情熱のない犯罪 / 10 「坂田を失脚させるに足る、最大の証拠とは一体何なのですか」 勧められる酒をやんわりと断っての土方の問いに、筒井は眦をゆるりと細める事で応じた。 「それが君の最大の関心事であるのは解るがね。少しぐらい風情を楽しんでみせるぐらいの余裕を見せた方が良い。余りに真正直に過ぎると老獪な連中に良い様に弄ばれるよ」 「職務に常に追われる身にありますので、私事に割ける時間は限られておりまして。それに、獅子身中の虫と知れた者をそう長い事放っておく気には到底なれません」 面白がる様な声音で放たれる忠告にも似た響きに、焦った素振りの言い訳を並べてさっさと背を向けると、土方は自ら続き間への戸を開いた。そこには先だってと同じ様に床が用意されている。 薄明かりの行灯に照らし出されている光景は実に即物的で解り易い。いちいち気取ったり風情がどうだとか並べ立てた所で、筒井は『そのつもり』で土方を呼びつけているのだ。そして土方も『そのつもり』でそれに応じている。今更盃を酌み交わし世間話を交わす真似事を楽しむ素振りを見せる事には無駄かそれに程近いものしか感じられる筈もない。 自ら羽織を肩から落とす土方の背に何を思ったのかは知れぬ。だが、喉奥で笑うその様からは機嫌を損ねたりした様子は伺えない。盃を置いて立ち上がった筒井は、上掛けを軽く蹴ると土方の肩を押して床にその背を横たえた。 「易々とは得られぬ欲しいものがあるのならば、本来は相応の対価を提示するなり、媚びて不足分を補ったりするものだがね?」 笑みと共に囁き落としながら、筒井は掌で土方の頬をするりと撫でた。剣胼胝も傷も無いその感触に土方は自然と眼を眇めて仕舞う。不快感と言う程に顕わにはなっていないとは思うが、本心を知られるのは望ましい事では無い。 (動揺するな。悟られるな) 自らに言い聞かせながら息を軽く吸って、吐く。嫌悪感も罪悪感も呑み込んで包み隠すには易い。無表情を装わなくとも嘘ぐらいは吐ける。 「生憎と、そう言った真似事とは無縁だったもので。……不作法に感じられるのであれば、努力はしてみますが?」 演技で良ければ媚びてみせよう、と婉然と笑ってみせる土方の姿を見下ろしながら、筒井は「いや、」とかぶりを振った。 「その侭で構わない。私は君の、そう言った部分を高く評価しているのだし、」 「、」 「楽しみ甲斐も湧こうものだ」 予期せず不意に内股をなぞった手に土方は咄嗟に口を押さえた。そんな土方の様子に『楽しみ甲斐』とやらを見ているのか。笑みを刻んだ筒井の顔が近付くのを、土方は眼を閉じて受け入れた。 促される侭に脚を拡げると焦れた様な素振りで、自らに覆い被さる男の着物を引っ張る。 意に添わぬ行為を享受するのは二度目とは言え容易い事にはならない。慣れぬ男の味、体重、体臭、やりかた、掌の感触、体温。全てが土方の皮膚をちりちりと嫌悪感で炙る。脳の奥で嘔吐感にも似た眩暈が拒絶を訴えて来るのを理性ひとつで無理矢理押し込めて感覚全てに蓋をする。酒を入れた方が気が楽だとは解っていた。解っていたが、酔いを言い訳にして溺れた事を誤魔化して仕舞うのは厭だった。 これは飽く迄己の選んだ『取引』。坂田に言った通り、職務ではなく私事、自らの意志で赴いた過程とその結果だ。こればかりは坂田に押しつける責任では無いし、取引を申し出た筒井の仕業でも無い。 そうして真っ向から『これ』に立ち向かおうとも、己の憶え得た失意の軽減になどならぬのだとも解っている。それでもそうせずにはいられないのは、言うなれば土方十四郎と言う男の悪癖にも似た生き方だと言う事だ。 「っあ、」 背筋を甘く疼かせる感覚に腰が自然と浮きそうになる。