情熱のない犯罪 / 9



 出掛ける時には表門から堂々と出た。だから帰る時もそうしなければならなかった。そもそも勝手口や裏口から戻るには内側から誰かに施錠を開けて貰わなければならないのだ。こんな時間に何も聞かず、自分が起きていようが寝ていようが土方の求めに応じてくれる部下は今は使えない。
 だから。仕方がない。
 真選組屯所の正門には、門が開け放たれている日中ならば外に門番が二人、門が閉ざされた就業時間の後なら内側に二人が常に見張りに立っている。
 門の内側には門番の詰める小部屋があり、そこには格子で囲われた板窓がある。何か騒ぎがあった場合にはそこから外の様子を伺える様になっているのだ。
 窓の前で立ち止まった土方はぴたりと閉ざされた門扉を見て、矢張りそこが完全に施錠されていて易々開けないだろう事を確認すると、改めて己の姿を爪先から見直してみた。姿見の類がある訳では無いから万全にとは行かないが、表情は兎も角己の佇まいに何の瑕疵も問題も見受けられない事を確認し、格子の隙間から窓をこんこんと叩く。
 ややあってから窓ががたがたと開き、そこから門番の目がきょろりと覗く。
 「開けてくれ」
 疲労感をすり替え意識して作った気怠げな土方の声音に、「はい、直ぐに!」門番の男は慌てた様に背筋を正すと姿を消した。程なくして閂が外される音がして、重たい門扉が静かに開かれる。
 どうぞ、とも、お帰りなさい、とも言われない。ただ決まり通りの敬礼を寄越す門番らにちらりとだけ視線を向けると土方は無言で門を潜った。
 酒と香の匂いを纏って気怠げに深夜帰り。そうなると理由なんてごく僅かに限られるし実際にその幾つかの可能性の中に正解はある。色事でも秘め事でも大概の場合は要らない邪推を招くのが常だ。だから願わくば裏門から戻りたかったのだが仕方がない。朝までの退屈な見張りの時間の暇潰しの一部は、この深夜帰りの副長についての話題になる事だろう。二人の門番の好奇の視線を背に感じながらも、苛立ちや怒りと言った感情を出さぬ様努めながら土方はゆっくりとした足取りで母屋へと向かった。
 玄関前の広場には夜を通して篝火が焚かれていて明るい。ぱちぱちと飛ぶ火の粉を捌く着物の裾で払いながら、草履を脱いだ土方は自らの部屋へと向かって機械的に足を進めた。
 気分は正直に言って最悪だった。意にも沿わぬ男に身を明け渡す事がこれ程までに苦痛を齎すものだとは想像だにしていなかった。
 余興だ、と口にした通りに、筒井は土方に愛の言葉を囁いて寄越したり、案じてみたり、殊更に辱める様な言葉は何一つ口にしなかった。かと言って淡々と儀式めいた性行為が行われた訳では無い。土方も筒井もその点では紛れもなく人間の雄と言う生物だった。
 男を相手に、その肚を腰を振って犯せるのだ。そんな事が単なる性欲処理だの酔狂だのでそう易々と出来るものではない。だから恐らく。否、確実に。或いは考え通りにか。筒井は土方に対して明確な欲を抱いていた事は間違い無い。余計な言葉を投げなかったからと言ってそれが情のない事の証明にはならない。
 腰の奥が重たく気怠い。だがそんな事よりも土方の心を気鬱の波に呑み込んでいるのは一種の気持ちの悪さにあった。普段比較的淡泊でいる性欲を無理矢理に引き擦り出されて精を散々に吐き出す事を強要されれば怠いのは当然なのだが、自慰をした時と明確に違うのは身体の痛みや違和感からも明かで、その事実が土方の心地をひたすらに憂鬱に傾けている。
 そしてその鬱をもたらしたのが、意の沿わぬ男の寄越した、情の見えない執着の様なものであると、言葉通り膚を重ねる事で感じ取って仕舞った事にあった。
 気の所為だ、と断じる気にはなれなかったのは、少なくともそこに利や害を土方が見出して仕舞ったからだ。
 (気も無ェ野郎に抱かれて、機嫌を取ろうとするなんざ…、)
