秘すれば花 / 9



 ふわふわとしたイメージが創り出していたのは、どこかで見覚えのある様な無い様なよく解らない居酒屋の店内だった。そんな所に居るのだから恐らくは酒を飲みたいのだろう。或いは楽しみたかったのだろう。そう思うほかにない光景の通りに、目の前のカウンターには透明な硝子のコップがあって、中は同じ様な透明な酒で満たされている。
 味はしないし、飲めた所で酔えはしない。目の前の皿に置かれたツマミも味蕾を刺激してくれる様な事は無い。
 手元で細い煙を上げている煙草も好みの銘柄のそれなのかさえ解らない。味はしないしニコチン摂取の役には立たない、ただの小道具だ。
 それはそうだ。ここに在るものは現実に置かれた風景ではない。不定形で身勝手なイメージの創り出す、脳の描いた想像の産物。それは正しく『夢』としか言い様の無い現象であって、空間であって、然し現実の理解として刻まれる時間の内側に在る。
 その癖に酒も、ツマミも、煙草も、酒を振る舞ってくれる店主やどうでも良い話をしている酔客と言った登場人物たちも、ただ一人を残して全てが虚構。
 偽りでは無く存在し、現実の時間を削り過ごしているのは、此処で夢を、『この世界』を描いている、言うなれば夢を見ている張本人一人しか居ない。
 「──で、そん時助けたジジイがな…、」
 直ぐ隣で盃を傾けながら下らなくて益体も無い様な事を喋っては笑いかけて来る、銀髪頭の男だ。和装と洋装を併せて着て、腰には巫山戯た銘の入った木刀。顔の造作は悪くないが、目に年相応の若い覇気ややる気が見られないのもあってかどうにも胡散臭い雰囲気が漂って仕舞っている。
 土方が知っているのはその男の名前と、然して儲かりそうもない万事屋稼業を営んでいると言う事と、為人程度の情報だけだ。攘夷志士だったと言う過去や、それ以前の人生の事などは一切知り得ていない。
 然しそれでも問題は無かった。下らない喧嘩をしたり埒もない言い合いをしたりするだけの、顔見知り或いはそれ以下の関係には、それだけでも。否、それですら必要無いものだったのかも知れない。
 知りたかった訳ではない。知れない事を知った事が悔しかったぐらいで。尤も、悔しいと感じて仕舞った時点で、恐らく土方の思っていた全ては破綻していたのだろうけれど。
 隣で笑いながら喋っている銀時に、応じて小さく笑って無難な返事を投げる。傾ける盃の、味も効果も無い酒に酩酊した様な素振りでそっと目を細めれば、隣の男もまた楽しそうに笑って、旨そうに酒を舐めた。
 このいい加減な記憶や寄せ集めの意識が構築した飲み屋と言う空間は、夢の集積所と言う不可解な場所に坂田銀時の描いている世界だ。本人の明確な記憶から作られたものではないそこは、現実にありそうで、然し細部が恐らく現実とは異なった曖昧な風景として描かれている。銀時の見た事の無いだろう店の奥や厨房などは恐らく適当に継ぎ接ぎされているか、若しくは存在していない筈だ。或いはひょっとしたらこの店とて、銀時の知る様々な飲み屋の印象が混じり合ったものであって現実には存在していないものなのかも知れない。
 獏人はこう言ったイメージで構成された夢の世界を自在に作り替える事が出来ると言うが、人間である土方にそんな能力がある筈も無いので、銀時の見て構築している世界を情報としてその侭受け入れるほか無い。そもそもこの店が現実にあろうが、無かろうが、そんな事は些末な事でしか無いのだが。