滑らかな男の手が辿る道筋から嫌悪感と等価の諦め或いは快楽を拾いながら、土方は否応無しに感じる視線と客観的な意識から逃れようと枕に横頬を押しつけ縋る様にしてそれを握り締めた。見ない様に。感じる事を忘れる様に。堪える様に。 「刑吏だよ」 そんな土方の耳元に落とされた小さな囁き。 「……?」 思わず薄目を開いて見上げれば、筒井は乱れた自らの前髪を掻き上げながら目を細めた。枕に縋って顔を背けていた土方の気を引けた事をまるで喜ぶかの様に。 「当時、坂田くんを捕縛し処刑までの手続きを行った元刑吏だ。脱獄した死刑囚たちの名簿にあった改竄の痕跡は関係者の手に因るものと思われる巧妙なものだった。そして脱獄事件の少し後に一人の男だけが退職をしている。だから探し出して彼に問い質してみた所、上からの命令で書類の改竄を行い、然るべき手当を受け取った後に職を辞したのだと喋ってくれた」 「っそれ、は…、つまり、その元刑吏の証言が、確たる証拠、だと?」 不意な動きに途切れそうになる言葉を何とか紡いで、土方は熱と快楽の波とに呑まれそうになる意識をなんとかその場に留めた。そうして自然と強張って力の入った身体の反応に、筒井がうっとりと息を吐く。 「そうでなくとも、一橋はあの事件で相当煮え湯を飲まされる形となっている。本来ならば、幾ら関係者のものとは言え証言一つで、真選組の副長と言う身分ある人間を追い込むのは難しい所だろうが、そんな疑惑の持ち上がった人間を捨て置いておける程に彼らは寛容では無い。そう言う事だ」 言うと、筒井は肩に担いだ土方の脚を、固くはない掌で撫でさすった。思考に意識を自然と持って行かれそうになるのを誤魔化して、土方は態と喉を逸らして声を上げる。 (証言や証拠自体の直接的な効力よりも、その影響が肝要って事か…) 筒井の提示した手札にはもう少しの吟味が必要になる。土方はこの『取引』で得た一応の成果に満足したが、出そうになる笑いは堪える。身体だけが己の意思とは思えない反応を示して戦慄くのに、片手で枕を抱える事でやり過ごした。それでも自然と浮かんだ苦さが透けて見えたのか、土方の喉元を筒井の指が軽く擽って行く。 「坂田くんを陥れる事に、君が罪悪感など感じる必要は無い。近藤くんはその信頼を彼に裏切られた事を残念がるかも知れないが、坂田くんを直接に裁くのは君ではなく一橋の一派なのだから」 「………、」 土方の浮かぬ表情から筒井は勝手に、近藤への申し訳なさを得たとでも解釈したらしい。慰撫する様な手指の挙措からは、まるで愛しい者や愛玩動物にする様な安っぽい同情の気配が感じられた。 答えは避けて、土方は軽くかぶりを振って腰を揺らめかせた。行為の続きを強請る様なその動作に、筒井も興冷めとなる話をあっさりと打ち切って身体の動きを再開させる。 本能なのか媚びなのか、自らでも判別し難い声を上げて痴態を晒す己の様をぼんやりと認識しながら、土方は少ない己の手札に、新たに得た情報を乗せてそっと裏返した。 * 江戸の町の輸送路として欠かせないものがある。それはこの地を拓いた頃に整備された多くの水路だ。今とは異なり自動車など無い時代、荷運びは人の行き交う道路よりも水路が主であった。 然し道路の整備が進み、人力の荷車ではなく自動車の普及が進んでからは水路の利用は減り、今では江戸の沢山の水路の殆どはその本来の役割を奪われて久しいただの河川となっている。地上路の便を優先され、地下の暗渠となっているものも少なくない。 そんな、嘗ては多くの船が行き交ったのだろう河川の一つ。もう少し下れば江戸湾に出ると言った川下の縁に土方は立っていた。海方面からの冷たい風と僅かの潮の匂いに首を竦めて足下を見下ろす。 そこに置かれているのは二枚の蓆だ。否、正確には蓆の間には物体が挟まれている。