あまいはな / 7 何となく思い出したのは、固い横顔だった。 アルコールのグラスを前にして少しも和らぐ様子のない表情。不機嫌とも不満とも緊張とも異なった、酷く憔悴でもしている様なそれに気づいた時に銀時は、きっと不本意な任務で苛立ちでもしているのだろうと、そう思っていた。 いつもの、慣れたキャバクラの店内だった。然しいつもとは異なり、店は貸し切られての営業であって、賑わいはたった二人の客の居る一つの席にしかなかった。他の席には疎らに幾人かの警察の姿があるのみで、客の席の周囲も白服の警備が睨みを利かせる様にして配されている。 その固い空気に気圧されている従業員も多かったが、席につくお妙らは緊張や萎縮など(少なくとも見た目には)全く出さず、VIPである二名への接客に従事している。全く大したプロ根性であった。 大凡、いつもの雑多なキャバクラと言う店内の様相ではないそこに、然し新八の用事で頼まれ訪れただけの銀時が留まることを選んだのは、そこに顔見知りの、興味と好意の対象にある男の姿があったからだ。 そんな理由でも無ければ、こんな居心地の悪い空間からはとっとと逃げ出したい所だ。またクオリティの低い女装をさせられてVIPにひたすら気を遣う役割を負わされるなど御免被る。 人手が足りていない事はなさそうだが、店長に余興とか変な思いつきでもされたら堪ったものではない。 その時は店外で警備に当たっていた真選組とは異なり、今回VIP殿の護衛を担当している見廻組は、店内の空気がぴりぴりとして感じられる程に堅固な警備を張っている様だった。店外には私服の、明らかに素人ではない者らがうろうろとしていたし、店内も見回す限り警備だらけだ。 万一があってはならない、と思えばこの警戒も当然の事なのだろうが、どちらかと言えば今までは真選組の目立つ上に緩い、もしこれで喧嘩を売られたら全力で殴り返すだけ、と言った気配すらあった警備態勢ばかりを見て来た銀時から見ると、なかなかに息の詰まりそうな光景であった。 そして件の男はその空間の中で、固い表情を保ってただ無言で座していた。隊服こそ纏っているものの、肝心のVIP様方と同席はしておらず、一応警備の一員としてこの場にいる様だったが、職務に真剣でいる風でもない。 てっきり最初は、警備と言う仕事を見廻組に奪われでもしたから、憤っているのだろうと思った。 だが、愚痴をこぼすでもなく、不満を咀嚼するでもなく、職務を呑むでもなく。ただ黙りこくって座しているだけの土方からは、そう言った彼『らしい』とでも言うのか、そんな苛烈な感情の類は見つかりそうもなかった。 何か非道い鬱屈があったとして、それをこんな風にただただ無表情を無理矢理作りながら抱え込む様な男だっただろうか。 否、どちらかと言えば言いたい事ははっきりと言う男だ。仮に、警備の仕事を奪われている様な状況であったら、苦手らしい見廻組局長への不平ぐらい態とらしくこぼしているだろう。 彼が、黙って諾々とやられているだけの人柄ではない事は、銀時は誰よりも知っているつもりだ。時間はそう長くはなかったかも知れないが、誰よりも注意深くその在り様を見てきたつもりだ。 少なくとも、好意を抱ける程度には注視してきた。全てを知っていると傲慢なことをを宣うつもりはないが、ある程度の事ならば解ってやれているぐらいの自信はあった。 だが、その時の土方の様子は全く銀時の想像の埒外であった。軽口を叩いても凝り固まった表情筋が和らぐ事はなく、黙って何かを思って──否、堪えてでもいるかの様に厳しい表情を形作っていた。 そして、堪えているものが、憤りでは無い事だけは、恐らく明白だった。 手をつけた様子もないアルコールのグラスを前に、時折思い詰めた様に表情を強張らせて、またふっと硬質なばかりの無表情へと戻る。無意識にか、手の中のグラスを揺らして漂白された表情に苦悩めいた皺を刻み、ころんと氷がグラスを弾く音に驚いた様に、手を離す。 その冷えているだろう指先に手を伸ばしかけて、銀時は踏みとどまった。突然手など取ったら驚くだろうし怒鳴られるかもしれない。その騒ぎで、白服の警備たちのボスであるあのいけ好かない無表情男が何か嫌味を投げるかもしれない。そうなるのはきっと真選組にとって、土方にとっては宜しい事ではないだろう。 否、それもまた、勇気や気概が無かった事に対する己への言い訳でしかないのだろうが。 