情熱のない犯罪 / 11



 格式とは、財力だけでは決して得られぬ年月の堆積が生んだ自信と自負とで出来ている。
 古来より血筋や家柄と言ったものが遵守されて来たのは止ん事無き身分の人間に多いものであり、子宝を尊び多ければ良いとみなす庶民には理解し難い理で出来ている。取り分け戦国の世より先は血よりも実力が物を言う時代であった。血なぞ無くとも平民も武士も武勲を上げさえすれば富と名誉を手に出来る、血で血を洗った下克上の時代でもある。
 その頃に名を上げた大名らの多くが今も猶、幕府内部にて権勢を誇っている。家柄と言う保障された身分を掲げ持ち、権を利して贅を得て、贅に飽かして遊興に耽る。戦国の世より遡った如くの『家柄』の遵守は、血筋を尊ぶと言うよりは寧ろ自らの家とその名誉を守る為の仕組みと化していたと言えよう。嘗て祖先が流血の代わりに手に入れた身分を、子孫は利の為奉じて尊ぶ。
 代え難いのは血筋。家柄。だが、それさえ手に入れる事が叶えば贅も名誉も付随して手に入る。
 そんな時代だからこそ、身分も学も無い無法者たちを集めて重用すると言った、幕府の戦後治安維持政策に我こそはと名乗りを上げる者は多かった。近藤も、そこに同じ夢を乗せて付き従った土方や沖田もその中の一人だ。
 そうして幾つもの苦難の末に真選組は成った。己の心が選んだ誠の為に振るうべき刀を携え、土方は警察として、士として、そこに尽くす途を歩んだ。
 それは身分を越えた出世とは言えど、贅や名誉と言ったものからは遠く掛け離れた、途方も無く暗い途と足を取られる穴の拡がる戦場であった。
 それでも土方に後悔は無い。見下ろす盃ひとつの価格に満たぬ給金しか与えられぬ身にも、その割りに合わぬ命の遣り取りにも。
 後悔は、無い。
 故に。
 呵責を訴える良心でさえ、疾うに失せて久しい。
 
 舌先に感じた酒の香には不自然な味わいを憶える事は無かった。薬を混ぜる必要が無いと判じたからなのか、それともそんな余裕でさえ失われていただけなのか。ともあれ怪しい所の無い酒の少量程度ならば干すに躊躇いは無い。ほんのりとした甘みの拡がる高級酒をゆっくりと喉に流し込み、土方は杯を置いた。
 そんな土方のいつにない悠然とした所作に、然し目前の男は気を払う余裕さえ持ち合わせていないらしい。なみなみと注がれた酒杯を苛々と手に取ると味わう間も無く飲み干し、その侭酒杯を叩き付ける様に畳に転がした。高級な酒では到底、喉奥に蟠った怒りや焦りと言った感情を押し流すには至らなかったのだろう、時折舌を打ちながら苛々と、落ち着かなさげに視線を彷徨わせている。
 その様からは、趨勢を誇ったのだろう家柄や身分と言った見栄は到底伺えそうもない。エリートの仮面の剥がれかけた姿はただの人間の男でしかなかった。
 日頃であれば、高級な店の室内に悠然と佇む側であった筒井だが、今この瞬間は招かれた側である土方と立ち位置を異にしたかの様な有り様であった。焦り、不安、憤り、疑心。負の感情は容易く人間の本性を掴み取って晒け出すのだなと、土方はそんな筒井の様を見つめ余り実用的ではない事をぼんやりと考えていた。
 「…、発見された遺体と言うのは、谷崎何某に相違なかったと…、それは確かなのかね」
 「はい。内縁の妻の証言も取れています」
 長い軋る様な呻きの果てに出た問いに返す答えは早い。それと言うのも、先頃から形を変えて同じ趣旨の問いが幾度も重ねられているのだ。問いが同じならば答えも同じ。真実の変わる所は無い。
 淡々としてさえ聞こえる土方の紋切り型な答えに、筒井は苛々と拳を握り固めた。膳に振り下ろすかと思ったが、流石に堪えたのは理性かそれとも自尊心か。どちらかは知れないしどちらでも良い事だが。
 「坂田銀時…!あの男が手を下したのは間違いが無い。あの夜叉が、自らを刑に処そうとした者らを生かしておく理由などある筈が無い…!」