つい何日か前までは生きて動いていた、然し今となっては腐敗し溶けるのを待つばかりの有機質の物体。 それの打ち上げられた川岸では真選組の鑑識たちが慌ただしく動き回っているが、今の所はこの物体そのもの以上の何かを発見する様な成果には至っていない。 見遣った土手の上では最初に通報を受けた同心らへの聞き込みが行われている。彼らの姿からついと視線を逸らして空を仰いでみれば、頭上には重苦しい曇天が一杯に拡がってただじっと佇んでいた。まだ昼前だと言うのに精彩の悪い事だ。直に雨が降るのだろうか。 次いで動かした視線の先で、黄色い規制線のテープが持ち上げられるのが見えた。長身を屈めてそこを潜って来る銀髪頭が、何だかこの曇天に融けて行きそうな色だと思って土方は目を細める。 立ち働く隊士らの敬礼を受けながら歩いて来た坂田は、土方の佇むその隣で足を止めてしゃがみ込むと両手を合わせた。それからそっと目を逸らした土方に気付いた風でも無く、坂田はそれに被せられていた蓆を軽く摘んで持ち上げて、暫しじっと観察の目を向けてから蓆を戻した。 蓆の下には刀傷を負った成人男性の骸がある。その白く脹れた遺体の顔を思い出して土方は顔を顰めた。 「溺死、じゃなさそうだな」 「…ああ。詳しくは検屍の必要があるが、ぱっと見ばっさり一太刀で殺られた様に見えるな」 呟く坂田に答えて、土方は片手で軽く袈裟の軌跡を振ってみせた。骸についた致命の傷は背中の一つのみだった。 「遺体の腐敗状況を見るだに、恐らく現場はもっと上流の何処かだろう。流されてここまで来て、打ち上げられたと言った所か」 「一太刀、ね。そりゃ見事なもんだ。…で、この土左衛門さんの身元は?」 重ねて問われ、肩を竦めた土方は傍らに並べられている遺留品の中から、黒い布財布を拾い上げて坂田へと放った。中を見る様仕草で促せば、彼は濡れて開きにくい財布の中から苦労しながらも一枚のカード状のものを取り出した。それは江戸の多くで身分証明に用いられる運転免許証だ。 「……」 水に強いプラ状の素材で作られたその表面には、持ち主の氏名と顔写真とが記載されている。それをじっと見つめる坂田の横顔は何処か強張って、固い。 「……知った面か?」 免許証を凝視した侭動かぬ坂田へと、土方は僅かに躊躇いを憶えながらも問いを投げてみるが、「いや」と短く切り払われる。それは何処か拒絶にも似た、鋭い切り口であった。 「副長」 そこに遠くから声。坂田と、土方とが同時に振り返れば、書面をめくりながら山崎が歩いて来た。彼は敬礼や挨拶もそこそこに、二人の副長の顔を見上げながら手元の書面を読み上げる。 「ガイシャの身元が特定出来ました。恐らくその免許証の通りの谷崎何某に相違ないかと。同者が一昨日から家に戻らないと、内縁の妻から同心に問い合わせが入っていました」 「…と、なると殺害時刻も一昨日の晩頃の可能性が高いな」 不在となった時刻に直ぐに殺害されたとすればそうなる。土方のそんな呟きに山崎は首肯を一つ。 「詳しくはこの女性に聴取の必要がありますが、何でも女の話では、谷崎何某は過去に刑場に勤めていた刑吏だったとかで、刑に処した攘夷浪士やその仲間に復讐される可能性もあるのではないかと言っていたそうです。だから一日やそこら戻らなかっただけで、心配になって警察に駆け込んだんでしょうね」 「………」 言って、山崎はちらりと坂田の方を伺い見た。いつもならよく喋る男がやけに寡黙な事が気になったのだろう。だがその視線には気付いているだろうに、坂田が矢張り何かを発言する気配は無い。 土方もそんな坂田の姿を無言で見下ろした。蓆の下に見た骸の顔と、免許証に映る写真の顔とを見比べてでもいるのだろうか。何を思っているのかはその様からは伺い知れない。 