あまいはな / 6



 見上げた時計は想像していた時刻と大きく異なっていた。
 短針が七の、長針が九の少し下にある。七時四十四分。然し頭を巡らせて見た窓の外は大分暗い。外の静けさも加えてみれば、子供ならばとっくに寝ていそうな頃合いだろうと経験則からそんな感覚を憶える。
 根拠はなかったが確信は何となくあって、銀時は自然と苦々しくなっていく表情筋はその儘に、両腕を体の上へと伸ばした。長時間同じ姿勢でいた為に強張っていた筋肉は重たく、ついでに言うと背中も少し痛む。
 (……最後に見た時は確か夕方だったよな。まだ)
 カーテンの開かれた儘、真っ暗な庭を硝子の向こうにぼやりと見せている窓を見やって呻く。確か夕日を見ながら、そろそろ腹が減ったなとか、晩飯は何だろうとか、そんなどうでもいい事をぼんやりと考えていた気がする。
 そこから時間と記憶とが飛んでいる。気づけば夜。それも時計で確認出来る時刻とは大凡かけ離れた時間帯。
 「………ああそうだようっかり寝ちまってたよ、これじゃ掃除も時計も進む訳ねーだろうが!」
 眼前に積まれた、片付け中の家財の一部に向かってそう吠えてから銀時は肩を落として嘆息した。幾ら単純な片付けの最中とは言え、うっかり欠伸をした儘に目を瞑って、それから一体何時間眠りこけていたと言うのやら。
 時計は、指している時間的にも恐らくは電池切れで止まっている。役に立つ訳がない。腕時計や時間を表示する携帯電話の類など持ち歩いていない銀時には生憎と現在時刻を簡単に知る術は無いのだが、己の体内時計や感覚に、窓の外の風景を目を凝らし耳を澄まして伺い見るだに、軽く飲み屋から酔っ払って帰る程度だろうと思う。
 (新八と神楽は…、まぁ心配する様な事があったら訪ねて来てるか。て事は、仕事帰りに飲み屋でも寄ってるとでも思われてんだろうな…)
 仕事中にうたた寝をしてすっかり寝入って仕舞っていた、と馬鹿正直に言うぐらいなら、その方がまだましな気さえする。
 布団も敷かぬ畳の上で眠っていた己の顔や腕に、畳の目がついていなければいいのだが。思って頬を軽く擦ってから、銀時は取り敢えず今日の仕事はここまでにして引き上げる事にした。
 片付けの進捗はお世辞にも余り良いとは言えないし、依頼を受けてから結構な日数は経って仕舞っている気がする割に、未だ依頼主からの要望に叶いそうな物品の発見も出来ていない。
 (生きて来た証をひとつ選んで欲しい、ったってよぉ…)
 あれから何度も新八や神楽だけではなくお妙も交えて話したりもしたのだが、結局結論は出ない儘に終わっている。
 なまじその事を考えて仕舞っていると、片付けながらも、これは棄てて良いのだろうかと一瞬手も止まるしで、先に家財を適当に全部ひっくり返して、依頼人の望む品を見繕ってから処分や分別をした方が良いのではないかとも思う。
 連日そんな事を考えながら作業をしているから、余計に変な疲れでも出たのかも知れない。そんな無理矢理な言い分に落ち着くと、銀時は窓の施錠を確認し、カーテンを引いた。忽ちに部屋は真っ暗になるが、元より薄暗い所で眠っていたのでそこまで目の不慣れを憶える事もない。
 それに何より、ずっとこの小さな家で片付けの作業をする内に、すっかりとその場所に慣れて仕舞った。電灯のスイッチに自然と手は伸びるし、どの程度の歩幅の歩数で廊下に出るとか、そういう事もすっかり体に染み付いて仕舞っている。
 依頼人の老婆もそうやってひとりでここで暮らして来たのだろうか。ふとそんなごくごく当たり前の考えが過ぎって、思わず廊下から部屋を振り返る。
 埃と、生活の匂いのする空間。当初感傷的にも思えたその空間は、片付けが進む次第に引っ張り出して仕分けるだけの古い匂いに変わった。そこから読み取れそうなものは、ただただフラットな生活の痕跡しかない。
 (…ひとり暮らし、の割には、…なんだろうな。孤独なバーさん、って感じはあんましねェんだよな。どうも)
 老婆は果たして何を思って、電話帳から見つけた万事屋を呼んで、余命の迫る中で、病室で何を思い出しながら、『生きていた証』をなどと求めたのだろうか。
 それとも、何かを見つけて欲しかったのだろうか。見出して欲しかったのだろうか。
 他人の判断に──誠実さがあるかどうかも知れない様な者に、そんな事を任せてみたいと思うだろうか?自らの長い生の終わりにそんな酔狂をしようと思うだろうか?