 浮かんだ自嘲は然し直ぐに当然の思惑に決する。これは取引だ。少なくとも筒井の申し出はそうであった。坂田を排斥するまでの、その為の作業の一つに過ぎない。
 幸いにも土方は男で、孕む肚も無ければ瑕疵を負う心も無い。否、それどころかこれは暴力ですらない、『合意』の関係なのだ。自らの足で床に上がったその決断は、嘲笑って後悔して嘆くフリをして呑み込むにも足りはしない、そうして得る代償の上に在るべきものだ。
 (…………後悔、か?それとも、)
 罪悪感、だろうか。胸の奥を不快に焦がした気分の悪さに舌を打って、土方は辿り着いていた自室の戸を開けた。真っ暗な室内に三歩、入り込むと思わずその場に膝をつく。
 酒は余り飲んでいないから、この気分の悪さは恐らく筒井の盛った薬とやらの所為だろう。身体の火照りも疾うに冷めて仕舞った今では、嘔吐感に似たものを残して居座っているだけの害悪でしかない。
 早く寝て仕舞おう、と土方は思った。本当は風呂に入って汗も残滓も全部洗い流して仕舞いたい所だったが、最早それさえも億劫だった。幸いと言うべきか、行為はゴムを付けて行われたので一番最悪な場所の後始末について考える必要は無いと言うのが、土方の億劫な心地を更に後押しした。
 早く寝て仕舞おう。もう一度そう考えたその時、たん、と背後で音がした。襖が閉まる音だ、とぼんやりと考えてから、土方は背筋をびくりと跳ねさせた。疲労と倦怠とに鈍っていた己の感覚を全力で罵倒する。
 ある意味で予感はしていた。ある筈はないと思いながらも何処かで有り得ると思っていた。
 震えそうに強張った手で畳に爪を立てながら、土方はゆっくりと顔を背後へと向ける。今し方閉ざされた襖のその横には、影に潜む様にして佇む男の姿があった。
 襖を閉ざした腕をその侭に。相変わらず首元をだらしなく着崩した黒い隊服は暗い影の中で猶黒い。いつもは鈍く耿る銀髪もまた暗く夜を照り返している。
 さかた、と掠れた声が土方の喉から出た。いつから居たのかは解らないが、少なくとも土方が出掛けてから、また戸を開け戻った今までの間、この男は恐らくはずっと此処で待っていたのだ。
 「……こんな時間に人の部屋に不法侵入たァ、どう言う料簡だ」
 続けて出た声は辛うじていつもの調子を保って放たれた。その事に密かに安堵しながら、土方は畳に触れている膝と足とに意識を向けてみた。立てるだろうか。少なくとも坂田に不審がられぬ様に挙動を起こせるだろうか。
 「『こんな時間』まで仕事にお出かけってのもどう言う料簡?確かオメーのスケジュールじゃ今夜は空き時間になってた筈だけど?」
 「仕事だァ?何抜かしてやがる。見て解んねーか、私用だ」
 問いは坂田からのものではなくとも答えられる様に予期していたものだから、予め考えていた通りにそう答えて土方は自らの恰好を示してみせた。公の時間を私に使う事は許される事では無いが、私の時間を私事に使うのは個人の勝手である。そして土方はそう言った公私をきっちりと分ける性格だ。
 それに、私事の時間だったと言うのは決して嘘ではない。
 然し土方の答えに坂田は態とらしく「ふぅん」と鼻を鳴らしてみせた。
 「とっときの着物着て私用のお出かけ、ね」
 「はン。大体決まってんだろ。察しろ」
 さも気分を害した様な調子で言って土方はやれやれと言いたげな仕草で顔を逸らした。互いに副長と言う役職であろうがそうでなかろうが、こう言った色めいたポーズを取れば普通の人間は踏み込んでは来ない。少なくとも、踏み込んでは来るな、と言う牽制の意でもある。
 だが、ある意味で当然と言うべきだったのか。坂田が土方の言い種を真に受ける事は無かった。ただ、よく互いの表情も伺えない様な暗がりの中で、溜息の様なものを吐く音だけが聞こえる。
