あまいはな / 3



 手元が暗くなって来た事に不意に気付いて、顔を起こす。
 掃除の為に開け放しにしてある、庭に面した縁側。そこから斜めに差し込む橙の残照が、濃い影で出来た模様を色褪せた畳の上にくっきりと描いている。
 捨てる物と売る物とを選り分ける作業と言うのは、ただ漠然と整理整頓をするよりも余程に脳を使うものだった。幾ら、好きにしてよいと言われた所で、やっている事は他人の生前の遺品整理の様なものである。神経を尖らせていると言う程では無いのだが、矢張りそれなりに真剣に取り組んで仕舞うらしい。少なくとも何でも適当にゴミ袋に放り込むと言うのは気も引けようものだ。
 そんな訳で気が付けば銀時は結構に長い時間を集中して作業に励んでいたらしい。首を回すとこきこきと良い音が鳴り、意識すると確かに疲れていると感じられる両肩を落とした。
 (今日もめぼしい収穫は無し、か)
 やった事はと言えば、布団を粗大ゴミとしてまとめて、押入れに仕舞われていた古新聞や古本や古着やら、とにかく古そうなものの選り分けと片付けだった。
 老婆の一人暮らしとは言え、人ひとりの人生を詰めた家の中と言うのは矢張り密度が高い。銀時も、かぶき町で暮らし始めた当初は着の身着のままで何一つ所持品など無い様な状態だったが、定住し年数を重ねる毎に家には生活雑貨や食料の他に、家具や嗜好品がどんどん増えて行った。
 しまいには居候と従業員と飼い犬とが加わって、更に雑多な物品は増えた。思い出と共に増えて行った。人間とは一所で年数を重ねるだけ、様々な跡を作り、遺すものなのだ。それが塵であれ宝であれ同じ様に。
 選り分けた、積んでおいた古い雑誌や趣味らしい書物を紐で手際よく括りながら嘆息する。家には、棲家には、どうしたって生きて来た痕跡が残される。存在していた残骸が遺される。この、本の一冊でも、布団の一枚でも、銀時にとっては処分すべき対象であれど、老婆の人生の中では紛れもなく意味のある一日や一瞬を紡いだものだった筈だ。
 そんな、人の生き様のまざまざと残る家の中から、たった一つの『証』と思えるものを見つけて欲しいなど、砂漠に落ちた針を探す様なものだ。否、それどころか探すものが針かどうかすら解らないのだからもっと困難な話だろう。
 「……」
 面倒な依頼を請けて仕舞ったものだと思いながらも、暮色に染まった部屋を、古い匂いの漂うどこか物寂しい情景に浸って仕舞う。特別思慮深く無くとも矢張り適当には出来ない。
 何だか、知りもしないのに感情か何処かが懐かしがっている気がして、銀時は忘れものがないかと言う確認ついでに家の中をぐるりと見回した。
 老婆一人の痕跡しかない家でもこれだけ苦労するのだから、子供の独り立ちを見送った老夫婦の家などはもっと大変なのかも知れない。一人分どころか二人、三人と増えるだけ思い出の詰まった痕跡も増える。孫まで居たら更に嵩を増すだろう。
 益体もない想像に肩を竦め、窓の戸締まりをきちんと済ませてから、銀時は鍵を持って玄関を出た。三和土に置いてあるゴミ袋詰めの布団を見て、帰りにコンビニに因って粗大ゴミ用のシールを買っていく事を改めて自分に言い聞かせながら、古い扉を施錠する。
 幾ら空き家に近い状態とは言え、たちの悪い輩に荒らされたりするのは寝覚めが悪すぎる。家主から直接依頼を請けた以上、その辺りはきっちりとしなければならない。
 手の中で軽く転がした鍵を袂に仕舞い、外に停めてある原付きに向かって歩き出し──、た所で銀時のその足が止まった。ぽかんと一瞬口を開いて、目を細める。油断すれば笑いそうになるのを、弾みそうになる呼気を堪えて、努めて静かに紡ぐ。
 「…何やってんのおめーら。バイク泥棒?」
 「心外でさァ。どっかで見た様な車輌だなと思ったんですがねィ、こっちも仕事なんでね、駐禁取ろうかと思いやして」
 塀の前に停めてある原付きの傍にしゃがみこんで、前輪と地面とに白墨で態とらしい、落書きめいた印を付けていた栗色の頭は、銀時の声に顔を起こしてみせた。
 黒い、警察組織の装束。佩いた刀。予想通りの見慣れた顔がそこにある事に際限のない溜息をつきそうになりながらも、銀時は地面に少しだけ書かれていた白墨の跡をブーツの爪先でぐしぐしと踏み消した。
 「駐禁取んのはおめーらの仕事じゃないよね。対テロリスト相手の武装警察さまが交通化のお手伝いなんかしてられる程暇な訳?」
 「暇な訳ねーでしょう。その警察の巡回中の、まぁ暇つぶしでさ」
 しれっと、白墨をポケットに仕舞いながら抜かす沖田の調子はいつも通りの飄々としたものだった。遊んでいるのか真剣なのか真剣に遊んでいるのかも、いつもながらによく解らない。
 何を言っても無駄だと思った銀時は視線を、彼らから少し離れた所で塀に寄りかかって佇む黒髪の男へと向けた。
 「暇つぶしで駐禁取られるとか堪ったもんじゃねェわ。ちょっと副長さん?困るんだけどなァ、部下の面倒はちゃんと見てくんねーと」
 「総悟が勝手にやってるだけだ。俺の管轄じゃねェ」
 (………アレ?)
