秘すれば花 / 5



 流暢な文字で走り書きされたメモをひらりと日に透かして持って、銀時は肺腑の奥から憂鬱に染まった溜息を吐き出した。
 メモには簡単な地図と住所が記されていて、もう既に歩きながら何度も見たから概ねその内容は頭に入っている。それでも見返さずにはいられないのは、溜息をつかずにいられないのは、それが『仕事』についてのものだからだ。
 とは言っても万事屋の『依頼』では無い。依頼(しごと)は相も変わらず舞い込んで来ないからだ。
 ではこの『仕事』は一体何なのかと言えば。
 階下のスナックでご飯を恵んで貰いながらの神楽の愚痴に、見かねたお登勢が持ち前の世話焼きな性質を遂に発揮させたのである。家賃の催促かと身構えた銀時にお登勢が突きつけて来たのが件のメモ一枚だった。その内容は日雇いのバイト──但し高層ビルの窓拭きと言う面倒且つハードそうな内容だった──の紹介だ。
 「待ってたってどうせ依頼なんざ来ないんだろ。ちったぁ雇い主らしい事自分からしてみな」
 勢いに圧されたとは言え受け取って仕舞った以上、お登勢には銀時に否やを言わせるつもりなぞ無い。凄味のある笑みと共に吐き出された煙たい臭いに辟易しつつも、その何分か後には銀時はメモに書かれた地図を見つつ歩き出していた。実際金がもう無くて困窮していたのは事実だし、そろそろ少しでも金と、腹に入れるものが必要だ。神楽も定春も綿埃ぐらいしか食せるものの最早残っていない万事屋(いえ)に愛想を尽かしているし、そうなると新八の助けも期待出来ない。
 「まあ高所の窓なんて誰も好んで見つめやしねェだろうし、適当に綺麗に見える様にやっつけときゃ良いんだろ?桟を指で擦って文句言う姑とか幾らなんでも居る訳ァ無ぇし?」
 ぶつぶつとぼやきながらメモを懐に仕舞って辺りを見回す。かぶき町から少し離れたこの辺りの街区は所謂新しい町だ。庁舎の類の高層ビル群のそびえ立つ方面にまで、まるで雨後の竹の子の様に高いビルディングたちが軒を連ねていっている。
 街路は平日の昼間だがよく賑わっている。仕事に、買い物に、それぞれの目的を持って動いている人波の中を泳ぐ様に歩いていた銀時だったが、ふと道の先に黒い姿を認め、自然と歩調が緩まった。
 珍しくも少し俯き加減に建物に凭れ佇んでいた黒い人影の正体は、隊服を着込んだ土方だった。見廻り中と言う訳ではないのか近くに連れの姿は無い。
 銀時は連日の夢で大凡持て余すのに厄介になりかけていた感情を舌先で転がした。この侭行けば擦れ違う距離だ。知り合いの前をただ無言で通り過ぎると言うのは余り良い心地のするものではないし、どうせ喧嘩か言い合いかをして終わるのだろうが、まあ挨拶程度に声でも掛けてみるかと心の中で準備をする。
 何故喧嘩相手程度の知り合いと擦れ違うのに心の準備なぞわざわざ必要なのだと考えてみれば、実に馬鹿な話だとは銀時自身とて思う所だったが、訳の解らない夢を勝手に見ているのはこちらなのだから仕方がない。
 (お、)
 その時だった。土方が俯き加減の侭で口を掌で覆った。欠伸をしている。そしてその手で眠そうに目元を軽く揉んで、薄く開かれた目が自然と左右を見回せば程なくして至近距離にまで迫りつつあった銀時の姿を捉える。
 「、」
 喉まで出掛かっていた挨拶の類の言葉はその瞬間に消えた。銀時の姿を認めた途端、土方は露骨に表情を歪めて顔を逸らし、舌を打ったのだ。先日と同じ様に、さも忌々しそうに。その感情を乗せた仕草を隠しもせずに。あからさまに。
 厭な奴に会った。そう内心で呟いただろう言葉まで聞こえて来そうな態度だ。
 その瞬間に銀時の胸を満たしたのは、矢張り失望としか言い様の無い灰昏い苛立ちであった。
 「──…おーおー、税金泥棒さんがお退屈様なこって」
 呑み込まれた挨拶の代わりに銀時の口から出たのは、嫌味をたっぷり込めた皮肉になった。腕を組んで顔ごと銀時から視線を逸らしていた土方の目元が引き攣る様に震え、鋭い視線だけが戻って来る。
 「毎日昼まで惰眠を貪ってる様な奴にだけは言われたかねぇ」
 視線同様に刺す様な、忌々しそうに吐き捨てられる言葉に銀時の腑がじわりと熱くなる。図星ではあったがそれにまともには言い返さない。頭にまでは直ぐに血を昇らせないのはいつの頃からか得ていた銀時の性分だ。冷静とは言い難いが、少なくとも怒りに思考を奪われ我を忘れたりはそうそうしない。