 (…………まぁ、ここでグダグダ考えた所で解る様なもんでもねェか、ってこれ何度目だっけか…)
 気になるのならば依頼人に直接訊いてみればよいだけの話だ。答えを呉れる気はしないが。
 それに、解るかどうかはさておいて、掃除の手順に少し違いが出るかも知れない。その程度の事だ。銀時は襖の取り外された居間に再び背を向けると、廊下を通って玄関へと向かった。門灯の類も使っていないから、明かりの入り込み難い玄関は酷く暗かったが、何とか自分のブーツに足を突っ込むと、踵をこつこつと鳴らして外へと出る。
 隣近所の家やビルに明かりの気配は無い。白々とした街灯だけが道路をぽつぽつと照らしており、遠くからは時折控えめに車輌の走り抜ける音が聞こえてくる。
 言うまでもなく真っ暗である。夜の、それも夜中に近い時刻だろうと言う銀時の見立ては強ち外れでもなかったらしい。
 辻斬りが出る様なご時世ではないが、繁華街に近い立地なので、深夜にうろつくと何かと物騒になりがちな事はある。
 それより何より、こんな時間に静かな住宅街を原付きで走り抜けていくと言うのも気が引ける。治安がどうとか考えるよりも今はその方が問題だ。
 (……大通りまでは押してくか…)
 ただでさえ、傍目にはどこぞの警察の少年がふざけて口にした様に、独居老人の家への不法侵入者と見られても無理のない様な仕事をしているのだ。そこに来てご近所さんに通報騒ぎなど起こされると言うのは本意ではない。
 溜息をつきつつ、銀時は原付きのハンドルを持って、動力がなければそれなりに重たい車体を押して歩き始めた。繁華街か、大通りまで出たらさっさと走り抜けて仕舞おう。万事屋の近所は夜遅くまで営業している飲み屋もあるし、何より慣れたものだからそう憚る必要もない。
 そうして大通りを目指して暗い夜道を歩き始めて程なくして。ふと銀時の視界に赤い光が過ぎった。遠目に目を細めてみればそれが、回転灯に照らされた建物の照り返しである事が知れる。
 警察か、救急か、消防か。浮かんだ三択の取捨は素早い。赤い光の舐める方角からは、静かな夜には似つかわしくない緊張感のあるざわめきが漂って来ている。
 消防ならば周囲に警戒を促す為にサイレンを鳴らす。
 救急ならばこんな喧騒はしない。
 ──警察車輌。
 思うのとほぼ同時に、風が吹いて鋭い音を銀時の耳まで運んだ。打ち合う乾いた音。走る足音。罵声。怒声。悲鳴。
 原付きを押しながら四つ辻に立った銀時がそちらを見やれば、街路には赤い回転灯をけたたましく明滅させる警察車輌が何台か停車し、その向こうで今正に捕り物が行われているのが伺い知れた。
 時間が時間だからか物見高い見物人の姿はなく、規制線も無い。
 付近は何人もの黒服が忙しなく動き回り、まだ喧騒の漏れ聞こえる雑居ビルの様な建物の付近には捕縛されたか投降したのか、浪士風の人間が何人か引っ立てられて来て座り込んでいた。
 中には傷の痛みに呻いている者もいる様で、罵声なのか懇願なのかも知れない様な声が上がっている。
 (…こんな騒ぎがあったんじゃ、原付の音ぐれェ騒音でもなかったか)
 肩をすくめてそう悪態めいてぼやいた銀時が、まあ関わる事でもないなと、そそくさと現場を横目に通り過ぎようとしたその時、鈍い悲鳴が上がった。
 「!」
 咄嗟に振り向くと、捕縛されて座り込んでいた浪士の一人が、手にした刀を威嚇する様にあちこちに向けている背中が目についた。その足元には、刀を奪われたのだろう隊士の一人が蹲っている。
 慌てた様に、少し離れた車輌の付近に居た幾人かの隊士たちが身構えたり刀を抜こうとしたりする姿を前に、刀を奪った浪士は、同じ様に捕縛されていた仲間を促す様に声を上げながら後方へじりじりと退いている。
