秘すれば花 / 2 「銀さん、そろそろ僕らのお給料日なんですけど」 質素だが穏やかな食卓に突然降って来たそんな言葉に、しおしおの沢庵を摘んでいた銀時の箸がぴたりと止まった。然しそれも一瞬の事で、次の瞬間には箸は動揺由来の一時停止の事なぞ忘れたかの様に淀みない動きで口に沢庵を放り込んだ。こりこりと咀嚼の音。 発言をした新八の方も元より銀時からまともな返事が返る事に期待はしていなかったらしい。眼鏡の向こうでは常の半分にまで細められた目がじとりと物言いたげにしてはいるものの、それ以上を続けも繋ぎもせずに彼は黙って急須を傾けお茶を入れる動作を再開させる。 急須の中の茶葉は先程入れたばかりなのでまだ新しく、湯飲みに注がれる焙じ茶の色もまだ濃い。だがこのたった一回入れた茶葉を限界まで活用(と言うか酷使)して一日中出涸らしを飲み続けるから、夜──どころか昼にはもうこの急須から出る液体はお茶ではなく殆ど白湯になって仕舞う。お茶の様な匂いが僅かに漂う白湯。茶漉しを潜り抜けたお茶っ葉の滓が沈む白湯。無論その味はお茶とは到底言えたものではない。元お茶。或いはお茶になれない何か。それは水よりは幾分マシ、と思える程度の飲み物だが、今の万事家にとっては貴重な飲み物であった。 かれこれそんな日々を続けて何日目かなど銀時の記憶には定かでは無い。今辛うじて食卓に並んでいる朝食も昨晩の残りのご飯を温め直した茶碗一杯未満の白米と、萎びて安売りされていた沢庵が数枚のみである。 質素倹約を通り越して最早何かの修行か宗教的な理由でもあるのかと問いたくなる事請け合いのそんな光景だが、万事屋的にはそう珍しい有り様でもない。否、それどころかもっと極貧の底辺を彷徨う事もあるので、食べる白米があるだけでも大分マシな方だ。自慢出来た事では無いと突っ込まれそうなので決して口に出しては言わないが。 銀時の向かいでソファの上に正座して、口にした一枚の沢庵を必要以上に咀嚼している神楽も、慣れた食事風景に特に文句を言おうとはしない。大食らいの夜兎種族にとってはかなり厳しい食卓な筈だが、愚痴を口にする事だけではカロリーの無駄だと理解しているのだろう。 何しろ万事屋と言う職業には定期的な収入があるとは言えないのだ。時にがっぽりと懐が暖まる事もあれば、時にはこうして素寒貧に近い生活を遣り繰りしなければならない事もある。後者の比率が微妙に高い事は悲しいかな事実だが、それでも万事屋の誰もが、万事屋を止めようとは決して言い出しはしない。厳しい生活も出ない給料も、万事屋である以上付き纏う変え難い生活なのだ。 家で朝食を摂って来ている新八はそんな銀時と神楽とを交互に見遣ってから小さく溜息を吐いて、薄い茶の入った湯飲みを二人の前にそっと置いた。 「お給料が出ないのは大体いつもの事だから一旦諦めますけど、それにしてもそろそろ仕事が入らないと僕ら本格的に野垂れ死んじゃいますよ」 言う新八は、余り裕福とは言えないもののお妙が最低限姉弟の生活が出来る様にと稼ぎを家庭に入れているから、食料事情の面で餓えると言う事はまず無いだろう。神楽もなんでかんでと階下のお登勢が面倒を看たりしているから心配は要らない。定春も同様にだ。 故に、寧ろ問題は銀時の方であった。家賃滞納に従業員の給料滞納、あまつさえ養い子も同然の神楽と飼い犬の定春を餓えさせている家主兼雇い主と言う現実的な問題もあって、お妙やお登勢に食事や金の無心なぞした日にはああだこうだとネチネチ言われ恩に着せられる事は請け合いだ。 銀時はかぶき町に顔は広いが、団子屋、居酒屋、食事処とあちこちでツケを溜めている。支払う事もあるが溜める事の方が多分多い。尤も彼らも銀時が本気で生活に困窮していると知ればさりげなく救いの手ぐらい投げてくれる様な質の人間達だが、だからこそ余計にそんな他人の親切に胡座を掻き続けると言うのは主義では無い。貸しも借りも、元から返せるアテを考えるのが苦手だから好きなものでは無いのだ。 朝食には辛うじて固くなった白米がある。だが、昼食からのあては無い。冷蔵庫にはご飯に掛ける卵どころかもやしの髭一本すら無い状態だ。出涸らして薄くなったほぼ白湯の焙じ茶を飲むぐらいしか胃袋に入れられる物は最早この家の中には残っていない。 食感の悪い沢庵を、まだ濃い茶で呑み込んだ銀時は肩を竦める。新八の心配は尤もだし神楽や定春が餓えるのはまあ気の毒だとは思うが、万事屋は客、依頼人あってこその商売なのだ。依頼人が戸を叩かなければどうしようも無いではないか。 「銀ちゃん、私たち明日から何食べれば良いアルか。今日は何とか酢こんぶ囓って堪えられるネ。