 だから、大概の場合は土方と言い合いをした所で銀時の方が勝利──と言って良いのかは解らないが──する。その度に土方は棄て台詞じみたものを吐き捨て、二人揃って顔を背け手を引っ込めると言うのが常だった。
 「はァ?何それ、また的外れな張り込みとかで人の生活でも監視してんですか?これだから横暴な警察権力は困るよ全く」
 「っ、てめぇの生活なんぞ監視してる訳ねェだろうが!そこまでこちとら暇じゃねェわ。暇さえありゃ酒かっ喰らって昼まで寝てるどっかの誰かさんと違ってな」
 昼まで寝ていた、と言う部分を重ねて言われ、銀時は口をへの字に歪める。先頃の挑発に特に肯定を投げた訳では無いのだが、銀時が二日酔いで度々寝過ごす事は恐らく『どうせいつもの事』と土方の中ではそう認識されていると言う事なのだろう。そしてその情報源は以前の、あんぱんだかたまさんだかの張り込みで部下の得て来たものに違いない。
 人の生活なんぞ碌に知らない癖に、と出掛かった言葉を銀時は寸での所で呑み込んだ。部下からの情報を今でも事実の様に扱っている土方に腹が立ったのは事実だが、だからと言ってそれを指摘し訴えた所でどうなると言うのだ。認識の相違など、変える為には知って貰う以外に明確な方法など無い。
 そして、知って貰いたい、などと言う漠然とした願望は銀時の裡には無かった。
 (知って、だから何だってんだよ。その『先』が何かあるとでも?関わらねェ他人の正しい日常なんざ、世間話の種にもなりゃしねェってのに)
 なるとしたら精々口喧嘩のバリエーションに加える程度のものだ。それすら結局は『昼まで寝てる』と知った顔で揶揄されるだけのものにしかならない。ただ、それが伝聞の事か、本人の知っている事か、と言う殆ど無意味な違いが生じるだけの話。
 苛立ちを向ける矛先を見失って、銀時は胸の中でだけ、ちくしょう、と呻いた。悔しいのは、もどかしいのは、苛立ったのは、図星に対してでは勿論無い。知られていないだろう想像に対してでも無い。
 夢の中の。あの土方の表情が、様子が、脳裏にちらついては銀時の冷静になろうとする思考を掻き乱す。様々の苛立ちを作り出しては、答えの無い落胆に惑って立ち尽くす。
 「…それより、」
 思考の渦に溺れそうになっていた銀時を引っ張り戻したのは、舌戦の途中だと言うのに強引に話を切り替えようとする土方のそんな言葉だった。藁と思い縋るつもりで訝しむ視線を向ければ、余所を向いていた土方の顔がこちらを振り向くのに出会う。
 「………その。だ。本当に…、何も起きちゃいねェのか?」
 問いに銀時は二度瞬きをした。眉が自然と困惑を示す様に寄る。
 言われている内容は先日沖田に促される様にして出した問いの延長線の様なものだとは即座に理解出来る。そしてそれに掛かるものは、銀時が真選組の捕り物に巻き込まれたあの出来事に矢張り相違ない。
 何の痛みも異常も引き起こさなかった、光線銃の様なものの一撃。どれだけ思い起こした所で、それに起因した異常も不調も何も憶えの無い銀時にとっては、土方が言い辛そうにしつつもわざわざ、それも幾度も重ねて問わねばならない程の被害では無い。筈だ。
 今回も銀時の反射的に浮かべた、問いに対する返答はこれだ。"何でもない"、"何も起きていない"。
 何故それがここまで土方の表情を気鬱そうにさせるのか。沖田の口にした通り、『一般人を巻き込んだ』事そのものでも引き摺っているのだろうか。それこそ矢張り少年の続けた通りに『らしくない』のだが。
 寧ろ銀時の知る限りの土方であれば、銀時が巻き込まれた事を逆に迷惑がって文句をつけたり、日頃の行いだろうと小馬鹿にするぐらいはしそうな気がする。
 「何、お前この前もそんな事言ってなかったっけ?……あ、ひょっとして俺の事心配でもしてんの?」
 答えの無い不快感の中で結局出たのは、先日と同じで土方を怒らせてみようとする類の言葉だった。そして今度は土方もそれに応じて来た。虚を衝かれた様にぱちくりとした後、直ぐに顔を紅潮させて憤慨を連ねる。
 「ハァ?!何言ってんだ、誰がテメーの心配なんざするか!ったく、人が少しばかり申し訳なく思って下手に出てりゃ調子に乗りやがって」
 「アレ、そうなの?やっぱ警察として一般人を巻き込んだって事は気にしてたんだ?その割にゃ誠意の欠片も無ェよなー、何せこちとらまだ謝罪も慰謝料も貰ってないしィ?」
 「ふざけんな、巻き込まれたっつったって、そもそもてめぇがあんな所暢気に歩いてたから悪ィんだろうが!」
 煙草を歯の間で噛み潰しながら土方が拳を握りしめた。応じて銀時も不快そうな面持ちを作って相対する。獣同士だったら喉を鳴らして唸り威嚇し合っている様な所だ。