「ひっじかーたくーん?」 だから銀時は酔った振りをして態と呑気な声を上げた。勝手に相席し、勝手に話しかけた、その『勝手』の──図々しささえある態度の延長を続けることを選んだ。 言葉少なに返事だけを返す彼の、その関心を惹きたかったのか、道化に徹したかったのか、それとも単に自分勝手な感情がそうさせたのかは解らない。 ただ、銀時はひたすらに気安く、能天気に、図々しく、いつもの様に振る舞った。 それでも。 下顎に力を込めて、目を伏せた土方の、固い表情は決して晴れなかった。 いつもの様に返らない反応を前に、それでも銀時はひたすらに酒の勢いを借りて、能天気で、図々しい、いつもの様に振る舞った。 必要以上に鬱陶しく振る舞う銀時を、突き放しこそしなかったが、受容もまたしてはくれなかった。 あの横顔が何を思っていたのか、銀時には未だ判っていない。 * そして次に見たのは無表情。 次に、今見ているのは──無感情。 「…オイ、」 路地を曲がった薄暗い隘路に、果たして黒い背中は立っていた。暗闇に向かって、街灯の影に潜みでもする様に、足を止めて動かない。 「……」 呼びかけても振り向かない。だが、ほんの少しだけ肩が揺れた。斬り合いで疲れた体に一瞬だけの休息を許した様な、小さな溜息にも似た息遣い。 その拍子にほたりと地面に雫が滴った。矢張り出血をしているらしい。恐らくは腕だ。だらりと両腕こそ下げているものの、拳はどちらも固く、緊張状態を保とうとでもする様に固く握られた儘でいる。 「……怪我、してんだろ。通りすがりの万事屋さんが、手当ぐれェ無料でしてやっから、看せてみ?」 声は意識して軽くした。乾きそうになっている口に、怖じ気そうな己に気付いて仕舞い、銀時は顔を僅かに顰める。 「……」 闇に半分身を沈めた儘、果たして土方はその声にゆるりと振り返った。想像していたのと大して違えない淡白な表情に、感情の読めない、見覚えもない表情に、何とか口角を持ち上げて笑みを向ける。 「わざわざお仲間ん所から離れて来たって事ァ、部下に知られたくはねェんだろ?」 憤りも呆れも見当たらない表情に圧されるより先に、銀時はちらりと背後を振り返る仕草を見せつつ適当にそう紡いだ。赤い回転灯を揺らめかせる警察車両たちとの距離は、一区画も離れてはいない。大きな声でも上げれば、喧騒の未だ残る夜であったとしても聞こえる程度だ。 怪我を理由に職務から、現場から離れる気は無い。だが、余り知られたくはない。らしい。 そう思う事にして続ける。 「例えばホラ、アレだよ…、士気がどうとか。おめーの事だし、今更怪我一つでどうなるとか心配しちゃいねェんだろうけど、無用な心配されたくねェとかそう言うアレでさ…、なんて思う訳ですよ?」 答えでも求める生徒の様な、余り自信のあるとは言えなさそうな問いかけではあったが、土方は無表情を形作った儘、ほんの少しだけ片目を眇めてみせた。 表情は雄弁とは言えなかったが、少なくともこれは否定や拒否の気配ではない。気がする。寧ろ続きを促されている様な。「それで?」と返されそうな態度だと、少なくとも銀時にはそう思えた。 「えーと…だ。ちょっと先に、ホラこの前おめーと総一郎くんと遭遇した辺り、あそこに今自由に使える家があって…、あ、全然遠くねェから!駅から徒歩二分程度の距離しかねェから!」 大掃除の最中にちょっとした怪我ぐらいする事もあるので──実際神楽が皿を割った事もあったので──、救急箱は既に見つけてあって、まだ処分も持ち出しもしていない。ちょっと古いパッケージだったが、未開封の清潔な絆創膏やガーゼ程度は入っていた。 必死の、宣伝文句めいた──、お節介としか言えない様な申し出をああだこうだと連ねる銀時を無表情に数秒見る土方の態度は、お世辞にも柔らかいものとは言えなかった。この間から感じている印象その儘の、冷たくも暖かくもない気配だけが巌の様にしてそこに佇んでいる。 無駄だろう、と思いながらも、下らないであろうお節介を紡ぎ続けるのを止められないのは、恐らく、何らかの関わりを取り戻したかったからだ。 手前勝手。そうとしか言い様がない。 だが、沖田曰くの、感情が消えただかなんだか、それで仲間にもあんな目を、畏れを宿した表情を向けられて、負傷でさえもどこにも晒せずにいる土方の様子を思えば、放っておく訳にはいかない。 (……違ぇな。放っておきたくねぇ、だけだ) 手前勝手。