 獏人が山崎に話したと言う、夢の集積所から夢を見ている本人を呼び戻す方法とは、簡単に言えば土方が直接銀時を起こしに行く、と言うものであった。
 あの問題の光線銃(の様なもの)に土方は直接撃たれた訳では無いのだが、その直ぐ近くに居た事で光線の──正確にはその発した鉱石の──影響を受けているだろうと言う。言われて思い起こして見れば、放たれたのが銃弾では無く光だった事は確かだし、光の照り返しぐらいなら浴びていたかも知れない。
 だが、飽く迄直接撃たれた訳ではないので、その影響は大きくないらしい。そうでなければもっと被害者が増えていた事だろう。
 ともあれ、光線の影響を僅かとは言え受けた土方も、理論上では眠る事で夢の集積所へと飛ばされると言う事だ。そして、実際に獏人がそうである様に、夢の集積所ではそこを『夢』と認識する事で恰も現実世界の様な行動が可能になると言う。光線の影響が少なければ昏睡に陥る心配もまた少ない。昏睡出来る程に長期間『夢』を見るには至らないからだ。
 銀時の夢を見つけ出す事が出来ても、獏人と異なり夢を自在に弄る事の出来ない土方には、その『夢』を消す事で銀時を夢の集積場から解放する事は出来ない。然し幸いにか光線の効果は恒久的なものではない。その効果が消える時まで、銀時が夢の中に留まって昏睡状態に至る事が無い様に、土方が『夢』の中で起こしてやれば良い。一度昏睡状態になって仕舞ったらその人の精神を『夢』から戻す事は、『夢』を消す事の出来る獏人以外にはほぼ不可能になって仕舞うから、出来るだけ早い内に手を打つ必要があった。
 それは余りに無謀で荒唐無稽な話の様に聞こえたが、土方に他に手段を選んでいる余裕は無かった。母星に強制送還される獏人以外には、現在地球上に夢の集積場などと言う所に辿り着ける者は土方しか(恐らくは)いないのだ。夢の当事者である銀時には、自身でそれを制御する事は出来ない。『夢』は常に見るそれと同じで、その人の無意識の願望や記憶が反映されたものであって、そこに明確な意識や指向性が入り込む余地は殆ど無いのだ。
 土方には銀時を巻き込んだ責任を取る必要があったし、放っておけば死ぬかもしれない人間を見過ごす訳には勿論行かない。銀時を死なせる様な真似をしたくはないと思う個人的な思惑以上に、これは土方にとって果たさねばならない責務だった。
 尤も、と当初の土方は思った。どうせあの男の事だ、顔を突き合わせれば幾ら夢の中とは言え、不快な心地になって喧嘩をするなり直ぐに目覚めるなりをしてくれるだろうと。
 現実的に銀時と土方との関係は現実では概ねそんなものばかりだったから。下らない喧嘩と埒もない言い合いをする程度の、顔見知り或いはそれ以下の関係性。
 そうして辿り着いた夢は、見た様な見た事の無い様な飲み屋の中だった。
 好物らしい菓子やいちご牛乳にでも溺れる夢か、万事屋で何事も無く過ごしている日常の風景でも夢に見ているのだろうと、そんな事を思っていた土方は正直拍子抜けした。同時に、困惑した。
 カウンター席に座った銀時は酒を飲んでいる。時折他の酔客と話したり、店主と気易い会話を投げ合ったりしながら、穏やかに、楽しそうに。
 そんな風景の中、空いている隣席に、土方は気付いて仕舞った。
 