 だが、どうして。だが、どうやって。そう呻きながら筒井は項垂れた。鬼の詛いを畏れて。或いは鬼の報復に憤って。
 筒井の焦りは尤もであった。彼の切り札とも言える、坂田失脚の為の証言者であった刑吏が、今日の日中遺体として上がったのだ。これでは筒井が坂田を追い詰めるには証拠が不十分となり、証拠の不確かな告発では頼みの一橋を動かすには至らぬだろうし、それどころか手元に残った僅かの材料でさえも松平の手に因って揉み消されるのは想像に易い。
 土方はその事件を受け、仕事を終えた直後に筒井に因って相談の名目でこのいつもの店へと呼び出されていた。着替える暇も無かったからまだ服装は隊服の侭である。刀だけは入り口で預けなければならない為に所持してはいないが。
 土方の釣りはもう決している。既に筒井では坂田を告発出来ぬと確定した。これ以上をこの監察筆頭補佐から得る理由は無い。必要も無い。元より、坂田の失脚を狙うと言う一点のみが土方と筒井が対等であった『取引』の条件だったのだ。
 故に、出るのは最早溜息のみ。
 「そんなに坂田が目障りですか?消したい程に?」
 否。いつかと同じ問いが、気付いた時には自然と口から滑り落ちていた。そんな土方を見返して、筒井は身を起こすと手を伸ばした。頤を鷲掴む様にして、顔をぐっと近づける。
 「君とてあの男の意の侭になどされたくはないだろう。君自身も、君の大事な真選組も」
 鼻先まで近付いた筒井の髪は僅かに乱れ、目は爛々と血走って昏い。掠れた声には酒の臭気。怒りの坩堝の様になったその頭の中を、上品な酒が下賤なアルコールとなって攪拌し煮立たせているのが知れるそんな有り様に、土方は僅かの不快感を以て目を細めた。
 「恋愛の真似事は必要無いと仰ったでしょうに。まるで嫉妬に狂った情人の様だ」
 あからさまな土方の揶揄に、筒井は舌を打った。両肩を押され畳に仰向けに倒れた土方の上にその侭覆い被さる。その眼は情欲よりも正しく嫉妬にぎらついている様に見えた。
 「ああそうだ。恋愛の真似事は不要と言った。だが、それは君が私の掌中に在ってこその言葉だ」
 言って、筒井は土方の両腕をひとまとめにして押さえつけた。畳の上である事もあって肩胛骨が痛み、思わず顔を顰める。そんな土方の頬を剣胼胝の無い掌がまたするりと撫で、固く巻かれたスカーフを抜き取ると襟元を緩めて行く。
 「君だと言っただろう。君を得られればそれで良かった。だから、君に近付くあの男を排除しなければならなかった」
 「──」
 ぞわり、とその瞬間に土方の背筋を這い上がったのは怖気であって恐怖でもあった。始めて目の当たりにする男の欲と執着の向かう先に居るのが己だと言う事実に眩暈さえ憶える。
 最初から筒井は土方に懸想していたのか、それとも身体を手に入れた事でよりその執着が増したのかは解らないし、解りたいとも思わなかった。理由も、動機もどうでも良い。重要なのはその目的の為に取った手段の方だ。
 「それで…、坂田を真選組から失脚させる一点に拘った訳か」
 浮かんだのは余裕でも嘲笑でもなく何処か乾いた言葉だった。事実だと思いながら口にすればすれるだけ、そのおぞましさに吐き気がしそうだ。
 「君とてあの男の台頭は意に沿わぬ事だろう。利害は一致している」
 「利害と感情とを同一に扱うのは理解出来ねぇ」
 押さえつけられている腕に力を込めようとすれば、益々にそこに力が掛けられた。獲物をどうあっても逃がしたくはないと言う意思をそこからも感じ取った土方は、抵抗と失望もそこそこに続ける。
 「俺と坂田の不仲に乗じて、坂田にある事無い事疑惑を押しつけて決定的に仲違い、敵同士になる様に仕向けて、手前ェはその協力者として『俺』と言う利を貪るつもりだった。つまりはそう言う事か」