 後方──つまりは銀時の佇む四つ辻の方角である。
 (オイオイ、立派な不祥事じゃねーか…。つーかアレ、ひょっとしなくてもこっちに逃げて来るとかそう言う感じだよな…)
 絵に描いた様に嫌な予感しかしない。呻いた銀時はそっと原付のスタンドを下ろした。
 真選組に近づくとなんだかんだと巻き込まれがちなのは経験から慣れている。
 これも乗りかかった船かとごちながら、木刀にそっと手をやって足を踏み出す。音を立てず地面を蹴って即座に距離を詰めると、あと一歩で浪士を取り押さえられる程度の間合いに難なく入り込んだ。
 浪士の背は未だ、背後から迫る銀時の存在に気付いていない。あとはもう、手を伸ばすか、木刀で軽く小突くかで事足りる。
 「……──、」
 だが。
 銀時の手が伸びる事も、木刀を抜くことも無かった。気付いた浪士がこちらを振り向く事も。
 刀を奪った浪士が声を荒らげる。何かを叫んでいる。それを向けられた仲間たちは──捕縛され座り込んでいた者たちは、逃げる機会とばかりに立ち上がった所で喉から血を噴いて、横薙ぎに斬られて、文字通りに斬り捨てられていた。
 一瞬に等しい処理の作業。
 ぶん、と。それを成した刀が血のしずくを振って飛ばす、冷えた音が、この距離でも聞こえた気がした。
 その咥えた煙草の匂いですら届かぬ筈の距離で。それでも。
 骸を拵えて暗闇に佇む黒い装束は、さながら死を運ぶ遣いか何かの様であった。
 ゆらり、とその肩が僅かに揺れたかに見えた次の瞬間には、一瞬で距離を詰められた浪士の体から血が飛沫いている。
 「ひ」
 悲鳴を噛み殺した様な音を喉から漏らしたのは、斬られた浪士ではなく、その足元に蹲っていた真選組隊士だった。所持していた刀を奪われた際にやられたのか、血を流す足を、ずり、と引きずって後ずさる。銀時の佇む方へと、下がる。
 浪士が──大きく下方から掬い上げる様に斬られた骸が倒れて、力を失った頭蓋がアスファルトの地面を打つ虚しい音が響いた。
 骸を挟んで、まだ身構えた儘の銀時と、血に濡れた刀を無造作に隊服の袖で拭う土方とが、相容れない姿勢の儘に対峙する。
 唇の間で揺れる煙草の煙は穏やかに上っていた。息を荒らげている様子もなく、安堵した様子もなく。
 刀を収める所作にも揺らぐ気配はひとつも無く。
 淡々と。
 「……」
 凪いだ表情に、凪いだ、鋭いばかりの眼差し。人形かなにかの様に無感情な面相を作ったその貌に銀時は我知らず肌を粟立てた。
 似ているものはあった。憶えとしてあった。
 それは昔戦場でも時々見た、感情を失くした者特有の事務的な殺傷に酷くよく似ていた。
 また少し下がった──明らかに、骸となった浪士からではなく、上司である筈の土方から距離を取ろうとしている、部下の姿をその眼が一瞥する。
 彼が怯える部下を殺して仕舞う、と思った訳ではない。だが、銀時の足は自然と動いていた。
 「オイ、大丈夫か?どこやられた」
 座った儘じりじりと下がろうとしていた隊士の傍らに膝をついてそう声を掛けると、彼は「え、、あ…」と狼狽した様に銀時の顔を見上げ、倒れた浪士の骸を見て、最後に、無言で無感情な眼差しを向けて来ている上司の姿を一瞬だけ見て、直ぐに怯えた様に目を逸らした。
 「足か。刺されたって訳じゃねェならそう心配する事もねェよ。傷もそんな深くなさそうだし?」
 今にも思い出した様に悲鳴を上げそうな隊士の、意識や言葉を遮る様に重ねて言うと、銀時は懐から取り出した手ぬぐいを、彼が押さえている足の傷に押し当てた。