 (あそこに、誰が座る事がこいつの見たい『夢』であって、望みなんだろうか)
 
 湧いた疑問は、冷えて冴えた思考は、きっと悪魔の囁きか醜い誘惑だったのだと、今となってははっきりとそう思う。
 酔いの無い気怠い空気。曖昧な輪郭の描く風景。知らない光景。知る筈の無い銀時の表情。
 
 (誰か、が)
 
 気付いた時には、土方の身体は事実を冷静に俯瞰している己の思考に反して動いて、その席へと腰を下ろしていた。
 隣の男が一瞬不審そうな顔を向けて来るのに、自然と笑みが浮かんでいる。それは親愛でも気安さでも無い、自嘲しか篭もらなかったぎこちない、どうしようもなく無惨な失望感に包まれたそんな笑み。
 「すまねェ」
 唇の刻んだ言葉は声にはならなかった。何に赦しを乞いたかったのかさえ解らない空虚な偽だと解っていたからどうでも良いと思えた。それでも浮かんだ笑みだけは──きっと己で見たら殴りつけたくなっただろう無様で卑怯な笑みだけは、強張って動かない。
 然し銀時はそれに応える様に自らも笑って返した。
 楽しそうに。どこか気恥ずかしそうに。口を開く。喧嘩も無く会話をする。ただ黙って隣り合って酒を飲む。それはそんな、酷く身勝手な夢だった。
 あれから数日だ。それは今に至るまでずっと変わらない穏やかな世界を創っている、幸福そうな男の姿の見ている夢。勝手に望んで無遠慮に見させた『夢』。
 益体もない会話を投げ合いながら、笑い合いながら、時間を過ごしながら、土方は段々とそれを思い知らされていた。
 この感情には憶えがあった。嘗て棄てた、これからも抱く事の決して無いと思っていた、そう己に課した感情。やがて遠からず恋情と認識せざるを得なくなる、棄てる他に選択肢の無い感情。
 銀時が己に向けてくれるその表情も、感情も、互いに堆積していくこの時間も、現実の中では決して得られなかった記憶だ。
 何を知ったでも無い。何が進んでいるでも無い、ただ過ごすだけの時間。飽食するだけの偽り。
 何一つ変わっていない。現実で顔を突き合わせれば銀時には忌々しそうな表情を向けられるばかり。皮肉めいた言動を投げられるばかり。『夢』の中で異常が無い様に見えても、肉体的に何かが起きているのではないかと思ってそれを問うても不審がられ、不機嫌そうに答えられるばかり。それが『夢』とは異なった変わらない現実であると言うその通りに。
 その齟齬が悲しくて、虚しくて、悔しいと感じるこれは、それでも何れ棄てる事を選ぶ感情だ。
 少なくとも肯定を選ぶ選択肢は、真選組の副長である事に全てを捧げようと決めた、土方には有り得ない。だから、痛みも感慨も生じているのはきっと今だけの話だ。絶望と諦めと理解との狭間で悪足掻きをしようとしている、今だけ。今だけの、『夢』だ。
 「……そろそろ飲み過ぎだ。帰った方が良い」
 もう朝も近い。心地よさを振り切り頃合いを見計らって土方が促せば、銀時も「そうだな」と頷いて立ち上がる。
 「親父、ツケといてくれや」
 ひらりと手を振る銀時に、何日目になっても店主が文句を言う事は無い。
 「毎度ありィ」
 気を悪くした風情でもない声に送られながら店の戸を開ければ、現実の時間経過とは異なるそこにはまだ夜も更けたばかりの街並みが拡がっている。それとて恐らくは夢の産物だから、どこか曖昧で適当なものなのだろう。夜の闇はあちらこちらが深く、ネオンの光は遙か遠い。
 「……〜あー、のさ、」
 店の戸を閉じるなり、後ろ頭を軽く引っ掻きながら銀時が切り出すのを土方はゆっくりと振り返った。酔っているのか、酔えていないのか、鼻の頭を少し紅く染めた男はふらりと視線を游がせている。
 その直ぐ横で、今し方まで飲み合っていた店の輪郭が曖昧に溶け出すのを感じて、土方は夢の醒める時を悟った。夢を見ている張本人である銀時がごく自然に目覚めようとしているのならばそれを促す必要がある。その自然の摂理に銀時の無意識が未だ従えるのならそれに越した事はない。
 「じゃあな」
 続きを待たず、言って土方が背を向ければ、銀時も何か言いかけた言葉を呑み込み「またな」と笑って背を向けた。暫くその背をこっそりと見送っていると、やがて銀時の姿が消え、周囲の風景は泥の様にぐにゃりと崩れ落ちて行く。
 夢なんて醒めれば形も残らない。記憶には何かしら残るかも知れないが、それとて所詮は夢と言う現象としての認識でしかない。
 ぐずぐずと崩れて行く世界にそっと目を閉じて、再び開いた時には土方の目の前には見慣れた天井が拡がっている。世界のチャンネルが一瞬で切り替わるかの様なその変容を、余りに無情ものだと時々思わずにいられない。
 朝日の斜めに差し込み始めた部屋。慣れた感触と匂いの布団。後頭部を預けた枕の固さ。殺風景な室内と机に積まれた書類の山。
 現実に在るのか無いのかも知れない飲み屋の夢は醒めて、現実は居慣れた副長室に眠っていた己の方だと否応なく知らしめて来る。正確には眠って見る夢ではなく、他人の『夢』を明確な土方の意識が体験しに行っているだけだから、醒めたのではなく、戻っただけなのだが。
 「………誰の、夢だって…?」
 布団の中に吐き捨てた言葉には、苦々しい失意が篭もっていた。
 罪滅ぼし。それとも警察としての使命。責任感。それを宣った正体は個人的で独善的な感情でしかないのだと、土方ははっきりと思い知る。棄てるに惜しい感情とただそれを抱えて過ごす時間の心地よさと幸福さの『夢』に浸って、一体どの面下げて責任感だの使命感だのと言い訳を放つのか。
 他人の夢を利用して、己の願望をそこに描こうとするなど。それに、失望以外の何の感情を得れば良いと言うのだ。





棄てようったって、目の前にしょっちゅう居たら棄てられんよねと言うお話。

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