 そこで一旦言葉を切った土方は、不快感も顕わに吐き捨てた。
 「下らねェ」
 そんな事の為に。そんな事の対象にされた為に。心底に目の前の男と、その標的となった己とが煩わしく呪わしかった。
 然し、憎悪よりも余程に直接的な悪意に満ちたその顛末にとどめを刺したのは、吐き捨てた土方でも固まる筒井でも無かった。
 「一世一代の告白にそれはちっと可哀想じゃねぇ?」
 割って入った声とほぼ同時に、離れの廊下へ通じる襖が開かれる。
 「な、」
 「遅ェ」
 最早問いも紡げず凝固している筒井を無理矢理に押し退けて土方は立ち上がると、開かれた戸から入って来る男の前へと向かった。
 「遅ェってな。ったく、予告も無しの唐突な出動要請とか本当迷惑極まりねーわ」
 「予告があったら緊急とは言わねェんだよ」
 執着に満ちた手を離れれば、いつも通りの遣り取りが返って来て土方は僅かに安堵した。乱された襟元を正そうとすれば、それを制する様に坂田の手が伸びて来てシャツの釦を留めてくれた。そうして自らのスカーフを解くと、土方の首へと巻き直す。
 その様子からは到底、敵同士の人間と言う表現は浮かばなかっただろう。仲の悪い、憎み合っている真選組の二人の副長にとって、あるまじき姿だった。
 「こ、れは、」
 わなわなと肩を奮わせ、筒井はそんな坂田と土方の様を凝視し声を震わせる。その声で思い出したのか、それとも単に土方のスカーフを結び終えたからなのか、坂田が筒井に視線を投じた。
 「で、こちらの監察筆頭補佐殿が、真選組副長土方十四郎の暗殺計画の首謀者と」
 「言動には気を遣ってたみてェだからな。自白は取れちゃいねぇが、てめぇの意見が珍しく役に立った。殺してでも手に入れてぇとか言う手前勝手な欲のな」
 言って土方はその場に膝を付いて動かない筒井を見下ろした。執着と欲とに塗れた醜い面相の思う先に居たのが己であると言う事実は未だ理解も容認もし難いが、理解が無くともそれが動機の一端であったのだとは動かぬ真実が証明している。
 「俺付きになった部下に金渡して暗殺未遂事件を起こさせてたんだ。ま、なまじ思想やら何やらで組から裏切り者が出た訳じゃねェってのは幸いだった」
 そちらは既に山崎が証拠共々本人を押さえている筈だ。彼が雇った他の共犯者や協力者も芋蔓式に出るだろう。殺す訳ではなく脅かすだけだからと、安易にも金の誘いに乗ったらしい。組の内部にその様な輩が居た事は問題だが、金と言う解り易い理由で動いていたと言うだけまだマシだったと言えよう。
 「やっぱあの野郎だったか」
 土方の言葉を受けて坂田がぼやく。坂田にとっては自分に濡れ衣を着せた憎い相手だっただろうから、真犯人が捕まって安堵もした事だろう。
 「実際、俺を殺しちまったんじゃ意味がねェ。飽く迄畏れさせて、坂田の排除と言う利害の一致に持っていく必要があっただけだからな。そう言う意味じゃ然した罪状には本来問えねぇが…、」
 そこで言葉を切って、土方は怒りと屈辱と疑問とに顔を白くしている筒井の姿を見た。最早エリート然とした仮面は何処にも無く、高級な設えの中に道化の様な有り様を晒された憐れな幕臣の姿を。
 「黒い噂一つ無い珍しい方でした。余程正しく清廉潔白な途を歩んで来られたのでしょう。昨今の幕府の古狸共と代わって貰いたい程のお人柄でしたが──」
 恋か。それとも愛か。果たして執着か、肉欲か。何れであっても言える事はただ一つだ。
 それが一人の男を狂わせて、土方の最も大事なものに不躾に触れようとした。
 真選組に、触れようとした。
 「残念です」
 冷え切った言葉の刃を受けて、筒井は握った拳を畳に叩き付けた。
 「っ貴様ら、謀ったな…!」
 執着と欲とに満ちていた眼を憎悪と憤慨とに変えて、男は泡を飛ばす。