でも明日はどうするアルか」 ぽつりと神楽が呟きを落とせば、定春が呼応して「くぅん」と悲しげに鼻を鳴らし、新八は困った様に腕を組む。そして二人と一匹は示し合わせでもした様なタイミングで銀時の顔を見上げて来た。先頃までのジト目ではなく眉をハの字に下げた悲しげ──否、憐れみにも似た表情で。 「あのな、そんな面したってしゃーねーだろうが。依頼人が来なけりゃ仕事になんねェんだよ。仕事になんなきゃ金も稼げねェ。俺だって働きたいよ?稼ぎたいよ?でも客がいねェんだから仕方無ぇんだよ」 日頃から特別勤労意欲がある訳では無い銀時のそんな発言には初めから説得力が無かったのか、新八と神楽と定春は視線を交わし合うと同時に溜息をついた。年端もいかない子供や動物からの遣る瀬無いそんな態度に、銀時も流石に鼻白む。 「そうアルな。万事屋は依頼が無いとお金も無いから仕方ないヨ、定春」 「くぅーん」 「でも神楽ちゃんは育ち盛りなんだから、しっかり食べないと。姉上に相談してみるから、お腹が空いたら遠慮しないで僕ん家においでよ」 「ありがとナ、新八。でも銀ちゃんに甲斐性が無い事には代わり無いネ。アネゴだって家計が大変な筈だから迷惑ばかりかけらんないアル」 「……………」 定春の頭を撫でて言う神楽に、無理に笑みを作っている新八。突如として目の前で繰り広げられ始めた三文芝居めいた光景に銀時は僅かに頬を引きつらせながらお茶を飲み下した。言うまでもない、あからさまな嫌味の数々に反論したい言葉は山とあったが、毎度毎度極貧生活になる前には辛うじて残せる筈だったお金も、銀時がパチンコで使い切って仕舞うと言う悪癖があるので発言し辛い。無論今回もその例には漏れていない。数日前まではまだ食費ぐらいはあった。銀時にはタイミングの良い新台入荷を呪うつもりは無いが、子供らにそれを言った所で理解を得られる筈も無い。と言うか呆れられた挙げ句に抹殺される。間違いなく。 かと言って下手に何か適当な理由を言えばその事を咎められた挙げ句、臓器提供やら違法じみた治験やらを笑顔で勧められかねない。故に銀時は二人と一匹の抗議の視線から目をそっと逸らすと貴重な食料を碌に味わう事も無く胃に掻き込み、そそくさと席を立つ事にした。 「どこに行くんですか?」 「仕事探しアルか?」 木刀を佩いて玄関に向かう銀時の背を二人の声が追って来る。 「まぁそんなとこだな」 「ふぅん」 自分でも気が無いと思った言葉に返るのは全く信じていない様な声。ここまで諦められていると少々悲しくならないでもないが取り敢えずそれは黙殺して、銀時はブーツに足を突っ込むとそそくさと家を出た。溜息に送り出されるのを戸を閉める事でシャットアウトすると、未だ低い陽光が斜めに差し込んで来るのに目を眇める。 現在時刻は朝の九時を過ぎるかどうかと言った所だ。階段を下りた所で銀時は溜息をついて後頭部を引っ掻いた。一通り思い当たる行き先はパチンコ屋を含めてまだどこも開いてはいない。仕事探しなんてつもりはそもそも無いので候補にすら挙がらなかった。 正直に言って時間を持て余す他無くて、銀時は余り考えず適当にぷらりと歩き出す事にした。動き回って貴重なカロリーを消費するのは勿体ないし、無駄に歩いて依頼人やら仕事やら金運に遭遇出来るとも思えない。だが家でごろごろして子供らにネチネチと言われるのも面白くは無い。 (かと言って先立つもんは無ぇし、潰す暇にも困り果てる訳だが) しゃーない、と肩を落としつつ、銀時が選んだのは河原の土手に向かう道だった。定春の散歩によく使っている場所で、程良く晴れた空と良い陽気ぐらいしか得られそうなものが無いこんな日には丁度良いだろう。そこでのんびりと二度寝に勤しもうと言うのは悪くない考えに思えた。 同じ光合成──もとい日光浴をするならば公園の方が近いのだが、昨今では公園のベンチで眠っていると職質を受けたり、大人にも子供にも蔑みの眼差しを向けられがちなのだから仕方が無い。確かにマダオと呼ばれてもおかしくない行動を取っている自覚はあるが、まだ本格的に公園で段ボールに住んでいるグラサンのマダオの様にはなりたくない。 眠ろう、と固まった思考の所為か、のんびり歩きながらも自然と欠伸が出る。 そう言えば何か今日は妙な夢を見て仕舞った気がする。夢の中で銀時は餓えるどころか、白湯を大事に飲むどころか、最近行ってすらいない居酒屋で連れとのんびり酒を飲み交わしていた。 実際に連れだったのかどうかすら定かではないし、酒も飲めていたのかすら憶えていない。何せ所詮夢なのだから意味など無い。 でもそれは酷く意外性があって、でも何故か悪くは無い──そんな、おかしな夢だった。 。 ← : → |