 言う程傷は浅くなさそうで、裂けた隊服から地面に血の跡が広がっていたが、銀時は恰も傷に狼狽する隊士を宥める様な体で、応急手当を始める。
 「救護隊とか連れてきてねェのか?」
 「あ…、いえ、、あっちに、支援班が別働隊、で」
 布を当てられて始めて、隊士は負傷の痛みを思い出した様に息を詰まらせる。幸いにか、銀時の事は過去に真選組に関わった出来事で見覚えでもあったのか、不審そうにする様子もなかった。
 「オイ!大丈夫か?!」
 現場の方から何人かの声と足音がして、銀時が見ると、救急セットの様なものを抱えた隊士たちがこちらに向かって走って来る所だった。
 ふと周囲を見やるが、先程まで立っていた筈の場所に土方の姿は無かった。更に視線を巡らせその姿を探すと、彼は骸にも負傷者にも銀時にも関心の一切を失った様に、現場の方へ戻ろうと歩き出していた。
 怪我人は任せた、と、立ち上がった銀時は咄嗟に土方の背を追っていた。
 そこで気づく。負傷した隊士が後ずさっていたのと同じで、手当てに今駆けて来た隊士たちも、まるで土方が立ち去ろうとするのを待っていたかの様なタイミングで来たのだ、と。
 沖田が無責任に投げていった言葉が記憶の中でぐるぐると空回りする。
 呪いだかなんだかで、感情が消えた、と。
 隊士たちもそんな土方に萎縮している、と。
 正直、そんな馬鹿なと思う気持ちはある。だが、銀時の絡む言動や行動にもまるで関心を示す様子の無かったあの様を思い起こせば、否定しきれはしない。
 そして、沖田の言葉を裏付ける、無感情な様子に、部下たちの隠さぬ敬遠の態度。
 何があったかとか、どういう理屈だとか。そんな事は問題ではない。これはきっと、土方十四郎なのだが、銀時の知る彼とは何かが違う。そういうものなのだ。
 「…オイ、なんか言う事あんじゃねーの?こちとら通りすがりの一般市民で、巻き込まれたみてーな感じなんだけど?」
 『いつも』の──常の絡み調子を必死で思い出しながら何とかそう紡いだ銀時に、土方は足を止めるとつまらなそうな視線を投げて寄越して来た。
 「こりゃ、迷惑料とか払ってくれねーと困るわ」
 その視線の、表情の温度の無さに怖じ気づきそうになる。打っても響かない壁でも前にしている様な心地に、背を嫌な汗が落ちていく。
 「……着物のクリーニング代程度なら、領収書持ってくりゃ受理してやる」
 軽口に返ったのは無感情で無機質な言葉だった。その儘止めた歩を再開させて、まだ喧騒の残る現場へと戻って行くその背を、銀時は何とも名状し難い、無力感にも似た感覚を以て見送るほかない。
 ふと振り向いてみれば、負傷していた隊士も、それを救護に来た者らも、怯えや不信感の入り混じった表情を、もう足を止める事もないその背へと向けていた。
 (………何なんだ、何で、)
 理解と感情とが相容れず追いつかない。かぶりを振って呻いたところで、銀時の視界にそれが入り込んだ。
 立ち去る土方の背。その足跡を作る様に、ぽつぽつと続く、小さな赤い染み。
 (くそ、)
 ちらと見た、部下たちがそれに気付いた様子はない。否、気付いていたとして、怯えや萎縮を隠さない彼らが今の土方にわざわざ声をかけたいなどと思える訳がなかった。
 何なのかなど解らない。それでも、怖気づいて佇んでいて良い気はしない。
 迷う間は無いだろうに。少なくとも少し前までの己であったら何も気にせずに出来た事だ。いっそ図々しいぐらいの勢いで、追いかけて、宥めて、悪態を投げながら、心配してみせていた筈だ。
 そう己を叱咤した銀時は土方の姿を追って駆け出していた。







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