 「命狙われてるってのに、随分と悠長なこって」
 呆れとも嘲りとも聞こえぬ声音に、土方はぐ、と奥歯を噛み締めた。殆ど無意識だったのだが、そのお陰で余計な言葉が色々と出掛かるのを防げた。
 「………」
 不自然な沈黙が落ちる。襖の直ぐ横に軽く背を預けた侭、坂田は微動だにせずに居る。ただそこに佇んでいる。片方は疑って、片方は答えない。それを互いに承知しているから語る言葉も言い訳も無い、ただの平行線の沈黙だ。
 「……てめぇには関係のねェ事だ」
 然し膠着はさして長くは続かなく、結局折れたのは土方の方だった。頑是無い子供を見下ろす様な坂田の視線に堪えかねてそう、不快感も顕わに吐き捨てるとその場に立ち上がる。不快な身体の重量に何とか膝は笑わないで居てくれた。
 斬り捨てるつもりで振り向けば、坂田の姿は思いの外に近くに在った。二歩程度の距離。それが更に詰められる。一歩。殆ど同じ高さにある顔がじっと土方の事を見ている。その眼の奥底に燠火の様に潜む感情を宿して。
 坂田は一度固く口を引き結ぶと、それから片眉を持ち上げた。途方にくれた子供の様に唇の端が力の無い笑みを形作る。
 「副長としての問いでもか」
 「……………」
 それは坂田の抜いた最後の刃だったに相違ない。そして、出来れば抜きたくなかったものだったのだろう。苦さを呑み込んでどうしようもない風に笑ってみせるのは、恐らくは土方が何を以てそれに答えるのかを──答えざるを得ないのかを、悟っていたからだ。
 「なあ、土方。お前だって解ってんだろ、俺が──、」
 「何も、!」
 残る一歩を詰めようとした坂田を振り払う様にして、土方は鋭い声を上げた。そのなまくらの刃に斬りつけられて、夜叉は竦んだ様に動きを止める。
 「……何も。何も関係は無ぇ。俺の、個人的な用件で出ただけだ。てめぇにも、真選組にも、何の関係も、無ぇ」
 竦んだその隙に斬り込んでそう断ち切ると、土方は詰められそうになった歩数を離れた。
 畏れに刃を以てしか立ち向かえない己は、まるで幼い頃に戻って仕舞った様な錯覚を土方の心にもたらした。嘘と望まれた嘘を吐くのが、真選組の副長と呼ばれた自らで在る事に失意さえ憶える。どうしようも無い様な虚しさが諦観に凪いだ心を無情に吹き抜けていった。
 「…………そう、か」
 果たして虚しい諦念を憶えたのは坂田も同様だったのか。彼は言い返す言葉を探そうともせずにそう呟くと、寸時視線を俯かせた。嘘を紡ぐ土方の顔を見たくなかったのだろう。だがそれは土方の方とて同じだったから好都合だった。
 「悪かったな」
 やがて、長いとも短いとも思える間の後にそう、苦笑にも似た調子で言い残すと、坂田は「お休み」と戯けた仕草で手を振って去って行った。その足音が遠ざかり、漸くひとりに戻れた事を実感した瞬間、土方は拳を作って壁を殴ろうとして──留まった。
 「っクソ、が」
 唾棄したかったのは、殴りたかったのは己自身だ。軋る歯の狭間に、本来坂田へと向けるべきだった幾つもの言葉と感情とを擦り潰しながら土方は声無き声で吼えた。
 (元はと言えば、てめぇが、)
 吐き捨てる所の無い、意味も、理由にもならない言葉を呑み込むにも苦労して、土方はその場に蹲った。
 それは未だ後悔には満たない呪いだ。"坂田銀時の排斥"、その約定に潜んだものの正体は、譬えるのであればやはり、先頃感じた通りに罪悪感に近いものなのだろう。
 だが、土方は選んだのだ。真選組副長である土方十四郎の暗殺を目論む内部犯を突き止め、そして排除する事を。
 こんなものは、その過程に過ぎない。欺きも嘲りも嘘も。それに因って己が感じる失望も。己が与える失望も。
 ……だから。仕方がない。







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