もう一度そう胸中で噛み締めてながら、じっと眼前の男の姿を見る。 彼は。 「…………」 沈黙を保った儘の唇が、目元が、然し続く行動を起こそうとはしない。過日の様に素っ気ない無関心さを見せて踵でも直ぐに返しそうな気配だけは保ち、それでも動かない。口を開かない。 「……、」 沈黙を裂いたのは、果たしてどちらの言葉でも行動でもなかった。土方の衣服のポケットから、ヴー、と響いた小さな振動音だった。 「……」 無粋に切れた沈黙と言う呪縛がなかなか解けないかの様に、土方の手がゆっくりと携帯電話を取り出す。振動音の正体は言うまでもなくそれだ。 銀時は半ば勘任せで手を伸ばした。土方の手からそれを素早く奪い取ると、液晶画面に表示されている名前も確認せずに勝手に通話ボタンを押し込み、幾つかの予想の通りだった声に耳を適当に傾ける。 《もしもし、副長?部隊から報告が上がっているのになかなか連絡を寄越してくれないんで、どうしたのかと思いまして…、》 「よぉジミー、悪ィね、ちょっとお宅の副長さん駄々こねちゃってさ」 「おい」と土方が不満そうな声を上げるのを片手で制して銀時は、意味が解らなかったのか呆気に取られたらしい電話口の向こうに矢継ぎ早にまくし立てる。 《へ?ちょ、》 「問題が起きたって言うか、想定外って言うか?まあ察してやれや。あぁ、問題っても大した事ねェから心配すんな。拾った動物はちゃんと最後まで面倒見なさいって神楽にいつも言ってる側だしィ?」 《問題?!って、いやアンタひょっとしてひょっとしなくても万事屋の旦那ですよね?何で…、ああ、いや、そうじゃなくて…、》 流石に、幾ら知った仲とは言え上司の電話に突然出た『他人』に、ジミーと呼ばれた山崎は動揺を隠せなかったのか誰何を紡ぎかけ、然しそれが重要な事ではないと思い至ったのか、それとも銀時の言った通り『察し』たのか、少し呻きながらもトーンを落とした。 《……『今』の副長を、お任せしても問題ない、そう取っても良いんですね?》 口元を手で覆ったのか、籠もった様な声が、然し真剣に問う。銀時は、こちらを不満そうに見てはいるものの、無理矢理電話を奪い返す様な動きは取り敢えずしそうもない、土方の能面の様な顔をちらと見て、頷いた。 「…ああ。ってもそんな時間取らせねーから。何なら帰りに解らない程度にお迎え呼ばせるよ。俺が」 山崎曰くの『今』の土方ならば、部下の目につくぐらいならばこの儘一人で帰りかねない。そう思った故の提案だったのだが、山崎の返答は数秒も考えない是であった。 《お願いします。様子からすると捕り物の現場付近ですよね?十分後までには待機していますので》 「……おう。承った。依頼料もその時宜しく。お気持ちで」 最後に戯けた様な調子でそう付け加えたのは、何やら己の部下と眼の前の万事屋との間で勝手に話し合いの纏まった気配を感じたのか、土方が露骨に嫌そうな様子で顔を背けたからだ。 返事は待たずに通話を切った銀時は、携帯電話を勝手に袂に仕舞い込むと、無に近い表情で立った儘でいる土方に、仕草で「こっち」と示して歩き出した。 「………」 然し当然と言うべきか、土方の足が動く様子はない。 振り払われたらどうするか、と思ったが、先頃携帯電話を奪い取った時も起きなかったそれがある筈はないのだと、そんな予感と後は勢いとで銀時は再び手を伸ばした。土方の身体の横にだらりと下がっていた、黒い隊服に包まれた腕を掴んで、引っ張る。 「………」 無表情が、苛立ちをどこか内包していたそれから、諦めへと変わった気がした。 或いはそれもただの錯覚であったのかも知れないが。それでも、掴んで引っ張った腕が振り払われる事はなかった。 後で原付を取りに来ないといけないな、と思いながら、銀時はまだ喧騒の残る現場を後目に、赤い回転灯の煌めく道は避けて、片付け依頼中の家へ向かって進んで行く。 手を引かれる儘に土方は付いてくる。今までの彼であったら「離せ」とすごい剣幕で怒鳴っただろうそんな態度を取らないのは、果たして沖田の言う様に本当に、彼から感情の一切が消えて仕舞ったからなのか。無関心だからどうでも良いと『諦め』たのか。 (諦め…、いや、まるで何かに失望した時、みてェな…?) あの時の固い横顔が何故か脳裏をちらついた。 判らないが、振り返って確認してみる程の勇気は未だ無く、銀時は土方が突然気を変えて仕舞う事がないよう、急いで歩いた。 。 ← : → |