あまいはな / 4



 見えたのは背中だった。
 ひとりきりで佇む、黒い色彩の、ぼろぼろに草臥れた衣服に覆われた、背中。
 銀時にはそれが『誰』なのか、何故その背がしっかりと前方を見据えて揺らがないのかも、解っていた。解っていた、気がしていた。
 「──」
 だから手を伸ばそうとした。理解して寄り添う者としてではなく、気付いてすらいない無知の、彼の世界の埒外の、何を憚る事もなく気軽に背中を叩ける存在として。いつもの様に、そうしようとした。
 「──、」
 だが、その手は伸びかけた侭で動かなかった。いつもならば無駄に、無造作に湧き出る埒もない言葉たちが、掛ける声が裡から湧いて来ない。
 空回りする感情。その狭間で己の指先が躊躇う様に、伸ばされて届かないそこで弱々しく藻掻いている。
 行き場のない手の直ぐ先。何も知らない気楽な顔見知りとして振る舞おうとする己をまるで拒絶でもする様に、その背はぴんと張り詰めて其処に在った。
 触れたら罅割れるのか、それとも彼の手の縋る様に握る刃が向けられるのか。それさえも解らず、ただ手だけが動かない。
 『いつもの様に』すれば良いのだと思う行動に、不意に疑念が過ぎる。これは『いつも』の事なのだろうか。此処は、『いつも』の風景なのか。
 「──……」
 結局手は届かず、言葉も湧かず、声も出ない侭、まるで時が停まった様に時間が停滞した。重苦しく、比喩ではなく息苦しい。
 何故、『いつもの様に』在ろうとした事が、こんなにも難しいのか。
 何故、軽口を叩く事さえ憚られる様な気がしたのか。
 何故、息が出来ない程に、苦しい、の、 か──、  …、
 