 「何故だ、君たちが対立関係にあったとは誰もが知る事の筈だ…!利の一致の為に手でも組んだと言うのか?!」
 真選組の双璧を為す副長は、互いに憎み合って啀み合っている。それは確かに組の内部にも、外にも自然と漏れ出ている認識だった。
 理解出来ない、と言う筒井の言葉を受けて、苦笑に似た響きで坂田が笑う。
 「対立とか不仲とか。周りの連中が勝手にそう言ってるだけでな。ま、確かに特別ベタベタしてる訳でもねェし喧嘩や言い合いはしょっちゅうだし?いつの間にか『二人の副長は仲が悪い』って話だけが一人歩きしてんのも無理の無ェ話かね」
 言いながら坂田は土方の腰にするりと手を回した。「これからはもっとオープンで行く?」と暢気に言うのに、土方は無言でその手を払い除ける事で応じる。
 「元より明け透けに振る舞いてェもんでも無ェわ。命なんぞ狙う輩が現れて、それが内部の人間の仕業だと知れたついでに、好都合だと思って利用する事にしただけだ」
 山崎を自分付きから離して、坂田との対立構造が恰もある様に隊内に触れ回らせ、ついでに坂田との密かな連絡役にと命じたのも全て土方の独断であった。脅かし楽しむ様な『暗殺未遂』から明確な殺意を感じ取れなかった事から、副長同士の対立構造を深めて土方が単独になった隙を、何か暗殺以外の狙いを以て犯人は必ず衝いて来るだろうと践んだのだ。
 それは近藤の不在の隙にしか出来ない、犯人を洗い出すには正に絶好の好機。
 「計画は兎も角、そっから肝心な事ァ何も言わねェもんだから、こっちがどんだけ肝冷やしたと思ってんの」
 「………」
 溜息混じりの坂田の言葉から真剣な労りを聡く聞き取った土方は、顔を顰めはしたものの何も反論はしなかった。思い当たる節が多すぎた、と言うのが大きい。
 「では始めから、芝居だったと…、」
 最早憤りを通り越して愕然と肩を落とす筒井に向けて、土方はそっと溜息を吐く。
 「だから言っただろうが。下らねェって」
 「……好きな子にそんな事言われたら立ち直れなくなるから、その辺で止めといてやれや」
 何処か同情的にそんな事を言う坂田を無視して、土方は床の間に飾ってあった脇差しを手に取った。抜けば、お飾りとは言え実用性のある刃が顕れる。
 坂田は、土方が筒井に『何』を対価に取引をしたのかを知らない。気付いてはいるかも知れないが、『てめぇにも、真選組にも、何の関係も無い』そう土方が言った嘘を信じる事を選んでくれた。だからこそ言える言葉なのだと思った。土方の事を大事に愛して執着を赦した坂田には、本来それは度し難い所行である筈だと言うのに。
 「……今日の『密会』で、手ずから俺を殺めようと試みたものの、露見(バレ)て手打ちになった。そう言う筋書きだ」
 抜いた刃の露を散らして近付く土方に、我に返った筒井が後ずさった。真選組副長への執着に狂った男として自らが殺められると知ったその表情を表す感情を何と言うのか土方は知らない。
 それに対して憶える呵責など既に無い。咎める良心も無い。この途を往くと決めた時から。
 「江戸を護る警察が、この様な卑劣な真似を…!」
 掠れて放たれた声に潜んでいたのは、侮蔑なのかそれとも命乞いなのか。じりじりと、高級な膳を蹴り倒して後ずさる男の懐に一歩で踏み込むと、眼前に迫ったその顔を見上げて土方はそっと笑った。
 「てめぇも言っただろうが。俺は真選組以外の事に興味なぞ無いだろうと。
 ──その通りだよ。真選組を、あのひとを、『これ』を護る為なら、俺ァ鬼にでも何にでもなれる」
 返事は待たなかった。刃が喉を掻く事で飛沫いた暖かい血が、恐らくは答えだと思ったから。





実はここにいるのは全員仕掛け人でした。的な。

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