見上げて──自らの肩口で泣く土方を見下ろしはせずに、銀時が言う。
 「その痛さを忘れんなよ。痛みを和らげてくれようとしてくれた奴らの事も」
 手前ェが手前ェで居る限りは、絶対に。
 「……当たり前だ」
 心の底から押し出される様にそう吐き出した土方は、無い腕の先を、傷口を確認する様になぞった。棄てる事の出来ない喪失の痛みを、もう二度と失う事が無い様に。強く。
 力なく下がるその掌に、銀時の手が触れる。掌同士が触れ合ってから、土方は躊躇いながらも指をそっと折り畳んだ。応える様に、指が絡んだ気配が返る。
 そこでちゃんと体温を感じられた気がして、笑みが、安堵を連れて浮かんでくれた気がした。







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