 *
 
 くは、と肺が呼吸を絞り出して、目を見開く。動悸、息苦しさ、重苦しさ。それを己の身にもたらしているものから逃れようと咄嗟に振り回した手が、もふ、と生ぬるい毛の塊に触れた。
 「……っっだああああ!」
 思わず絶叫して、銀時は掛布団を引っ張りながら身を捩った。僅かに身体が傾いた事で、布団の上に鎮座していた巨大なモフモフの塊がほんの少しだけ動き、そこで漸く布団から畳に這いずる様にして転げ出る事が叶った。
 一気に戻った呼吸にぜえはあと肺を上下させながら、銀時は己に悪夢と、言葉通りの意味の息苦しさや重苦しさを与えて来ていた、布団の上に座っている巨大犬を振り向く。
 「わう」
 おはよう、とでも言いたげな、いつも通りの鳴き声。とてもではないが、今し方までご主人さまを踏みつけていたとは思えない、極めて暢気そうな犬の声であった。
 「定春ぅぅ、おめーな…、銀さん寝覚めが悪いどころの騒ぎじゃねーよ、何で人の布団の上にわざわざ乗るんだよ、おはようどころか一生お休みする所だっただろーがァァ!」
 ぼす、と枕に八つ当たりしながら叫ぶと、まだ落ち着かない呼吸にくらくらと目眩がした。脳に血が戻って来ていないのか、寝起きだからなのかは解らないが、どちらでもいい。原因は不肖万事屋の犬である事にはどうしたって変わりがないのだ。
 畳の上に尻をつき項垂れて嘆息すれば、丸まった背が小さく上下した。情けない様な単に疲れただけの様な、苛立ち未満の感情を持て余しつつ頭を掻く。寝苦しかったのは確かに定春の所為だろうが、夢見が悪かった原因はそこではなく、それについてを当たり散らしても仕様がない。寝起きから窒息しかけて疲れきった銀時の脳でもそのぐらいの分別はある。
 「……」
 原因など探す迄もなく知れていた。期待通りの反応をいつも返して来る顔見知りが、全く予想外の、想定外の、よく解らない反応を、恐らくは初めて寄越した事だ。
 苦しいと言う感想の夢見の原因が『それ』たった一つに絞られるのかどうかは解らないが、少なくともそれに起因している感情の反射の筈だ。
 不満。不快。不可解。疑問。違和感。そして、それらに対して答えは疎か、思考するに足るものを何一つ持たない己に対する落胆の様なもの。
 大体にして土方十四郎と言う男は、銀時の基準で言えば『解り易い』性質の男であった。直情的とか感情的と言う程に露骨なものではないが、正しく分析するのならば、生来持っていたそれらを、社会的な理性と言う上っ面で何とか隠している。
 ……つもりで居る。少なくとも土方当人はそう思っているだろう。
 銀時はその『上っ面』を暴く方法を知っている。こう言えば土方は生来の感情を剥き出しにするだろうとか、こう挑発すれば強がって後に退けなくなるだろうとか。性格の悪い事だとは自分でも多少思う所だが、からかい甲斐があって大層宜しいのだ。
 そして大体の場合、土方は銀時の吹っ掛けるそう言ったからかいを真っ向から受ける。互いに本気でやり合う様なものでもない、ひとつのコミュニケーションの様にして。
 恐らくだが、それは土方の側からしても満更でも無い事なのだ。そうでなければ、幾ら腐れ縁だの何だの言った所で、からかって言い合う事がコミュニケーションの手段として成立する訳がない。
 (……そか。それが、違和感の正体か)
 畳に視線を落とした侭、やがてそう至った銀時は二度目の溜息をついた。
 昨日出会った土方は、打っても響かないとでも言うのか、銀時の『コミュニケーション』そのものを拒絶するでもなく、理解と了解すら出来ていなかったのだ。
 不機嫌で無視をしたとか、面倒で話を逸したとか、そんな段階にすら至っていない。銀時だけが、いつもの挨拶の様にして相対しているのに、土方はさながらただ返事をする壁か何かの様であった。
 暫く遭遇しなかった程度で、人間はそこまで変わるだろうか。と言えば、答えは恐らくノーだ。だからこそ不可解な疑問だけが、よく解らない夢を見る程に重たく堆積して仕舞っている。
 気まずささえ残さない。そう至るに足るものすら存在していない。そんな気配を、昨日の土方はずっと保ち続けていた。
 「……怒ってる、とか言うのとも、どうも違ぇ気がすんだよなァ…」
 考えても仕方がないか、とかぶりを振って、銀時は定春が布団の上で丸まって二度寝に入ろうとしているのを、ぺちりと鼻面を叩いて起こした。定春は迷惑そうに「わうぅ」と唸って一丁前に抗議を寄越したが、寝覚めの悪さで寝汗を吸った布団は干したい。幸いにも外は晴れている。布団も柔らかくなって丁度良いだろう。
 「おはようございます、銀さん。朝ごはんもうじき出来…、って珍しいですね、ちゃんと起きてるなんて」
 声に振り向けば、寝室を覗き込んだ新八が驚いた様な顔をしているのに出会う。のそのそと部屋を出ていく定春に銀時が視線を遣れば、それで大体を察したのか苦笑が返る。
 「今日も依頼の掃除に行くんですよね?昨日頼まれた、粗大ゴミ用のシール、買っておきましたよ」
 「…おー。助かったわ。領収書あんなら依頼人のバーさんに経費請求すっかね」
 「またそんな事言って。家のものは好きにして良いって言われたんだから、それで妥協しましょうよ。お婆さんも、長い人生の最期を万事屋(うち)に託してくれたんだから、あんまりみみっちい事言わないで下さいよ」
 銀時の軽口に、口を尖らせて、新八。ゴミの処分費用もそれはそれで馬鹿にならないし、家財を売却して元を取ったとして、どの程度のプラスになるかも全く知れないのだと銀時は反論めいたものを浮かべかけたが、わざわざそんな事をだらだら言うのも億劫になって「へーへー」と適当に躱した。
 布団を窓からだらりと干して布団挟みで固定する。空は晴天。日当たり良好。一仕事終えた達成感の様なものを軽く噛み締めてから窓を閉めた。
 「『証』って依頼でしたよね。一つだけ選んで欲しいって。一体何が良いんでしょうかね?」
 最期を見据えた老婆の頼み。赤の他人の万事屋にこそ選んで欲しいと言われた、その依頼自体はなんだか酷く抽象的と言うか、はっきりしなくて、だからこそ銀時は未だに適当に選び出す事も出来ずにいる。
 「…さぁな。年寄りの思い出なんて、それこそ家の中にごまんとあって、選ぶってのが無理な話な気もすらァ。無理難題吹っ掛けるって、かぐや姫かっての」
 特別誠実な思いを抱えた訳ではないのだが、人生の最期に遺す『証』を選ぶ、と言うのは、死に際に思い出す事を決める様な気がして、軽薄に扱うのもどうにも忍びない。一風変わったクイズでも何でも無いのだ。
 「うーん。ベタですけど、やっぱりアルバムですかね?思い出の写真とか」
 「今ん所、写真の類は出て来てねぇな。家の家財からして一人暮らしだったみてーだし、病院で死ぬってぐれェだ、家族もいねぇんだろ」
 だから写真って線は無いだろ、と続けた銀時に、新八は当てが外れた事に残念そうな表情を浮かべながらも、思い出した様に台所に戻って行った。途中で神楽を起こす事は忘れない。
 顔を洗って寝覚めの悪さをすっきりさせようと思って、銀時ものろのろと寝室を出た。なんとなく見回した万事屋の建物の中は、そこかしこに三人と一匹の生活の痕跡が刻まれている。たかだか三十年に満たない人生の、その内のほんの十年程度でも、神楽や新八に至ってはそれ以下でも、人が住まう所にはどうしたって思い出が刻まれるものだ。
 人と、人との関係には必ず何かが残る。一人だけでは残せないものが、きっと残る。
 それでは、ひとりきりで抱えて来て、ひとりきりで遺そうと言う思いの正体とは何なのだろうか…?







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