「偶々辻斬りが出た、ってのと、復讐、ってのと。どっちがより有り得そうな線だ?」 ぽつりと土方がこぼした問いに、しゃがんだ侭の坂田が肩を軽く上下させて応える。 「さぁな。だが、復讐って方を採用するとなると、このガイシャが刑吏だった頃からずっと恨みを抱えてた誰かが居たって事だろ?そこまでの憎念を想像すると、ぞっとしねェ話だな」 「……」 そうだな、とも、何故そう思う、とも答えられず、土方は返す言葉を曖昧な沈黙で濁した。何か知っているのか。その核心を衝く疑問は口からは決して出る事なく呑み込まれるべきだ。 元刑吏。そして元死刑囚。面識はなくとも思うところは何かあるだろうか。それとも、坂田の口にした所の憎しみの類か。思った所で、考えた所で問いには出せない。坂田が元攘夷浪士の死刑囚だったと言う事実だけを風聞と言う意味で声高に叫ぶのは、真選組の体裁上まずい事にしかならないからだ。 「土方副長!」 そこに再び背後からの声。今度は名指しだっただけあってか、振り向いたのは土方一人だった。長身の部下は小走りで近付いて来て敬礼を一つすると、土方に現場で得た情報や分析の報告を投げて来る。 取り敢えず川上の、推定殺害現場となる場所の捜索、そして被害者の内縁の妻とやらへの聴取をしなければなるまい。遺体の搬送の指示を出すと、土方は一旦捜査チームの編成を行うべく屯所へと戻る事にした。 回収される遺体と遺留品とに、坂田は先頃熱心に見つめていた免許証を無造作に戻すとゆっくりとした動作で立ち上がる。眠そうな、つまらなそうな眼差しの中には相変わらず土方に理解出来る様な感情の類は見て取れない。 そんな坂田の様子を土方は暫しじっと見つめていたが、やがて溜息を一つ残して背を向けた。 * 遺体と、粗方の遺留品が片付けられて仕舞えば、遺体発見の現場はただのいつもの河原に戻っていく。 急速に護岸の整備された河原の水位は中程から急激に深さを増す。一度沈んで、そうしてまた浮かんで流されて来た遺体は、何かの潮流の弾みで河原に引っ掛かって発見されるに至ったのだろう。江戸には小さな河川から大きな河川まで沢山の水路がある。このどれを流れてここまで来たのかを判別するのは少々難しい話だ。 少し下流に向かえばもうそこは江戸湾の入り口だ。海上交通と貿易とはそれほど発達していない江戸では、通る船舶に彼が発見された可能性は余り高くは無かっただろう。そうして海まで出てしまえばいつかは魚や鳥の餌になったり腐敗し崩れていただろうに。人の手に、目に触れる場所に打ち上げられた事は果たして運が良かったのか悪かったのか。 そんな事を思考の片隅で考えながら、坂田はこちらに背を向けた土方の方を見遣った。傍らに引き連れた部下にあれこれと指示を出しながら歩いて行くその姿は、紛れもない真選組副長のものだ。 「おいジミー」 少しの間考えてから、不意に坂田は傍らの地味な監察を呼んだ。「はい?」と首を伸ばす彼に、坂田は土方の背へと向けた視線を外す事は無い侭言う。 「あいつは?」 あいつ、と指されたのが誰の事だか解らなかったのか、山崎は暫し瞬きを繰り返していたが、坂田の視線を追って漸く思い当たったらしい。ああ、と小さく頷いた。 「副長が手ずから引き抜いたお付きですよ。事務方の仕事に優れた人員は重宝するとかで」 名前なんて言ったかな…、と考える山崎に、坂田は更に問いを重ねた。 「いつから?」 「えーと、確か二ヶ月ちょっと…、いや三ヶ月になるかも知れません。俺が坂田副長付きになった頃からですし。…て言うか今更何ですいきなり」 「別に…」 それが何か?と言いたげな山崎の疑問顔を余所に、坂田はじっと土方と、その横を追う長身の部下を見つめていた。 。 ← : → |