 飲み屋で互いに肩を並べ穏やかに笑い合っている姿なぞ、そこにはどうやったって入り得ない。ここにはどうしたって、有り得ない。
 これは、ほぼ他人と言う間柄の、ただの喧嘩だ。いつもの、埒もなくどうでも良い喧嘩。
 迫った距離で額がぶつかりそうな姿勢で互いに睨み合う。ここから掴み合いか言い合いの延長かに続くのが大体いつもの流れだ。
 「副長、解りましたよ。問題の天人の客ですが──」
 だが、今回はその流れには進まなかった。途中で乱入したそんな声に、土方ははっと我に返って銀時から体を離すと、身を預けていた建物の入り口に姿を現した部下の方を振り返る。
 「…って。旦那、どうも」
 雑居ビルの入り口から出て来た地味顔が銀時に向けて軽く会釈をして来る。食べようと思った皿を急に避けられた様な心地になった銀時は口端を下げながらお座なりにそれに応えた。不戦へと忽ちに転じて仕舞った空気に思わず溜息が出る。
 「山崎、客ってのは──、」
 フィルターの潰れた煙草を摘んでそう言いかけた所で、土方は銀時が目前に居たと言う事を思い出した様にはっとなって口を噤んだ。今し方喧嘩の始まりそうな様相だったと言うのに、仕事の事が少しでも意識に戻れば直ぐにそちらにスイッチが切り替わって仕舞うらしい。
 あからさまな拒絶にも似たその態度に、銀時はもう一度、今度は心底にどうでも良さそうに溜息をついてみせる。
 「おまわりの仕事になんざ興味ねェわ」
 肩を竦めると、ここが契機だと思って銀時は歩を再開させた。不覚そのものと言った表情で立ち尽くしている土方の横を通り抜けると、聡く気まずさの様なものでも憶えたのか、僅かに困り顔で上司とその暫定喧嘩相手との様子を伺っている山崎に向けて言う。
 「人の心配一つまともに出来ねぇとか、お宅の副長さんどう言う教育してんの?ダメだよ?立派な社会人がそんなんじゃ」
 「、」
 「いやアンタにだけはそれ言われたくないと思うんですけど」
 ぐ、と奥歯を噛み締めた上司に代わって、山崎が苦笑を浮かべてやんわりと銀時の向けた棘を躱した。前後の会話も喧嘩の理由も解らないだろうに、銀時にとっても土方にとっても上手い躱し方だ。矢張り聡く何かいつも通りとは行かない不穏なものでも感じ取っていたのかも知れない。
 だがそれに対して感心よりは呆れの様なものを憶えた銀時はもう一度軽く肩を竦めると、その侭警察二人の横を通り過ぎて雑踏の中へと再び埋没し歩き出した。
 視線も言葉も追っては来ない。それもその筈だ。聞き込みにでもやっていたのだろう部下が戻って来たのだから、土方は仕事に戻るのだ。日常未満の喧嘩の事など直ぐにどうでも良い事として忘れて。
 銀時とてそのつもりであった。お登勢の紹介してくれた日雇いの働き口に向かっているのだ。この侭一日を日銭を稼ぐ為の勤労に費やして、高層ビルの窓を磨く。そこにだけ従事すれば良い。
 (………)
 然し胸の裡から先頃憶えた熱が消え行かない。腑を瞬間的に苛立ちへと沈めた不快感は、銀時の心の奥底でじっと燠火の様に燻って燃え残っては不快な熱で苛んでいる。
 その正体は矢張り失望で、諦めで、落胆で。
 あの夢が居心地良く楽しいと思えているからこそ、現実の、本当の、目の前に立っていた土方との齟齬に腹を立てて仕舞う。
 それが余りに自分勝手な怒りだと、見当外れ良い所の苛立ちだと理解しているからこそ、それはどうやったって銀時自身の諦念と失意でしか解消する事が出来ない。
 その事自体に苛立つなど、心底にどうしようも無い。思って銀時はかぶりを振る。どうやったって、何を思ったって、あれは夢なのだ。楽しかろうが印象を違えようが、夢の中の登場人物は実際のそれとは異なった存在だ。
 ……その夢の中の方が、現実の人物よりも良いと思って仕舞ったからだ。それを、幾ら思い起こしても否定する気になれなかったからだ。
 だから苛立ちばかりを憶える。無意味な齟齬に憤って、『夢の中の土方の方が良い』などと身勝手な想いを抱くから。
 (何で、あんな夢ばっか見んだよ)
 ちくしょう、ともう一度声無き声で吐き捨ててから銀時はそっと空を仰いだ。巨大な建築物たちに遮られて半分見えない空は冴え冴えと明るく、高層階の窓が陽光を反射して眩しかった。きっとよく掃除が行き届いているのだろう、と皮肉の様に思いながら、脳内に憶えきっていた地図の目的地に向かって急ぎ足で歩き出す。





牛歩。

  :