 視線の先。土方は銀時の姿をちらりと一瞥して言ったのみで、こちらに碌に意識も向けては来ない。沖田を叱る素振りすら全く見受けられない。
 (なんだ、……?)
 銀時の眉が自然と寄った。何故だろうか、何かが違う気がした。直感的な感覚とでも言えば良いのか。理由は見当たらないが確信はあって、弾みそうだった心地が急速に萎んだ。
 それは、いつも見慣れていたものがほんの少しだけ変わった事に憶える様な違和感に似ていた。微細だが痛烈に意識に訴えて来る様な不協和音にも似た不可解感。
 「……?」
 まるで間違い探しの様な心地だった。銀時は続く言葉を探し倦ねて土方の立ち姿をまじまじと見つめる。黒髪。煙草。着崩れのない隊服。黙って立っているだけなのに隙の無い佇まい。鋭すぎる眼差し。
 見た目にはいつもと変わらない。確かにその姿は銀時のよく知る土方十四郎と言う人物に相違ない。そうでなくとも易々見間違えたりする様な存在でもない。
 少なくとも見た目に違和感はない。…筈だ。だが、何処かに違和感がある。その正体を見極める事が出来ないが、何かが──、そう、何かが。
 (……違う、って程じゃねェ…、が……、何だ、この妙な感じ…)
 「……」
 やがて、訝しむ銀時の顔を見上げていた沖田が、膝を叩いて立ち上がった。少し態とらしいその仕草に誘われる様に意識をそちらへと向ける。
 「真選組(うち)は放任主義でしてねィ。ちょっとぐらいのびのびしてた方が良く育つとか何とか、近藤さんもそう言ってた気がするとかしないとか」
 「イヤそれ寧ろお前らの大将が一番放任されてるやつだからね?放任つーか放牧?野ゴリラが町中に出るって最近話題だからね?」
 言いながら、少しばかり態とらし過ぎる、無駄なやり取りだと銀時は自分でそう思ったのだが、沖田の様子からするに、恐らく銀時にこう返して欲しかったのだろうと思えたのだ。
 だから、不自然だろうが強引だろうが、助け舟と思って使わせて貰う事にした。
 その名前を出せば、その話題を出せば、近藤の事をまず一番に考えている土方が、無言無表情の侭で立っている筈は無い、と。そう思って。
 (…そうだ──、表情、か?)
 思い至った曖昧な推測は、思考の空隙を更に拡げただけだった気さえするものだった。
 そこに在ったのは、目を逸らすとか、不機嫌だとか、そう言った横顔ではなかった。銀時に、沖田の行動にさえまるで無関心の様に振る舞うそれに憶える、不可解な疑問は精々が表情筋ぐらいのものでしかなく──、だがそこに最たる違和感として在った。
 だから銀時はどこか縋る様に再び視線を滑らせる。むっと眉を潜めてこちらを睨む、いつもの土方の姿がそこにあると信じて。
 だが──
 「総悟。休憩時間はもう終いにして、巡回に戻るぞ」
 土方は基本的には負けず嫌いだから、まるで逃げる様に、腹を立てて場を辞す様な性格ではない。時間が無いにしても何かしら悪態ぐらいは残して行く。
 壁から背を起こした土方は、己を見つめている銀時の姿を見はしたが、それだけだった。知己を見る目や嫌いな相手を見る目や容疑者を見る目でもない。なんでもない、ただの他人(ひと)を見る様な。特に理由もなければ視線すらそこに留めない。雑踏を見つめる様な、たったそれだけのものだった。
 当然だがそこには、銀時の期待した様な怒りの感情は欠片も無い。
 腹など立てていない。文句を紡ぐでもない。だから無論、逃げるでもない。
 本当に、休憩時間が終わったから、巡回に戻る。そうとしか伺い様も言い様もない。
 「へェ」
 背を向ける土方に気のない返事を投げると、沖田は銀時に向けて肩を竦めながら横をすいと通り過ぎた。それは同意を求める様にも、諦めろと諭す様にも見えた。
 その様子からも、沖田も銀時の感じるこの『何か』としか言い様のない違和感を感じているのではないかと思えたが、それを今ここで、疑問の中身すら判然としない状態で問う事は躊躇われた。
 一度も振り返らない背中。それを追う沖田の靴音が遠ざかって暫くの間、銀時は胸中に澱んだ不快な味わいを持て余して立ち尽くしていた。
 (…何だ、アレ)
 怒らせたとか、無視されたとか。そんな解り易いものではなかった。
 極めて『普通』に応対された。沖田が態と近藤の話を振る様に持って行っても、常に見る様な反応は返って来なかった。
 『普通』の『他人』。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。銀時は疎か、沖田や近藤でさえもそう扱うなどと。土方がそうするなど。全く思いも寄らない事としか言い様がなく、矢張り違和感と不可解さだけがぐるぐると腑の底に音もなく沈殿して行くだけだった。







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